(続き)本文その3
「善哉。
仰るとおりです。体験です。一刹那たりとてもこれに触れ、ましてやつかむことなどは夢に於いてすら爲せない。
だが確かに見えてはいる。見えているのに、匂いがするのに、触れられ、聞こえているのに、舌尖の味蕾に沁みているのに、つかめない。心鏡に映じながらも、把捉できない。それは捉えた瞬間には既に喪われ、異樣を做している。だから、つかめない。そう感じる。さようなことがあってよいものか。しかし日常的現實に、当然のようにありふれている。
だからむしろ、捉えられるかどうかと云う以前に、捉えると云うスタイルに自家撞着があるかのようにすら惟える。
無論、捉えられないのは、時間性の爲でもあります。さっきも叙べたとおり、この碗は一秒後にはまったくの同一物とは言えなくなります。一億分の一秒後でも、一兆分の一秒後でも事情は同じです。一瞬たりとも同一性を維持して止まるなどと云うことなく遷移し、移り変わりに境目と云うものがありません。それがその者であると云うことが、既にそれ以外の者であることを含んでいるかのごとしです。
ただし仮にさような時間性と云うものがなかったとしても、汝爾が『不可得』と言われたとおりに、事象は同一性を維持しないかのごとく捉えられない。それは先にもご覧じのとおりです。同一性は一瞬に於いてすら維持されることなく、メソポタミアの原風景やら魚の鱗やら能樂やらセピア色したシテ島の古写眞やらが同一瞬に燦然と氾濫する。蜥蜴の移ろう背の色の若く、無限の同時多義性として受け止められている。
あたかも捉えると云う形式自体が喪失の一形式のように感じられ、原的に絡繰りが仕組まれているかの気分がする。
さて、かような樣相を眼前にして小生らは考え込まざるを得ない」
「別に、わたくしは」
「戯れ言を申される。
よいですか。これは人類、畢竟の課題の一つです。一大疑惑です。烈しく追究され、熾考されなければなりません。当然です。
もしも同一性を維持しないならば、すなわち変異するのであるならば、通常は時間の流れを伴わなければならないが、それがなくして同一時に異樣を做すとはいかなることか。時間と無関係な変遷異化など思い描けるでしょうか。
できません。だのに時間性に関係なく、同一時間内に変異するかのごとく映る。どう云うことでしょうか。何ゆえにか。さあさあ、お考えあれ、お応えあれよ」
「あ、あの、想像すら及びませんが」
「ふ。
一つ考えられるのは、自然が同一の瞬間に於いても同一性を維持しないことが自然の做す戯れであるとする説です。だがしかしお待ちあれ。いったい、小生らが観ているものは、ほんとうに自然そのものなのでしょうか。違います。内奥在する動機の発顕が累積された世界観です。その『自然』像です。脳髄の、脳神経細胞の働きの効果の内存在としてしかあり得ない構築物です。
だがそうだとすれば、これは奇異なことです。要請による製作物でありながら、自己都合の創作物でありながら、自らの配慮を欺くかのごとく収まらない。自ら志向に異逆を做し、かっちり嵌まったと云う感じを起こさせない。それゆえ焦燥させられる。激烈に求めさせられる。もっと精緻を、もっと明晰を、もっとリアルを、もっと一般客観他者性を、と際限なく求め続けざるを得ない。
どこか作爲的ではないでしょうか。策略的陰謀的ではないでせうか。人間に仕掛けられた罠であるかのようではないでせうか。もしどうしても合致しないことが實情ならば、最初から合致しないことが自然として観ぜられ、収まるよう心が構築されておればよかったのではないでせうか。なぜそうではないか。なぜ小生らは同一性を維持する本質が做されずしてはものごとを捉えられないかのように思い込まされているか。
