本文『實存的分析による解釈學としての普遍的現象學的存在論』
― 本文『 實存的分析による解釈學としての普遍的現象學的存在論 』 ―
「うのはながき、ですか」
「そうです。
銘『卯花墻』。さよう呼び倣わされておりまする名碗があるのです」
「ほほう。で、こちらが」
「さよう、推定の限り同じ技法で作られてあります」
「そっくり、ではないのですね」
「及びもつきません。
本物は桃山時代に作られました。それに似せてくれろと曾祖父は頼んだらしいですが、そう言われて違わず造れるわけがない。眞似しようと欲して做せるくらいのものならば、もとより名匠が苦節など要りはしません。誰か見紛うものでしょうか」
小生はそう言いながら彼の顔を見ぬまま白志野焼を手にし、愛でる。岐阜県東濃地域、いわゆる『美濃陶』の類、淡黄白色の素地に長石釉でしっとり白濁した深みある光沢だ。
気泡の抜けた痕跡が数多あり、小孔と謂う。焼成の段階で釉の表にできる罅割れは貫入と呼ばれる。
素地に含まれた鉄分が赤い斑文となり、表面に幽玄れるが火色(または緋色)。ベンガラなど鉄顔料を以て刷かれた絵の上に長石単味の乳濁した釉薬をたっぷりかけて焼成すると、釉が半透明の白斑を做し、図柄がほんのりと泛ぶ。それが鉄絵である。
「わかる方にはわかるんでしょうねえ」
「ええ。しかしね、気にはしていたようですね。
高台をご覧なさい。そこに曽祖父自らの名と、年号の昭和二年とを刻ませています。
まあ、身内贔屓などと言われるやもしれませんが、けして人目を欺こうとしたのではありません。
それはさて置き、そう、古色がないと言われる。まったく道理ですよ。お見込みのとおりです」
「いやはや、ご尤も。いや、恐縮です。
しかしまあ、贋作と云うなら、いたし方もないところでしょう」
「贋作?
ふ。
されどそれなりによい」
「はあ」
「同じ碗はありませんから」
「そりゃ仰るとおりですが」
「おや、怪訝そうに眉を顰められる。疑義すべき余地のない事實と思われますが」
「無論ですよ。しかし」
「では、伺いますがね。汝爾はこれと同一の器物をどこぞかでご覧になったことがおありですか。
すなわちこれとまったく同じく一毫たりとも成分の種類や量の異ならない陶土(一塊の土を二つに分けても双方まったく同一と云うことはあり得ないでしょうね)を以て做されたまったく同じ起伏を孕んだまったく同じ形状の、まったく同じ志野釉の使われたまったく同じ色合いを做し、まったく同じ位置にまったく同じ小孔やまったく同じ貫入のある碗をご覧になったことがありますか。
あるわけがない。ないからです」
「まあ、科學的にと言いますか、厳密に事實と照らし合わせれば、そう云うようなことにもなりましょうが」
「科學も慣例も日常生活感情もへったくれもない。今言った以外の何者でもない。
だがこの碗も他の碗とともに『碗』の名で扱われている。『碗』などと、豪く大雑把にあしらわれている。蔽われてしまっている。一括りにはならない具象の精緻細密の燦爛が均されてしまっている。酷いものです。まこと悼ましき不粋。
だがそれでもいくらかはましでしょう。
もしこれが人間以外の生き物から眺めたなら、どうでしょうか。ただのかたまりでしかありません。茶碗も鍋も漬物石も皆同じです。自らにとって何らかの関係がない限りは。餌の入る容れ物なら好ましいもの、罠であれば危うきもの、そんな程度でしょう。鍋であろうと漬物石であろうと餌が盛られれば同じく好ましきそれなのです。
さよう鑑みればこれ認識発展の歴史とは、対象を精細化明晰化し際立たせ、独立させ、自己と隔てのある、自己の主観に影響されない自立的、客観的な存在に仕立てることであり、それはまた自己の狭隘を低く抑えて公的、一般化することでもある。分離独立を促し、他者化とも言えましょう。だがこの人間の認識運動の動機は實はその逆にあるのです。
分離独立させながら、同時にそれを認識することによってそれを取り込む。つまり従前以上に乖離したものを取り込むことによって自己を拡大し、自己肯定の諸元を増大させ、異他の範囲を減ずることです。
さて、話が飛びました。
