越水城
摂津・越水城
阿波と畿内を繋ぐ重要な要地──摂津・越水城。
かつては三好の出城として使われていたこの城に、講和に反対する一向一揆の急進派250が立て籠もったのは、つい先月のことだった。
だが、城に迫った三好軍の旗色は明らかに“戦”を意味していた。
1500──そのうち1000は四国・阿波から直接連れてこられた本軍。
残り500は、河内・摂津の周辺豪族たちに根回しして集めさせたものである。
城を囲む布陣が完成した日の朝、長慶はただ一通の使者を城内へ送った。
──「越水城を開城せよ。城兵は咎めぬ。無駄に死ぬ理由もなかろう。」
その夜、一揆勢は何の抵抗もなく、越水城を明け渡した。
戦は、一矢も放たれずに終わった。
「戦わずして勝つ……か。」
夜明け、城内に入った三好長慶は、小さくそう呟いた。
久秀は隣で、いつものように薄く笑っていた。
「一揆勢にしても、無益な敵を増やしたくはなかったのでしょう。……特に、“三好の怨み”に関わるとなれば。」
「怨み、か。」
「父君を殺され、同族から追われ……それを討たぬまま、殿が表へ出られた。
その我慢こそが、今の威光を形作っております。恐れられているのは、矢より“遅れてくる報い”にございます。」
長慶は口を結んだまま、城の南櫓から阿波の方角を眺めた。
「……三好は、ここからよ。」
久秀は黙って頷いた。
* * *
讃岐・白峰山城
讃岐の山城に詰めていた三好長逸は、越水開城の報を聞いていた。
「無血……か。随分と都合がいい。」
報せを持ってきた者が退出すると、長逸は腕を組んで天井を仰いだ。
「250の一揆勢が、戦もせず逃げ出したと……?」
信じ難い。それが率直な思いだった。
(越水は阿波と京を結ぶ城。そこに講和に反対する者たちが“偶然”集まるか?
……ましてや、城を壊すでもなく、拠点を放棄するだと?)
その背景に、何かがある──そう考えるのが自然だった。
(……あれは、何かした。いや、“誰かが”、何かした。)
思い浮かぶのは、あの男──松永久秀。
(あやつめ……。若殿の側から離れぬのも、策を弄するのも、自らが一番“近くにいる”ためか。)
かつて、長逸が若き元長に仕えていたとき、久秀のような陰の者は、遠ざけられるものだった。
だが、今の三好宗家は違う。長慶は、その“黒”すらも己の武器として使っている。
(……頼もしきことではある。……ある、が……)
胸の奥に、鈍く刺さる感情。
──嫉妬。
(わしが育てたような一存には、“地を守る役”が与えられた。
康長殿は、実休と共に政を学ぶ。……そして、あやつ・松永は──)
どこまでも、若殿の“影”に入り込んでいる。
(……長慶様。もしや、お前は、父より冷たい男かもしれぬぞ……)
長逸は杯を取り、口に運んだ。
冷たく、濁った酒だった。