またこの疑問は何ゆえに起こるか。要請による創作物であれば自己の都合に合致せねばならぬと云う断定は、何ゆえ正論と思われがちか。公然の前提として条件もなく是認されてはいまいか。軌道のようではないか。またなぜ無条件是認はいけないか。問えば切りがない。顧みれば独り立ちする考概は一つとしてなく、理叡を授けられしこの魂魄には異叛の群れでしかない」
原註:理叡とは現象を本質のあるものとして解釈せしめる理性的な力。
以て現象を睿らかとし、了解させる力。由来は不詳だ。一つのFORCEであ
る。
編註:なぜかこの段に及んで唐突に理叡に関する註釈が入る。特に意図はないら
しい。かつて彼に訊いたが、「何ァに、ここまで書いていて弗と気になったから挿し込んだまでさ」 と云うことのようだ。
「ははっ、つまりは脱自への志向のせいだと仰りたい」
「っ、Oops! だっ、黙らっしゃれ。戯論を吐く莫れ。まだ早い。
よいか、すべてがかくも異逆剋逆に見えるはなぜか」
「いや、ですから、今も、わたくしは申しましたが」
「そうです。人間は一方で理叡を与えられ、また一方では異叛する群れに投げ出されている。それあたかも敢えて異逆剋逆を受難すべく仕組まれていたかのように。
では、それはなぜなのか」
「いやその、もうわかりました」
「いいえ、汝爾にはわかっておりませぬ。
よいか。すなわち収まりが附かないのではなく、収まりが附かぬよう、さように造られていたとすれば、どうでしょうか。ならば一切が収まり附かぬことは当然です。そしてまた収まりが附かぬと云うことは、収まりが附かぬと感じていることであり、裏を返せば収まりを附けたいと情欲していることであり、しかしそれでありながら遂げられないようにあらかじめ構造的に構築されているのだとしたら、人は限りなくより迫眞的な新しい眞實を追い求め、妄執する」
「ですから、それがお説の『脱自への志向』で」
「いや、そうは逝かん。逝くものかは。さあ、お考えあれ。
収まり附かぬよう構造されたればこそ、かくも一切が捉えがたく表象し、万象同一性がなきかのごとくに観が映じ、これによりて無限の諸考概が氾濫するかの見掛が生じてあたかも一つの対象が同一瞬内に数多の異他であるかに自己開示し、人は皆、この燦爛たる氾濫に駈られる焦燥を覚ふる。
『自然』像が常に、同一性なく無際限な精細巧緻の具体を顕わすかのように映ずるのは、これが爲です。自然は捉えがたく感じられる。
また焦燥によって諸考概が形骸と感じられ、具体實際を捉え切れない不出来な膠着物、一切論説は妥当ならぬと観取され、あたかも異叛の群れにあって異逆剋逆を受くがごとくに感じられる。
さあ、どうです。もっともらしゅう思えませんか?」
「はい、もう、さようです。いえいえ、お見逸れいたしました。参りました。ではともかく先にも申し述べましたとおり、わたくしは本日を持ちまして」
「終わりではありません。お坐りなさい。
思ってもみなされ。
實物に比して把捉がリアリティを做さない、と云う見掛が做され、欲求が終わらない。むしろ駈られ、拍車がかかる。より過剰に欣求して飽くことがない。魅せられたるとは、このような情態を謂うのではないでしょうか。
範疇表に収まる諸考概を以て観取されながら、同時多義ゆえに収まらない。把捉可能の外たるに見え、思いも及ばぬ精細巧緻が無尽蔵たるように垣間見られ、これに焦がれ、炙られずにいられない。
強い鮮烈を、烈しい明晰を、リアリティを、客観他者性をば求欲せずにはいられない。リアリティが持つ眞烈の光芒の魅惑に囚われるのは、これなればではないでしょうか。精細巧緻を求欲するとは、これなればではないでしょうか。
