18話
見上げるほどの巨大な壁が、空を切り裂くようにそびえ立つ。
太陽と風に晒された壁は、剥がれ落ちたセメントの塊が鈍い灰色の中にまだら模様を描いていた。
建設途中で放棄された錆びついた金属の骨組みが、施設の巨大さを物語る。
その壁は、外からの脅威を防ぐ防壁として、そこに存在している。
八郎太は、喧騒から逃れるように、都市の端にあるこの外壁に来ていた。
遠くから聞こえる、奇妙な風の鳴き声。
それに呼ばれるように荒野に目を向けると、くたびれた掩蔽壕が崩れるのを見た。
彼の目の前に広がるコンクリートの大地はひび割れ、埃を被っている。
まるで巨大な滑走路のような無機質な空き地。
航空機でもあれば、発着所になりそうな雰囲気を漂わせていた。
整備場の熱気とは無縁の静けさの中、さらにその先には、幾重にも広がる塹壕地帯が見えた。
埃っぽい風が、再び通り過ぎていく。
帰還した部隊の整備でごった返す格納庫から追い出されたラヴァリー達が、街の外の壁際に追いやられていると聞いていた。
八郎太は待ち合わせで指定された辺りで、ラヴァリーを探していた。
そこには8脚のストライドユニットが脚を畳んで休むように待機している。
「たしか、この機体はラヴァリーさんとこの機体、だったよな」
待ち合わせ場所はここで間違いがないはずだから、とりあえず誰かいないものかと人を探してみた。
周りには整理された物資が置かれていた。
配給された補給物資なのだろうと八郎太は考えていた。
物影に誰かいないだろうかと見回すが誰もいなかった。
「ま、誰かしらいるだろ」
とりあえず機体の中の人にでも聞いてみようかと思い、ステップを見つけたので近づいていった。
俺は何度繰り返せば良い。
誰かの低い声が聞こえた気がした。
ストライドユニットの搭乗口のステップを登り、開いていた扉のそばの壁をノックする
「すんません声が聞こえたもので、こちらに誰かいるのかと思って」
「中に入れ、とスピーカからアナウンスされる」
中に入ってみるとマッツが端末を操作していた
「整備終わったんでデータ持ってきました。確認お願いしたいんですけど……ラヴァリーさんはいますか?」
「話は聞いている。ようこそ。ワイルドハントへ。それは俺が渡しておく。少し待っててくれ。今は良いところなんだ」
無機質な調整室の、ガラス越しではあったが、ひんやりとした清潔な空気感を感じる。
その中心に、半透明の銀色の筒状の装置が横たわっていた。
医療用に見えるチェンバーには。少女が静かに横たわっている。
ふわふわとした銀色の髪が、重力から解放されたかのようにふわりと広がり、チェンバーの壁に柔らかく触れていた。
八郎太は機体調整の時に見た、彼女の閉ざされたまぶたの下にある茶色い瞳を思い出していた。
顔の部分だけが透明なドームで覆われ、その安らかな寝顔を露わにしている。
その下、半透明の光に包まれた身体は、外からははっきりと見えないが全裸であることが見て取れた。
無防備な姿であることから治療中なのであろうと予測できた。
治療中であることに気がつくと、まるで彼の鼓動であるかのように、室内に規則的なリズムを刻んでいる生命維持装置の静かな駆動音が耳に強く聞こえてくるようになった。
「あの子、大丈夫なんですか?」
「命に別状はない。強化兵は簡単には死なない」
「この子は感情が1番戻ってきていた。何度やっても慣れないな。瞳に感情が出ていることを感じることがあった。それがまたレベル2まで低下する」
「レベル?」
八郎太はマッツの言っていることの意味がわからなかった。
だが、その重苦しい空気が質問を許すようには思えなかったので言葉を途中で止めた。
部屋を隔てる壁の透明な窓の向こうで、ラヴァリーが点滴を交換しているのが見えた。
彼女の手に握られた点滴パックの中身は、噂に聞いた緊急修復剤、その黄金色に輝く液体だった。
