叔父と久秀と
6月下旬 阿波 芝生城 密室にて
城の奥、障子を閉ざした小座敷。
外からは鳥のさえずりすら聞こえぬほどの静寂があった。
千熊丸は正座したまま、目の前に座る二人──康長と松永久秀を見据えていた。
その表情には、幼さはあっても迷いはなかった。
「……久秀。京周辺の情勢について、改めて聞かせてくれ。」
松永久秀は、いつものように薄く笑って応じた。
「は。千熊様のお許しを得て、ここ数日、私の古い伝手を使いまして……一向宗とのつながりのある者たちに接触を試みております。」
「一向宗……敵ではないのか?」
口を挟んだのは康長だった。
だが、久秀はあくまで落ち着いた口調で言葉を続けた。
「敵であるが、敵でないのが一向宗にございます。
彼らは“敵”を与えれば与えるほど団結し、膨れ上がる。ならばその“敵”の矛先を……」
「法華宗へ、か。」
千熊丸が口を挟む。久秀は微笑んで軽くうなずいた。
「は。法華宗は近年勢力を拡大しており、民衆の中でも一定の権威を持ち始めております。そこへ、我らが密かに“焚きつける”ことで──一向宗を法華宗に向けさせることができましょう。」
「……まさか、仏の教えを使って戦を操るとはな。」
康長が呆れたように吐き捨てたが、久秀は一切動じない。
「仏の教えとて、人の欲が根にあれば戦になる。
そして仏門の戦を、仏門以外の者が制すことはできませぬ。……ならば、火を点けて“離れて見る”のがよろしゅうございます。」
千熊丸はしばらく黙していたが、やがて口を開いた。
「……久秀。お前はその火を、どこまで広げるつもりだ?」
「京周辺の勢力にまで火の手が回れば──細川晴元も、もはや一揆の制御などできまい。
晴元が民を守れぬという空気が広がれば、再び『三好』の名が必要とされる時が参りましょう。」
「その間に……こちらは、地盤を固める。」
千熊丸の言葉に、康長が深くうなずいた。
「阿波、淡路、讃岐と順に掌握していけば、畿内へ戻る足場が整う。……本家を『再興した』という実績を作ってから晴元へ働きかければ、奴も黙ってはおるまい。」
久秀が口元に笑みを浮かべる。
「面白いのはここからです。晴元公に対しては、最初は“下手に出る”のが肝要。あくまで“遺児のために三好の名を継がせたい”という姿勢を見せ、家督を公式に認めさせるのです。」
「頭を下げてでも、三好を守る価値があると見せるか。」
「まさに。それこそが、三好再興の“表の形”にございます。
裏では一向宗や地方豪族を揺さぶり、表では主君に忠義を装って見せる。
晴元様の性質を考えれば、表面の礼を尽くせば案外、受け入れるやもしれませぬ。」
千熊丸は、腕を組んだまま天井を仰いだ。
その顔に、ほんのわずか、苦さを含んだ笑みが浮かぶ。
「……父上が死に、叔父たちが血を吐く思いで支えてくれているというのに、
この私は……頭を下げ、火を点け、人を欺くか。」
康長が静かに口を開いた。
「若……。
その道は、貴方にしか歩めませぬ。三好を立て直すために、誰かが泥をかぶらねばならぬ。
それを、十歳で担おうとする御方に、恥じる資格などございませぬ。」
しばしの沈黙ののち、千熊丸──いや、三好長慶は、小さくうなずいた。
「……よい。久秀、康長。お前たちを信じて進む。
我ら三好は、再び畿内に戻り、天下を睨む。その日まで、恥も泥も飲み込んでやる。」
三人は静かに頭を下げ合った。
この日、密室の中で新たな三好が胎動を始めた。
やがて、火は京へと放たれ、混乱の中で静かに、三好の名が再び広がり始めるのであった。