プロローグ
風が唸り、乾いた土埃を巻き上げていた。
「めぼしいモノはここいらなんだがな。どうだ? マエストロ」
地平線の彼方では航空兵器や誘導兵器を拒絶する鈍色のナノマシンに覆われた空が鉛のように重く垂れ下がり、今にも全てを飲み込まんとしていた。
装甲車に8本脚の歪な脚を取り付けたような軽量機体、その運転席側の上部ハッチが開き、戦場には場違いなほどの気品さと美貌を携えた女が現れた。
「新鮮な死体は多いな。使えるようにするにはここのらでは手間がかかるぞ。それにあまり良質な戦士はおらんようだ」
若くはないが通る声の男が運転席から答える。
荒野には深く掘られた塹壕が網の目のように大地に刻まれている。だが塹壕はすでにその防御効果を失い役目を終えたかのように崩れかかった土留めの補強板を晒していた。壁の通路を吹き抜ける風は死の匂いを漂わせていた。
「御託は良い。使えるモノは居るのか? 居ないのか? 在庫は少ないのだ」
乾いた地面を通して微かな震動が伝わってくる。初めは耳を澄まさなければ分からないほどだったそれが、やがてはっきりと地響きへと変わっていった。遠く、しかし確実に迫り来る轟音。それは砲撃音であった。味方の苦し紛れの砲撃なのか敵の突撃前の準備砲撃かどちらのものかもわからない。
「こちらのは戦闘機能は死んでいるようだ。916信号ロスト」
乾いた大地を揺らす爆音が響き渡った。次に砂塵が舞い上がり辺りを暗く覆い尽くした。掩蔽壕に積もった埃が、振動でパラパラと崩れ落ちる。
「この戦線は駄目だな。指揮官が悪い。悪手ばかりだ。良い兵士がいてもこれでは、な」
掩蔽壕の影に身を潜めていた者は慌てて塹壕から逃げ出した。数秒後に凄まじい異爆発音を聞き音が消えた。背中に感じる爆発の熱の原因を確認しようと振り返った。
「026信号ロスト。716信号ロスト。これは、ブランBだな」
土埃の向こうから現れたのは、巨大な鉄塊の影。それは鈍く光る装甲をまとい塹壕を乗り越えようと無骨な砲身を天に向かって突き上げていた。深く掘られた塹壕は意味をなさず、鉄塊は止まらない、その重厚な4脚が地面を抉りながら進んでくる。
「目をつけていたモノは駄目だったか」
通信機が雑音混じりの声を繋げる。
塹壕から逃げ出した男は硬直して目を見開いた。恐怖、というよりはむしろ諦念に近い感情がその眼差しには宿っていた。逃げ場など最初からなかったのだ。兵士には死守命令が下されていた。
敵機は塹壕を乗り越え、その巨体が兵士を踏み潰そうと迫った時、突如、閃光が迸った。
「任務開始。戦闘を開始する」
通信が切られると同時に爆発音が多数発生した。
炸裂音と共に、空気が震える。塹壕が内側から弾け飛び、木片と土くれが周囲に飛び散る。煙が立ち込め視界を遮るがその煙の向こうで、連続して閃光が瞬く。
「先行隊は駆け回っているな。与えた試作装備も具合が良さそうだ」
金属と金属がぶつかり合う甲高い音が響き、塹壕はその衝撃をモロに受けて、もはやその形を留めていない。砕かれた鉄塊や塹壕の土砂や木片が宙を舞い、地面に落ちては弾む。
「当たり前だ。装備は私が確認した。それに駆け廻れと言いつけている」
女は厳しい表情を浮かべ荒野を見渡す。
「126信号ファウンド。当たりだ」
鋼鉄の四つ足兵器、旧式戦車の胴体に歪な足がついた自動兵器を味方の4m級人型兵器ヴァリアブルフレームが粉砕する。
「マエストロ。どこだ? 」
味方の人型兵器は勝ち誇り敵の残骸を天高く上げ勝利の余韻に浸っていた。だがその一時の余韻は無惨にも吹き飛ばされる。
「先のクレータ跡だ。そこだ」
8本脚の鋼鉄の獣からガイドレーザーラインが灯され対象を捉える。
