(続き)本文その2
「いや、ご高説はあり難いのですが、わたくしは」
「承りかね候。
小生今や興趣の情が叙詩神のごとく鬱勃とし、いかにしてこれを叙べ尽くさずにいられましょうか。本日、汝爾にあっては一生涯の褒授の日となります。
さあ、神託にも等しい我が言説、ご聴従あれ。
しかしまたその前に序叙についてのご聴従を願う次第。小生がこれから語るところの神説は一切断ることなくとも、『小生らに於いては、と云う限界附きのものであること、飽くまで小生らにとってはしかじかであると云う、小生らに観ぜられる界隈で有効と限るものであり、ただ小生らに直截そう云うように観ぜられているまでのことに過ぎない』と云うことを厳密に定義して措かせて戴きましょう。
なぜなら前提となる諸々の条件を無条件に是認しない限り、小生らは一歩も捗めないからです。小生らは既に定まったフォーマットから出発するしかあり得ない、これを無効にしてしまっては宇宙空間で上に逝けとか下に逝けとか言われているようなものです。そもそも無効とか否定とか疑うとか問うとか糾すとか是非とか適正とか眞偽とか實証性とか既定とか客観とか判断とかそれゆえそうではないと云う論の運びとか、ロジカルな一切が既定のもの以外の何者でありましょうか。そもそもそれが何者であるかを言うても、飽くまでフォーマット上で糾すことでしかなく、小生らの直観するところによればフォーマットの適正を實証するにはフォーマットを外し、その外部の客観的視点から明証されなければならない、そうではない實証には實証性が缺如するとされてはいないでしょうか。そう云う論理の必然的運行もまたフォーマット上の定款でしかない。しかも、だから駄目、と云う判断も同じです。
で、だからどうしようもない、と断じてしまうことも同じ。こう云うフォーマット上の絡繰りや『フォーマット』と云う在り方・スタイルへの批判自体がフォーマット上でしか機動できないと観ぜられ、この外に逝きようもないから、この段に至ってはもうとてもかくても候、なような気持ちから『そう云うように観ぜられているまでのことに過ぎない』と無根拠未証左であることを断って擱くことが最大限の努力、小生らに直截そう観ぜられていると云う以上にはもう言えない、半端な断定です、と云うお断りです。
さあさあ、この問題は切りもなく、かつそれ以上には言葉も考概もありません。話を戻さねばなりません。宜しいか。いざやいざや窮極限眞實不虚大論議を大々々敷衍いたし候。
さて。まずは小生ら人間が何ゆえ世界を形骸と見做して倦み、リアリティなきものであると観取し、これに覚えず焦燥しているかを気附かせて進ぜましょう。知りて後となれば、外への解脱を欲さずにいられなくなりましょうぞ。
第一に諸考概を以て做された世界とは、これ比喩にすれば、静物画のごとしです」
「あれ、ちょっとお待ちください」
「時間性が考慮されていないと云うことをお考えください。
森羅万象は暗黙のうちに同一性が期待されている。一秒後も一秒前も、林檎はその林檎であり、あったのだとされる。人間の脳裏に描かれるすべては静止画像状態になっている。だが人間は当然ながら時間性を内々には考慮している。それゆえ感じているのです、實情に合わない、即さない。さように異逆を感じ、その心奥を微細に閲すれば苦しんでさえいるのです。また人が時に無常に想いを馳せることも、内的要請の一端と言えましょう。
どんなものも各々の瞬間のそれでしかない。ただし、ここで言う瞬間とは無限に短く、面積を持たないと定義される数學上の点に比されるべきものです。
よって諸現象は一瞬たりとも同一を維持する時間を有することもなく、『碗』が『碗』でいられる猶予はない。同一性の維持はなされない。
實際に碗をご覧なされ。直参なされ。小生の言葉に相違ないとは思われませんか。
而して事實、それが實際に無常だから無常と見られると云うのみではない。それもこれも皆、インパルスの内部の架空に過ぎない。仮設に過ぎない。とすれば、一瞬たりとも同一性を維持しないのは、人間内部に支配権を行使する遺伝子の作爲とも言えますまいか」
「インパルス?」
「脳神経細胞の内は外の組織液に比べるとカリウム・イオンの濃度が高く、イオン濃度の偏向が内と外との電位差を做し、静止電位の状態にあります。
ところがグルタミン酸などがその樹状突起にかけられると伝達経路を開かれ、カリウム・イオン以外のイオンの流入を受けます。そしてカリウム・イオン濃度が組織液より低くなると云う電位差の逆転が起こります。これが脱分極であり、発火的なこの現象をインパルスと謂います。
随時これによって諸考概が諸考概としての具象を做し、意識が生ずのです。大海原や薔薇やご飯の美味しさや風邪熱のだるさや足し算や夢想になるのです」
「いやいや、そうでした。いや、ご尤も」
「それがことなぞ、どうでもよろしい。
ご覧じあれ。これな『碗』を手にし、よくよく玩味されよかし。遺伝子作爲説に入る前に暫時、小生が叙説するところを身を以て取得せられよ。百聞一見に若かずとは實にこれ。
そうら、いかがか。この『碗』と云う奴の自己同一性のなさは。
小孔や貫入によって做された表面が丘陵地の起伏のようではないでしょうか。いや實際、これは一つの丘陵なのです。どうです。事象が事實であることの侘び寂びが眼の奥底を抜き透るようではありませんか。これは殆ど古経の墨の枯淡と思ってよいでしょう。
すなわちいかにもありがたい摩訶般若波羅蜜多心経の写本もまた、實在するは古びた紙本の上の、乾涸びた墨汁でしかない。
いかがですかな。
わからない?