しかもこのことは原初以来、内奥に在する動機が外へ向かって顕在しようとし、さらにはより拡大しようと欲する超越への嗜好性、例外・新奇への志向、脱自態への志向と合致する」
「ですから、もう、それは」
「リアリティ感覚が人間を強く惹いて止まないのは、そう云った理由があるからだとすれば、小生らがリアリティ感覚を得ようとするには、客観的な、他者性に於いてしか得られないように感受させられるのも当然ではないでしょうか。
充溢した、生の瞬発的炸裂である迫眞性を欲するとすれば、理叡や了解の外にしかないかのように感じられるのは、その爲ではないでしょうか」
「はい、はい。まったく以て同感でございます。誠にそうであります。理叡やら了解やらの外、いやいや、そこが妙義でございす。
で、そこでなんですが、先にもご奏上いたしましたとおり、わたくしは」
「いかにも。
かくして人は無際限に外向を欲する。より自分以外を、ないものを欲して進化する。いったい、どこまで逝くのでしょうか。涯しなく何處まででもです。終わることは、許されていない。理由はわからない。自己超越の繰り返ししかない。偶然でしょうか、宇宙の膨張もまた当初科學者の出した予測に反し、今も加速し続けているのです。
ありとあらゆる矛盾を止揚し、弁証的に高次に翔け上がる。それ以外がないからそれが何であるかを考えることは不可能、すなわち止揚は止揚であって何者でもない。ただ現實に存在する唯一の力學原理です。
どうしてやめられましょうか。やめることなどできやしない。と言うか、他の状態であることがあり得ない。
より脱自的たらんと志向し、エクスタシスの幸福を求欲する、その意義一切は皆空であって、あらゆる論議の以前です。文字どおり諸考概の一切がその後にそれによって造られたからです。
脱自への志向を問い糾すことはできない。それがすべてであり、部分ではないから是非や可否にならない。
人間存在は違逆を作る装置です。意識は異叛しか爲せない。例外しか斬新じゃない。非情しか切實じゃない。他者性しか迫眞しない。客観性しかリアルじゃない。一般性しか現實じゃない。それが自己超越し、脱自だから。眞と云う文字が逆さ吊りされた斬首の象形であることを知れ。非業の死。無惨な屍骸。
「たとえ信じ難くとも、見たものはまさに見たのだ」
幸福とは絶対であって、疑っても意味がありません。實存する眞理です。論理などと云う脆弱なものではない。現實として實在している。是非を問うことは、虚論に過ぎない。事實として既にある。事實は動かし難く、いかようにもしがたい。さて汝爾、これをいかが感じられるか。
更に言わば、小生には、このような論外の論を認識すること自体既に快い。脱自的な歓びに貫かれる。
理叡や了解の外であるかの錯覚を覚えさせるからでしょう。即ち哲學的論議自体も、脱自的志向性によって衝き動かされた行爲の一つでしかない。
さようなまでに人間の欣求するところは脱自的志向に決せられている。人間と云う行爲の隅々までもが脱自的志向によって構築されている。それが生み出すリアリティと云う歓樂によって支配されている。
人には非情なるリアリティ、諸々の考概に染められない無記の事實が清々快と感じられる。
人爲から乖離した無情性が余りに多くの地域で神聖と崇め奉られている所以もこれにありませう。
古来本邦に於いても、神(かむ)ながらの道は清々を重んじ、元来は人爲の做せる社殿などなく、現在にもまだ、鳥居の尖には那智の御瀧があるばかりの飛瀧神社、或いは三輪山の山裾に鳥居が設けられるのみにて天照皇大神をお祀り申し上ぐる檜原神社などがありまするが、實にこれなども人の眞が致すところであります。