「彼か? 良い死にっぷりだ。強い戦士であったんだろうな。よかろう」
傲慢、冷酷、無慈悲ではあるが熱のこもった視線の先に女は語りかける。
「お前に新しい⋯⋯意味のある戦場を与えてやる」
女は期待の眼差しを向け指を鳴らす。同時に辺りに物悲しくも静かだが、ゆっくりとした勇ましい曲が響く。鋼鉄の獣から出た作業用アームは眠る戦士を優しく抱えた。
「ワイルドハントの時間だ」
鈍く銀色に光る騎士風の意匠を備えたヴァリアブルフレームが颯爽と敵を撃墜しながら出現する。
「作戦領域到達、撤退中の味方の先に敵電波を確認。撤退中の者は急ぎ後方へ。電波干渉が少ないうちにゆけ。巻き添えを食うぞ」
その騎士から発せられた警告を聞いた者たちは可能な限り速度を上げ撤退を急ぐ。
「このままでは味方の被害がでます。もう少し敵陣を押したほうがよろしいかと? 」
8脚の多脚装甲車を追い抜きざまに敬礼をする。
女は返礼をして小隊を見送る。
「仕方がない前線を上げる。各機散開して叩け。これ以上被害を出すな」
通信を終わると小隊はバラけて獲物を探す猟犬の如く駆けてゆく。
混乱した戦場に砲弾の雨が発生した。戦線が破られ味方の被害を無視してでも敵の進軍を止めようとした無慈悲で苦し紛れの攻撃であった。
数瞬の静寂の後、再び進軍が始まる。
生き残った損傷し半壊した数機の鉄塊が立ち上がり、そのままにゆっくりと去っていく。
残されたのは荒廃した大地と瓦礫とその被害者達。
そして、遠ざかる轟音だけが、熾烈な戦いの痕跡として、そこに深く刻まれていた。
轟音が止んでから、どれほどの時が経っただろうか。砂塵がゆっくりと晴れていくにつれ現れたのは、もはやその原型を留めない塹壕線だった。土嚢は砕け散り、木材は無残に折れ曲がっている。泥と血とが混じり合い、悍ましい臭いが鼻を突いた。
辺りは深く抉られたクレーターと化し、その底にはまだくすぶる硝煙が漂っている。地獄の釜が開いたような光景だった。わずかに残された塹壕の壁は崩れ落ち、爆発で縮こまり身を隠していた兵士たちは土砂をかぶるもかろうじて助かっていた。
ふと、かすかな呻き声が聞こえた。泥にまみれた手足がピクリと動く。意識を取り戻した者が、ゆっくりと顔を上げ、周囲の惨状に目を向ける。その瞳に宿るのは、絶望と、そして、戦慄だった。彼らが死守しようとしていたはずの場所はもはや見る影もなく破壊され尽くしていた。
どこからともなく爆発音が広がった。それが終わると甲高い笛の音が響き渡った。それは撤退を告げる合図だった。
生き残っていた兵士たちはその音に突き動かされるように、のろのろと動き始める。膝を抱えていた者も呆然と立ち尽くしていた者も一斉に顔を上げ、背後の安全な場所へと視線を向けた。
しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。崩落した塹壕の残骸、敵味方の鉄塊、散乱する武器、そして倒れた仲間の間を縫うようにして進まなければならない。負傷した兵士は呻き声を上げながらも自らの足で、あるいは仲間に肩を借りて、必死に後方を目指す。顔は土と血で汚れ、瞳には疲労と恐怖の色が濃く浮かんでいた。
足元は砲撃で掘り起こされた土砂が積もる、少しでも油断すれば転倒しそうになる。それでも、彼らは止まらなかった。
背後からは再び地響きが迫ってきている。まだ見ぬ敵の影が、彼らのすぐ後ろまで来ているかのように感じられた。
「急げ! 早く!本体が来る前に逃げるぞ」
誰かの声が焦燥感を煽る。その声に突き動かされ、彼らはもつれる足を叱咤し、必死に走り出す。重い装備が肩に食い込み、息は切れ切れになる。それでも、彼らは走り続けた。
生き残るために、ただ、ひたすらに。