(続き)本文その4
「愚か者よ。既に逝にしへの小生が著作ぞ。今叙べたるは。譽れ既に錆びたり。
惟爾えよ。
小生が今、嘯きたる傍証は、インパルスが、ニューロンよりニューロンへと伝はってゐるといふ、客観的な事實観察に基づくも、もし一切の事象の観察であるところのこの意識が正確かつ妥当であると實証されねば、かやう諸考概=インパルス説による理叡の即物性及び無効性の証明は、まさしく無効にて候。(而して有効なれば無効なるか)
諸子らは言ふやもしれん、しかし實測の数値データに基づくものは客観性の極みにて異論の余地に非ずや、と。
慮られよ。
事實の観察や、實測データ分析や、数學的理論に基づきて實証しやうとしても、その数値やらが載る土俵は意識である事を。即ち意識それ自体証明済にし非ずば、それを用ゐて証明するは無効なる証明を爲すを。しかし、意識の妥当性を証せんと欲するならば、如何にせばよいか。
その爲には、意識に先んじて意識を証左せねばならざり。されども、さやうなことは爲せようものかは。いや、そもそも意識爾焉ならず。意識として表象してゐる諸々の考概の妥当性をも實証せねばならず。例えば意識に映ずる處の樣々の事象、抽象。適切やら本質やら妥当やらいふ諸考概らも實証せねばならず。いざや、さらに又、實証といふ手段に實証性のあるやといふ事及び實証といふ諸考概といふ事自体も又『實証』されねばならず。かやうなること、到底不可能事にて候。しかもこの類の問ひ、幾重にも連鎖し、無際限にあらんや。さやうなことよりも前に、小生ら、問ふといふやり方が無条件に是認されてゐることを批判し、問ひ糾すべきでせう。しかし又同時に問ふべきでせう。無条件の是認がなぜ不適切かを。いや、しばし待て、先に實証(性)が問はれてゐるに非ずや? さう、しかし。いやいや。されど、そればかりか、・・・・・・・・
かやうな思考は論理の定式に支へられております。しかし、論理の構築せる枠は正しいのでせうか。論理性とは正鵠を得てゐるものなのでせうか。しかし正鵠といふ評価方法及びそのConcept並びにConceptといふConcept自体も又正鵠を得てゐるのでせうか。實はこのような論及も又論理の〝正鵠〟さの判定の内にあります。という批判すら論理の運びの法則に従ふといふ条件の限定下にあります。と、我々の論理思考からは見え(解釈)ます。この法則、すなはち論理の航路、オペレーティング規則、これを仮に〝論考定款〟と呼びませう。しかし、この論考定款たるもの、改めよくよく顧みすれば、これが正しく義しいかをいかやう証せませうや。先程の〝意識〟と同じ矛盾に陥ります。
それは正しいか。だが正しいとは何か。いかやうなるかたちか。その出身は。いずこよりか萌えたる懶惰の蘭か。それは華に過ぎないのではないか。だが華に過ぎぬとは?
我らは論理を証する方便を論理の他に持たず。しかれど未だ証せられざる論理と云を用ゐるは適でせうか。とは云へ、用ゐるを不適と云は論理によりて導かれたる也。不適と云能はずと云も又それ論理の導く處。とは云も亦復同。これ次に詳述す。
『論考定款は既に思考の根源にしありて眼自体に若かず、自身自体にしあらばこれを批判する事、論考定款に拠りて無効なりけり。批判さるるべき対象たる論理に批判する資格莫しと云はそれ論考定款に拠り規定さるる處也。それ故論考定款を批判の対象とせしとき、唯一の方途である論理は論考定款によりて論考定款を批判する資格を失ふ。論考定款が論考定款を批判する資格を剥奪せし。されば誰が其の資格を剥奪する資格あるや否や。論考定款は依拠するに足らずとぞ断言するは是なり否なりや。誰しもえ答へず。
そればかりなるには非ず。この懐疑も又既に論考定款に依拠しをりますれば』
論考枠(かたち・思考の在り方)Logic Schemeを凖ふ定式Formula免れざるべし、とかやいふも亦復如是。作麼生。非知也。否。さりとても。何かは。とてもかくても候。
畢竟、何處にも能はず。しかし又、能はずと断ずるも又論考定款に準ひて導かれたる帰結にしあれば是ゆゑに之ならず。隹れも又。限りなき。可不可も逝かず、とてもかくて候といふに匀しき。Rationality Contradiction合理性矛盾。判断停止さへも撰むべきに及ばず。及ばざるとふさへ言へるかは。逝くも逝かぬも爲すべきに非ざるや。非ずにさへ非ざるや。知るすべなし。虚宙に身も裂けずかは。