滅多にお目にかかれない代物だと、どこかで聞いたことがあった。
その貴重な液体が、惜しげもなくラーズの身体に注ぎ込まれていた。
「そいつのおかげさ。これで身体は治る。」
八郎太の視線に気がついたマッツがその意図を語る。
「だが、感情がな。無理して治すわけだから脳に負荷がかかる」
「あの子の様子であまり驚かないで欲しい」
「そろそろ起きるか」
目にハイライトがない感じがする。無表情さが怖い。
この子は機体整備の時に数回会話したことがあった。
その時に見た瞳の色を覚えている。
ここまで無感情な瞳ではなかったと記憶している。
「調子はどうだラーズ」
「問題ない」
「記憶はどうだ?」
「落盤したのは覚えている」
「1日様子を見る。戦闘能力の確認は明日からだ」
「やみあがりですよ? 」
「この子を普通の人間と思うな。強化兵だ」
「戦うために存在するし。この子も闘争を求める」
「そうですか」
納得したくないが、今の俺にはどうすることも出来ない。
言葉にならなかった気持ちを飲み込む。
ラヴァリーが無言で部屋に入ってきた。
思い詰めた表情を目にすると、重く苦しい彼女の内情が手に取るように理解できる気がした。
感情を押し殺すようにラヴァリーは平静を装って話しかけてきた。
「やぁ、来たね。八郎太くん。歓迎するよ」
ラヴァリーは感情を切り離したかのように事務的な口調で話す。
しかし、その言葉とは裏腹に彼女の瞳には静かな重さが宿っていた。
その二人をよそに、マッツは淡々と端末を操作していた。
「今日は休め、ラーズ」
優しい目をしたマッツがラーズに話しかけていた。
「了解した。休む」
「いずれにしろ、またお前と話せることは悪くない」
八郎太はその言葉を聞いてハッとした。
ラヴァリーに感じた重苦しさの理由に気がついた。
彼女はおそらく死ぬような状態だった。
それを取り留める技術が存在するがリスクのあるものであった。
また、この子は戦う道具にされてしまう。
それを思うと複雑な感情が押し寄せて言葉が出てこなかった。
八郎太はただ、その様子を見ていることしかできなかった。
「機体データを貰おう。そのために呼んだからな」
「どうぞ」
ラヴァリーに手渡すと、彼女は端末にデータを移し始めた。
そのうちに、ラーズが着替えて部屋に入ってきた。ラヴァリーと同じ、青みがかかった軍服であった。
屋外に出るように促されて、整備場の片隅の野原に戻る。
ストライドユニットの傍らには、いつの間にか他の強化兵たちが集まっていた。
重傷を負いながらも、すでに完治した仲間が目の前にいても、彼女らは表情ひとつ変えずにただ静かに待機している。
その光景を前に、八郎太はかける言葉を見つけられずに立ち尽くしていた。
すると、強化兵の一人がおもむろに傍にあったコンテナから何かを取り出し、丁寧に厳粛に並べ始めた。
小さな簡易テーブルと椅子がひとつ、そして2つのケース。
見慣れないその厳粛な光景に、八郎太が不思議そうに見つめていた。
「用意してくれているのだな。ありがとう、みんな」
ラヴァリーが強化兵に優しく声をかける。
「八郎太君、これから何をすると思う?」
「わかりません。ですが、何かの儀式かと思いますが……」
不思議そうに見ている八郎太にラヴァリーは静かに語り始めた。
「これは、戦没者たちに対する、我らからの敬意だ。今回の戦闘で少なからず戦死者が出ているからな。我々が生きているうちにしておきたいのだ。残ったものの義務であり、戦友たちへの追悼だ。それと、私のわがままかもしれんが、この子らは感情が薄い。だから死というものを、自分たちが、たとえ命を落としたとしても、決して粗末に扱われることがないと知ってほしくてな。我々の流儀での儀式となるが参加してくれると嬉しい」
ラヴァリーが端末を操作する。