つまりは人間より他者化のレベルが低い動物らにとって認識対象とは自分にとってそれが何であるかと云うことであって、自体が一般的に何であるかと云う情報を必要としない。まあ、よくよくは人間も同樣ですが、ともかくも人はそれ自体として独立した客観的な何かであることを受容してはいる。他者として存在することを是認することができる。それをそれとして把捉している。一応は。
そう比較してみれば、いかな大雑把な括りであしらわれているとは言え、いくらかまし、とは言えるのです。
しかし、これは人間以外を侮る意味ではない。どうしてそんなことができましょうか。『碗』と観ずる人間と、ただ好ましいものと把捉する動物らとでは實際、相違はあっても境目はない。
わかりますか。
『碗』を物として一般化し、捉えられる人間と、自分にとってのシグナルでしかない動物らとの『想い』の差異は存在するが、差異の境界線は明晰ではない。
小生は人間と動物らとのいずれの『想い』もともに諸考概と同じく呼びまするが、實情、兩者のそれを一概で劃すことがかなわないからであります。
なぜなら、諸考概の一切は、生物が生きて来た経験を累々と積み上げた歴史の産物だからです。その累積は層と層との境界線を持たず、無限とも思われる重なりを以て遺存するのです。
今日ある諸考概一切は、小生らが単細胞の生物であった時代(或いはそれよりも前)からの重層です。それは縦の重なりでも横の重なりでもない、奥行きの層です。
さあ、開けたままのお口をふさいで戴きましょうか。汝爾にお訊ねいたしましょうや。畢竟、我々の生きる世界をどのように考えられるか。
炙られた鮑じゃあるまいし、むずむず唇を動かされるのみか。
わかりました。いや、もうよい。ともかくもお聴きあれ。
たとえば生きるとは、世界を持つことに他なりません。他者からの干渉や他者を以て做す情、思料や活動すべてです。それなくしてはいったい、いずこへか足を向け、耳目を傾け、何をか志せと言うか。一切は他者との関わりに他ならない。自らの殻からの超越です。アメーバのような生物であっても、世界観を以て生に臨み、そこには既に諸概念の揺籃期の姿があります。先天的に内奥在し、いずれからともなく湧き出ずる動機に衝き動かされて世界を做し、世界へと超越するのです。
虫類が飛んだり、蠢いたりする運動空間や細胞内の有機的な化學反応も一つの世界であり、諸考概の太祖廟です。小生らの脳幹の上に爬虫類の脳髄があるように、数億年来、最も単純な諸活動から積み上げられ、その結果が今であり、我々は生まれ出でたときから既に全世界を知っているとも言えるのです。
世界観は『生きている』と云う現在形それ自体であり、生命発祥の動機を源泉として噴くのであって、外界の模写として生じるのではありません。
この奥在する動機が生命の物的原理である諸細胞の化學的反応にも遡れるとすれば、あらゆる物質的反応も同樣諸考概に連なると言えましょう。すなわち有機物、いやそれに留まらず、無機物さえ諸考概を持つと言えるのではないでしょうか。
これが発展し、生命を維持継承する爲に必要となる一定の刺激に対する反射、すなわち最も原始的な世界観となり、やがて行動と情動とが境界のない緩やかな分節を做して反射が内部的には感受としての情態を做し、他者は行爲を促すシグナルとしての存在となり、いつしかこれを概括、区劃して一顧の対象たる自立性、自分以外の客観的存在であると云う普遍性を附与し、独立した存在一般と做し、俗に言うところの諸考概となったと考えれば、境界の曖昧も当然と言えましょう。
實は小生、これら世界観の変遷史を概観するとき、この運動全体が自らの殻に留まる閉鎖性を拒み、より外へ解放されようと欲して解脱を求む志向性を有するかのよう観ぜられるのです。脱自態たらんと志向するかのよう直観されるのです。物質をも含めた全体がかよう運動すると空想するとき、まさしく宇宙開闢のビッグバンが既にその性を持って生誕したかのように感じられるもするのです。
宇宙が拡大し続けているのと同樣に、当然その一細胞である人間も、脱自態を志向し続けている。仮にそうであるとしましょう。
とすれば、到底諸考概の大雑把さに耐えられない。もっと際立って独立し、多くの情報を盛られ巧緻に、高次の完成に及び、より精細であるリアリティを欲す。より自己に関わらぬ他者的の極限を求める。
現在のように、一つ義を以て強いて収斂された平坦な諸考概に満たされない。より高度な他者像、より複雑な精緻な動的捉えがたさを欲する。たとえば」