人爲虚し。いや、然し、さうでせうか? そもそも小生ら謂ふ處の理叡や了解も、飛瀧や檜原の御社のやう、無情なる即爾自然ではないでせうか。
慮られよ。意識・理叡・了解、そして感覺、これらは何でせうか? それらはまず事象を做します。価値分別を做します。考概を做します。小生は、これら全体を、畢竟、考概であると考えます。
根拠はありません。ただ、さういふ風に措定する、って丈です。
で、その考概ですが・・・
いったい、小生ら、諸考概が斯くなるすがたかたちに定められたる由を知らず。諸考概とは理叡を礎としたる論理を以て做されたるも、小生ら解する處、曷ぞやを解さずば了解ただ唐突。そもそも諸考概いずくにか理叡性あるか。殺伐たる物象とあらざるや。諸考概の本質たりて諸考概を支ふる原理たらん理叡、まさに理叡として観取され、實在し、了解を以て晰らめ、理叡性を帯びたるが、さてもよく顧みすれば、其にあるは『理叡』に若かず、その尖、漠としてわからぬまま。理叡性著しく乏し。『りえい』に若かず。理叡を做すとは雖も而も問ふに応なし。理叡性あるものかは。ふ。抑々(そもそも)理叡の理叡たる本質眞髄精神、維れ理叡性とやらを鑑みるに、之れ如何、異妙異物異端奇怪也。渺茫として空莫。蛇蠍牡蠣蠑螈や魑魅魍魎に候。小生ら日常、惟れを以て理叡性たる考概、すなはち理叡(明晰判明了解)を爲す。是不可思議に非ざるや。根拠性原因性原理性莫し。由来経緯なきが若し。あたかも唐突忽焉に見えざるや。
これはもう無知と言ふよりか、非知と言ふべきでせう。理叡が知といふものの眞髄を做せると措くならば、これ無明にあるとするは既に知る知らぬの問題にてはありませぬ。非知(知に非ず)と曰すべきでせう。
しかしながら、かやうな結論へ是非もなく導くは、畢竟、脱自への志向なのです。
非知なりと云、納得へと、かくも導くは、これ眞實にあるや否やにあらずして、只管脱自快樂ありやなしやに負うて候。
何よりかまずは結論ありき。よってこれに至るまでの経緯や根拠、理由や必然性一切が脱自を做す爲に仕組まれた絡繰りの爲の空架、形骸に若かず。いかにしてそのかたちを択んだかと求問すとても、得られやうなし。
かやうに理叡及び了解とも既に理叡・了解に非ざりてはや自然の風物に均し。諸々考概も又非知なる物的現象に同じ。是非もなし。
かやうに認識することの清爽快慶なること、及ぶものなし。脱自的快樂にしあれば。
小生らの知性一般をインパルスの伝はりといふ、物的現象として捉へるが快感にしあるは、既成の感覺に異叛すればこそ。物的現象を小生らの魂、感覺、知性、理叡と異逆するものと措くゆゑさよう効果あり。脱自への志向の御伎。
かつて小生が畢生の哲學大著に於いて斯く記せるもその快樂あれば。此處に精髄を抜粋し、試みに読み上げて進ぜませう。
『ニューロンの軸索にまでインパルスを伝えられ、その尖にあるシナプス小胞を刺激され、神経伝達物質(グルタミン酸とか)を分泌させられ、受側のニューロンの樹状突起にある受容体に向かって分泌物を発射させられ、受側被膜のナトリウム・イオンの伝達経路を開かれ、細胞外のナトリウム・イオンを入れられ、カリウム・イオン濃度が高かった細胞内のナトリウム・イオン濃度を上げられ、内外の電位差を逆転させられ、静止電位の状態を発火的現象せしめられている。
これを以て畢竟、諸考概とは奚ぞや、と糾されても答えようがない。ただ、唐突に了解が生じ、納得と云う心的事態が起こっているに過ぎない。精神だの、思考だの、理性だの、観念だのと言ったって黴の繁殖や菌類の繁殖と何ら変わらない。アメーバの分裂に同じ、ウイルスの活動との相違なし』
嗚呼! 言語道断、素晴らしい。歓樂である。大樂金剛不空眞實。素敵に候にて候」
「いや、そうですとも。いやいや、ごもっとも」