その瞬間、八郎太の目の前の空間に半透明の文字が浮かび上がった。
「接続許可を」
八郎太は迷うことなく、浮かび上がった許可の文字に触れる。
アイウェアには帰らざる者の席と表示されていた。
強化兵の子たちが用意を終えると、ラヴァリーは厳粛に号令をかける。
「総員、整列」
全員が整列したことを確認すると、ラヴァリーは静かに身体の向きをテーブルへと変えた。
「戦没者達に敬礼」
八郎太はラヴァリー達に合わせて慌てて敬礼をした。
視線はテーブルへと向かう。
八郎太のアイウェアに儀式の詳細が送られてくる。
誰も座ることのない、空席のテーブル。
それは戦没者を悼むための特別な席だった。
一糸乱れぬ敬礼が終わると、静寂が支配した。強化兵たちは再び動き始めた。
赤茶けた大地にぽつんと置かれた、誰も座らない丸いテーブル。
これは、失われた命への変わらぬ想いと、永遠の敬意を象徴している。
風をはらんだやわらかな薄金色の髪をなびかせて、ラヴァリーは遠くの空に向かって敬礼をする。
ラヴァリーは敬礼を終えると静かに移動し、傍にあったケースからビオラを取り出して物悲しい曲を弾き始めた。
一人、また一人と、大きな箱から中身を運び出し、テーブルのそばに整然と並んでいく。
厳かな儀式が始まった。
最初にテーブルに近寄ったのは、銀糸の髪を背中に垂らした少女、ディースだった。
彼女は最小限の無駄な動きで、白いテーブルクロスを丁寧に広げると数歩下がり、そばに立った。
その橙色の瞳には、感情の機微は読み取れない。
彼女が置く、その純白の布の意味は、故郷から遠く離れ、皆を守るために身を捧げた、汚れなき魂と忠誠を象徴していた。
白いクロスが風に揺れるたびに、彼らの清らかな魂がそこにあるかのように感じられた。
次に、長い黄金の髪を頬にそっと垂らし、後ろでひとつにまとめたパティスが、ルビーのような瞳はバラを見つめる。
それは、遠い故郷で彼らの無事を待ち続ける愛する人々、そして彼らへの変わらぬ愛を象徴していた。
一輪の赤いバラを挿した花瓶を静かに置くと、数歩下がってディースの隣に並んだ。
続いて、肩まで届くゆるやかな茶色の髪を揺らしながら、テーブルのそばに立った。茶色い瞳が、手に持った皿のレモンを眺めていた。
このレモンは、散っていった兵士たちの、決して癒えることのない苦い運命を象徴している。
その小さなレモンと皿をテーブルに置くと、ラーズもまた、静かに待機する者たちの列へ移動する。
風が優しく流れるなか、銀糸の髪を持つディールが、手に持った塩の入った透明な小瓶を、そっとテーブルに置いた。その塩は、彼らの帰りを信じて待ち続けた、家族の流した涙を象徴していた。
それは言葉にならないほどの深い悲しみを物語っている。
彼女の橙色の瞳は、塩の白さから待機列へと視線を移し、また列に加わった。
そして最後に、柔らかな金の髪を持つミディアムショートの少女アルヴァが、逆さまにされたグラスをテーブルに置いた。
橙色が差す彼女の瞳には、もはや言葉はいらなかった。
逆さまにされたグラスは、もう二度と一緒にグラスを傾けることはできないという、同じ戦域を戦った者たちへの悲しみを象徴していた。
彼女はグラスを置くと、静かにバイオリンを手に取り、ラヴァリーの隣に立った。
最後にマッツがカトラリーをテーブルに置き、キャンドルに火を灯す。
その光景は、無感情にも見える強化兵たちの姿とは対照的だった。
彼らがテーブルに置いた物には、失われた命への深い追悼と、生き残った者たちの強い思いが込められていたからだ
ラヴァリーとアルヴァは静かに響く二重奏を始めた。
それは戦場で命を散らした仲間への鎮魂歌であり、決して忘れることのない、彼らの高潔な魂への永遠の敬意を捧げる曲でもあった。
厳粛な儀式が終わると解散となった。
去り際にラヴァリーから、明日は街で君の歓迎会をすると伝えられた。