就いては、小生がresearch card(MS ff.126-33r-v)より一部此處へ転載す。
『すなはち解決不能、了解不可能の事態にて候。是非にも可不可にも帰結す處あり得べからず。理叡及び理叡性を不可解也と批判するも、その批判する論理性、理性が既に魑魅魍魎たる無念哉。是れ何處にか逝くべきや』
それ、畢竟、さやうなる處へ、小生らを導く絡繰りゆゑに、さやう爲すに若かず。異互ふかは。 不也。
違はざる見ゆ。實にさやうなる考概に泛ぶやう、絡繰りされてゐるがゆゑに、さやう泛ぶに若かず。
多くの現實的なる民衆們、意味も根拠もなき慣習的なる通俗の侭に信じて思考する輩は小生が説を嗤ふ。
善哉。
さにしあらばヒューマニズム・テイストの反論も復た若く非ずや、
『さりとても人、紛れなく現實に苦しみ、切實を感じて候。隹れを認めぬは、到底不可能事にて候。
空性脱自論、畢竟戯論也焉。知らずとも支障なし。人悉く活命す。現實は粛厳たる不動非情の事實として現に實在爲。若と實存爲。
脆弱な理論を超越し、不動也。まさしく眞實也。抑々一切考概理叡性に於いてさへ空莫也。とてもかくて謂はんとても、感情が現に實にさやう感ずる。
現實は変更しがたく、厳然と聳える絶壁。他人事の顔をして非情無表情。かるがゆゑに現實なりとこそ嘆かるれ。無慈悲にこそしあれば眼を逸らすことかなはざれ。
さやう吾らの切望一瞥すらせず、傍若無人の他者と叛きて非情の暴虐を爲すにかくも強く現實性を感ぜらるるにあらずや。
事象に還れ。犬蓼を詠ふな。君らが敷衍、繫文縟礼、好事家の戯れ』
いふを待たず、さなり。現實は非情なる他者なり。異感の覺ゆればおぼゆるほどありありリアルなり。それゆゑ、原的直観のまま屹然として聳え、諸考概を附さんと妄情せる人間どもに埴のやうな無表情を露呈せり。只管迫眞爲。それ唐突也。忽焉と自らを措定する。一切抒情、諸考概を排斥し、爬虫類よりか情なくその表情なく、物的無味乾燥し、埴の面の若く虚空なる物性、非知にしあれば、人は知る、これ捉へがたく、理叡を絶し、畢竟、空也、と。
空性こそ不可捉の極みにしあれ。最たる現實の現實性の眞髄にこそしあれ。
されば又君はいふ、
『呵々大笑。さやうともいふ哉。とてもかくても候。只唯現實焉爾已也。
右手を伸ばして果実を掴めば右手は伸びて果実を掴む。歩みて水を汲まば歩み寄られし水汲まるる也。
何もナシと想ふも人の自由。想はぬも自由。それはまかりならんといふも自由。一方位のみなる事をも含む全方位性也。それが現實。眞實は只唯只管現實也』
さなり。慥かに兮。それが人を駈り立たて令ん。人を無際限焦燥へと駈り、卽ち永劫脱自之志向の面目躍如たるに爲非ずや。
而れども貞観正國寺の僧曰く、
『しかるに、拙僧の鑑みるに、その人道的慷慨も又復、意識に唐突忽焉と措定されたる處を叙するに若かず。
云、自爾焉。廼隹れ経緯もなく傍若無人に唐突、忽焉に自ずと爾なるものを云。
理叡と呼ばはれ、理性と做るるも、それらに爲做れざるもの、抑々理叡理性と云が忽焉唐突に非ずや。事象と異互はず。異互ふかは。双説乃ち「おなじ」也』
自ずから現はると云か、與へられ、かやうな『観ず』と云、特異なる場に擱かるる気雰せる哉。
さやう覺えを強ひられ、さやうな『考概』と云處に擲たれ、棄てられ、現處に存する直截の観受をば拭ひ難し。斯く叙するさへも、かやうなる判断へ搬ばれて、若くも叙する也。
更にさやうさへもさやうなる判断へと搬ばれて、さやうにいふに若かず。其處にゐると云に若かず候。
さやう観ぜらるれば也。
しかれども、抑々(そもそも)小生ら『観』と云の何焉かを不知。それただ力尽くに小生らを襲ひ、現に實存を振り裂き上げて現はるるものにしあらば曰くそれ定義しがたく、いかやうな状態と云かを識らずや。
現今如くありとてもそれ、何をか叙べたる事なるものかは。糺すと雖も、而も只管に『知り』て『知り』、侭爾に蠢く惟ひと云もの、乃ち只管『了解』と云ものに若かずや。非知也。
抑々(そもそも)知るとや解るとや云これ烏や。何をか爲したること爲るや。問ひ求めて睿らめらるるものかは。解らずとも生きらるれば、ナンやら不解らざる(ですらない、ですらも、)をわかる侭爾に活きる爾已に候。生きざるを得ずば。死して何となるものかは。
