36話
八郎太はマッツに呼び出されていた。集合場所の大きな町の広場に来ると、マッツがベンチに座っていた。
「来たか、ハチ」
「はい。それで、今日は何の用件ですか?」
「ワクチン接種だ。定期的に打たなければならん」
八郎太は首を傾げた。
「ワクチン? 誰に?」
「強化兵はなぜか狂犬病にかかりやすい。定期的な接種が必要なのだ」
「はぁ……それで、どこで打つんですか?」
マッツは立ち上がる。
「では行くぞ。今日は大事な用事がある」
八郎太はマッツの隣を歩きながら尋ねた。
「最近強化兵の子たち前と雰囲気違いません?」
「そうかもしれない。以前は戦闘以外では基本的に。命令に従い、無駄な動きはしない。最近は違いが見られるな」
「アルヴァだけ、ちょっと違う気がしますけど」
「あの子は少しだけ感情の起伏がある。こないだから様子を観察している。こないだの戦闘でいい影響が出ているのかもしれん」
マッツは懐かしそうに微笑んだ。
「昔はもっと静かでな。これでも最近はだいぶ良くなってきている」
街を歩きながら、マッツは八郎太に話しかけた。
「そういえばハチ、お前は犬は好きか?」
「ええ、まぁ。もふもふしてて可愛いですよね」
「この街では犬が大事にされている。野良犬でも街の犬として大切にしているようだな」
「ええ」
八郎太は頷いた。
「絶対に悪さをするなよ?」
「しませんよ。ここの紋章騎士に伝えておいて欲しい話がある」
「なんですか? 突然」
「まぁ聞け。ある時、別の街で子犬がいじめられ、殺されたという噂があってな」
マッツの声が低くなった。
「黒いスーツを着た紳士が現れて、その騎士が殺されたのだ」
「え、犬好きの人がキレちゃったんですか?」
「キレたことが問題なのではない。その男は駐屯地奥深くにいる特殊部隊の男だった」
八郎太は息を呑んだ。
「つまり……?」
「基地内のセキュリティが強い部隊待機室に、どこからともなく現れて屈強な精鋭たちを瞬時に制圧した。殺そうとした者は殺し、素手で立ち向かう者には素手で、刃物には刃物で。目には目を、刃には刃を。圧倒的な力で戦った」
マッツは空を見上げた。
「生き残った者は言う。後光が見えた、聖人のようであったと。風貌がどこかの救世主に似ていたとも言われている」
「すごい話ですね……」
「その話を与太話と思ったバカな奴が、度胸試しにまた犬を殺した。黒スーツの男は現れては加害者を殺した」
「理由は?」
「単純だ。やつの犬を殺したから。殺した犬は、男がかわいがっていた犬たちであった。後でわかったことだがな」
八郎太は黙って聞いていた。
「その男はいつもどこかに消えてしまう。町の住民はたまに見るそうだが、それほど広い街でもないのに住人登録にその男はいない。不思議な話なのさ」
「なんかの怪談話ですか、それ?」
「違う。犬は殺すな、愛でろという教訓さ」
八郎太は笑った。
「俺はそんなことしないから問題ないですね。犬は好きですし、もふもふですしね。懐かないのは遠目で見て愛でます」
マッツも笑顔を見せた。
「私も犬が好きだ。本隊でも飼っている。名前はジェネラル。階級は三等兵だ」
「ややこしいですね」
「彼は俺たち騎士団の家族なんだ。会いたいのだ。話をしたら余計に会いたくなってきた。老犬なんだが、元気な奴なのだ」
「俺も会ってみたいな、その子」
「シェパードなんだ。凛々しくて、それでいて優しくて可愛いのだ。番犬をしてくれたり、マスコットであったり、泥棒だって捕まえたことがある。部隊の人間をすぐに覚える。下手なAIセキュリティロボより優秀なんだ」
マッツの目が輝く。
「ある時は仕掛けられた爆弾すら見つけた。訓練なんてろくにしていないのにだぞ? 我々が日頃から弾薬や爆発物を扱っていて、適当に扱う作業者に怒鳴り散らすチーフがいたりするからな。その姿から、いつの間にか危険なものだと認識したのだろう」
「よくできたお子さんで」
そんな他愛のない話をしながら歩いていると、八郎太はマッツがカバンから取り出している物に気がついた。
「その、犬の散歩の時につけるリードみたいなのは何ですか?」
マッツは少し慌てた様子を見せた。
「あの子らに気づかれるから余計なことを言うなよ。これは機体通信用のケーブルの試験だ。そういうことにしておいてくれ」
「は、はぁ……」
八郎太は納得できない顔をしていると、マッツが腕の傷を見せた。
「世話をしていたら、腕の傷がひっかき傷だらけでな」
「大丈夫ですか?」
「こんなのすぐナノマシンケアで治る」
マッツはニコニコしていた。
「何かあったんですか?」
「ワクチンをアルヴァに接種しようとしたら、古いタイプの注射針しかなくてな。仕方なしに打とうとしたら大騒ぎされて、大量のアンプルを破壊されてしまった」
「あぁ?」
「いつもなら他にもストックがあるんだが、あいにく本隊から離れていて無いのだ。なので、気がつかれないように動物病院に行く」
八郎太は驚いた。
「動物病院に?」
「動物病院へは行ったことがあるか?」
「ペットは高額ですし、許可がないと飼えませんでしたし。こっちの都市ではペットの新興宗教団体が煩くて……」
「そうだな。普通の連中は病院には恐れ多くて近寄れないくらいらしいな。ペットは神聖視されておる。人類の最良の友としてな。大事にされているのだ」
「機材もワクチンもあるのが病院だからな。現状でワクチンを打つには病院に行くしかないのだ。以前に病院で打った時でな、古いタイプの注射針でな。その、なんだ、嫌な記憶として残っているのだ」
「強化兵って痛みに強いとかありませんでした? と言うか感情とか薄いはずでは?」
「そのはずなんだがな。気がつかれるまでは病院と口にするな。よいな、くれぐれも言うなよ。聞かれたらまずい」
「あ、ハイ」
「ついでに我々もワクチン接種だ。ハチはしたことないだろう? 一応だ、一緒に打っとけ」
「この世界にもあるんですね、そんなの。ナノマシンで何とかなりそうなのに」
マッツは説明を始めた。
「箱舟計画。ありとあらゆるタネやDNAなどを保存した移民船というのがあってな。ウィルスまで保存していたのだ」
「なんでそんなものを?」
「研究用だな。新天地で似たようなウィルスに出会ったら被害がでかいし、早急にワクチンが作れないからな。だが、移民船が転移してきたのか、何かのデータ情報から生み出されたのか、詳しいことはわからんが中央にそういうモノがある。だから念の為に、我々も打っておくのだ。それに何でもかんでもナノマシンに頼るのは危険だ」
八郎太は少し不安そうな顔をした。
「うーん……」
「どうした? お前さん、注射は嫌いか?」
「なんか苦手なんですよね」
「チクッとするのは古いタイプだ。今出回っているタイプは痛みはない」
「ちなみに何のワクチンです?」
「狂犬病だ」
八郎太は驚いた。
「狂犬病たって、この子らは人間ですよ? 動物病院に人間用のあるんですか?」
「体内のナノマシンプラントがうまいこと調整してくれる。動物用で構わん」
「ナノマシン自体がウィルス除去とかしてくれればいいのに」
「そういったモノはあることはあるんだが、全人口に対して配布するにはリソースが足りなさすぎるのでな」
マッツは足りないという意味であろうジェスチャーを手で表現していた。