そのとおり。
事實は不可得不可説が本来。かようを云、妙義と申す。
おのれが体験を振り返ってご覧なさい。よく閲されよ。
砂糖を舐めれば皆甘いとは言うが各人の感受しているものが同一かどうかは確かめられない、その人の味覚をじかに感受しない限りは。甘い、甘い、とは言うが個人の直截体験以外に眞の伝授はない。また顧みては汝爾が自己の経験を眞の意味にて言説分解し得るかをご考慮されよ。いったい、わかりようがありましょうや。
体験。その奥深いこと際限なし。事象に直参することの歓びに窮みなし。
この志野などまこと凡庸な碗です。日常の雑器と比べ、さして違いもない。常識的な鑑賞の見地から申せば味わいなど皆無。缼けて惜しまれることもない。さればこそ言語を絶し、狂裂なる無際限ならずや。實に、實に、實にさようならずや。
指尖で表面を愛でてください。ただ汝爾にのみ知られる妙に涵たされてください。
どうです。だが再び撫でてもその触感は二度とは繰り返さない。一会のみの邂逅です。いやいや、一刹那の接触に於いてさえ感受は到底一つ定義ではないのです。自然の做す微妙、それは古人の筆による茶掛のごとく甚だ深い。小生をして身も裂く焦燥に駈る静謐があります。
ご覧あれ。そこいらにある樫木や楠木と何が変わりましょうか。(が、庭前の柏樹などと禅の公案のごとく申さは、少々あざと過ぎて候)かような碗など卓袱台の上の飯茶碗がごとし。何をか言うべきことがありましょうや。されどまた、いや、さればこそあからさまにかくも深玄なる。
平常たるとは高く深い山奥に迸る岩間の清冽がごとしです。
岩魚の一匹が軽らかに身を翻し、さも愉しげに泳ぐ。水底の細石が眩いくらいに楚として空気中の物象よりも明晰に、濃く、鮮やかに映じる。魚は跳ね上がり、その尾鰭を燦めかせる。虹を閃かすかのような移ろいを做す。そうらそうれ、鱗の燦爛なるかな。
また一瞬、暗鬱な雲が過ぎって翳れば、魚影は金粉を漆で固めたような、若しくは螺鈿の底光りのような、滲むかのような燠火を做さずや。
大きな屋敷の昏い広間の奥に端坐する一双の金屏風の光とも異なるでしょう。どちらかと言えば、暗闇に置かれた蒔絵の沈鬱な雅を思って戴きたい。笙や篳篥の音が唐突、夢破るかのごとく二十畳間を貫きます。
さあ、そうなれば能樂の皷の拍たれ、背後の襖絵には峨々たる奇観の岩壁、松が枝を張る姿。(いよぉ~)
瞼の裏に泛ぶは樹幹の表が縄文式火炎土器のよう烈しく波打ちくねる老木です。その朽ち果て折れた巨幹が周囲に神粛なる沈黙の域を做します。赤茶けた磐に長く濃緑の苔、雨頻りで蕭々たり。シダ類の生える霧の軽やかな森厳、濡れた橅木の木膚と曇天の薄明かりに透ける照葉との妙。
さあさあ。ご覧じなされ。
雪さえ寄せぬ峻岳の尾根に巌の襞が做す過厳なる神性。蒼穹。熾るように白く輝く雲。無窮なる乾燥地帯、岩だらけの丘の群れ、強く晰らかで暗く見えるくらい烈しく濃い黄昏、大麦の原種の鬚が揺れ、風化による丘陵の深く複雑な彫りが做す翳、茜を帯びた鮮烈な黄金に染まる羊たちがわずかな草を食む。時が止まったかのようなこの悠久の風景は古代から何ら変わっていないのでしょう。日没終わりて天の河の壮大に囲まれ、大地とはこの大虚空に轟音立てて飛翔する土塊であることを知る。その凄絶な沈黙が聴こえませんか。
それは木皮を剥いで重ねたような杮板葺の粗い味わいが做すあの感じです。
ノートルダム大聖堂を背にシテ島の舳尖に立ってSeinの水面を眺める少年のいるセピア色の写眞。
またはミュートさせたトランペットを口を窄めて強く吹くことによってひずんだ音と做す技巧を凝らして作った音の触感のリアルさ。
さて。今叙べたような表象一切が同瞬に指尖の皮膚に感じられます。だがそれでも、いやそれだからこそ、これが単なる陶の表層の起伏でしかないこともまた慥かなのです。いかがか、汝爾」
「わかるわけがありません」