而れど妄執欣求是已まず。人は日々乳と蜜の流るる安住の地を求め、あたかも宙空に足場なくば足掻きて藻掻くごとく哉。アルカディアを求め、焦燥し、充たされず、涸渇し、あくがるる哉。
さりとても、いざ彼の地に到らば心安らぐ事心が赦さず、呵責す。即ち駈られ懐疑し壊し滾り焦がれ、血ヘド吐きつ砂噛みつ、まろび汚泥に塗れむ。人、无きものを爾焉求め、在り得べからざる新別天地を求問す。廼脱自への性が令爲や。空を欣求し、拡裂強大超剰増膨精緻濃鮮睿晰燦を欲して身も裂き砕き天翔躍らんや。
路傍の石、岩に生えたる雑草、茅葺屋根に生す苔、小さき急く清ら流れに糸なす深緑の藻、雨に濡れ雫す松毬、蝉の抜け殻、蹲踞の水に泛ぶ黄色き朽ち葉、放擲され緑苔す茶碗の欠片。
迺龍峯寺僧、眞巌弟子、龍鳳が龍呑神社に奉献せし公案録肇輯第十七段「叙無記」に曰、
眞曰、文趣眞奚焉にしあるとも、究竟也
龍曰、巻子皆同じう究竟ならずや
眞曰、隹文究竟の所以※
※異本眞神神社眞倉蔵版には「隹文特異究竟の所以也」とある。其解釈同義。
とても、さやう観ぜらる丈の事に若かざるや。廼『小生らに於いては』と云限り也。卿知るや、他者他處に於いては異樣爲るも可焉。小生之緒言を想起せられよ。参考迄に左へ当該文を再掲す。畢竟、小生に於いてはさやう也、と云丈乃事也。更に又斯く云之れさへも同樣亦復界隈限りにての話にして而も観ぜらる丈乃事に若かず。繰り言也。
参考(先叙抜粋)
しかしまたその前に序叙についてのご聴従を願う次第。小生がこれから語るところの神説は一切断ることなくとも、『小生らに於いては、と云う限界附きのものであること、飽くまで小生らにとってはしかじかであると云う、小生らに観ぜられる界隈で有効と限るものであり、ただ小生らに直截そう云うように観ぜられているまでのことに過ぎない』と云うことを厳密に定義して措かせて戴きましょう。(以上)
語を結ぶ方なし。そも又結語ならずや。さらば結ぶ方なきもなしならずや。抑々(そもそも)なきや否やも定め難し。然れど然りとて然も、あゝ。解り兼ね候。え答へずなり侍りつ。唇半開く侭止す。云ふ處廼『小生』と綴らる此活字、惟が此處迄縷々(るる)語りきたるも、此の爲体、竟に未遂不収。
さても汝、曰莫れ、『是叙説須きものかは。論を弄し、得る處なし。實に廻りくどき御仁哉』と。
虚し。抑々(そもそも)烏や、さやういふ考概は。いやさ想はざると云ても。又非想非非想處とても。
問へ、曷やそれ、と。虚しと想ふも虚しや。虚しとは曷や。曷やとは何ぞや。不知(し~らな~い)。民衆們の爲す意味根拠なき慣習的妄考と変はらじ。常日頃民衆們を蒙昧とぞ難ず小生とて睿智の側に在らず。民衆們が通俗の侭に信ずと変はらじ。同じ也。而して何をか爲可し歟。
人、堂々果敢すべし。
同じも違ふも『おなじ』也。『たがふ』とも謂はずかは。眞仮虚實正誤妥当不当合互和異是非肯否亦復如是。而して空と云了解さへ爲す勿れ。
只管現實焉爾已哉兮鴛。
人、義しきと以ふを爲すよし。
故飛瀧檜原乃樣清爽たれ。さすれば今考へらる限り最善、最高、最大、最強、最裂の脱自へ、幸甚へ、涅槃爲樂做す異更事无き狂騒乱舞の猛疾へと、静謐され給ふこと必定に候。
又顧みすれば、その片鱗、レプリカ『卯花墻』の土味にてさへ陰翳深く馨り候。未曾有 微妙の法悦あり。
碗を賞味し、こと静かに参入す。
愉しからずや」
「はあ。
そうですか。
いや、ご尤も。
いやいや、ですからね、常々思っていたにはいたんです。
骨董茶具の愉しみや、こだわりなんてものは、わたくしにはちょいと高雅すぎる趣味だな、ってね。
いえ、もうよいのです。お話すべきことは全部お話させて貰いました。
色々お世話を戴きましたが、何と申しましょうか、いかんせん昨今の株価の下落、銀行の貸し渋り、円安、不景気、商売も年々縮小いたしましては、わたくしがごとき者の道樂なんぞは、いやまったく以て一番に年貢の納めどきと相成りまして。
さようなわけですから、はい、もうともかくもこれにて、悪しからず」
躙口がぴしゃりと閉じられた。飛石を逝く跫がし、それも消えた。小雀の声。
沈として影も動かぬ茶室の畳の上に置かれた茶碗。茶筅とともに、碗の口縁に架けられた茶杓。
それは白竹の一本樋で、茶入れから抹茶をすくう爲の細い竹箆なのだが、中ほどに竹の節がくるように誂われ、そこが少し持ち上がった、蟻腰と云う見掛で、丁寧に漆拭がされている。




