父
6月某日 堺
「……これは、さすがに挽回できぬな。」
普段は髭を剃り、小綺麗にしているであろう男が、無精髭を伸ばし疲れた顔でそう呟いた。
彼の名は、三好元長。
三好長慶の父にして、細川晴元に仕え、その仇敵・細川高国を討つという大功を挙げながら、最終的には晴元に裏切られ、勝ち戦をひっくり返された男である。
「長頼よ、よくぞ子らに伝えてくれた。……足利義維様も、これで無事に帰れよう。」
元長が言葉を向けた男──それが長頼である。
戦場とは思えぬほど涼しげな表情を浮かべた青年は、静かに頭を下げた。
「もったいないお言葉。今から数人ほど、地元の漁師に協力を依頼しております。淡路までは、何とか脱出できる手筈です。」
あまりにも軽やかに言うその口ぶりに、事の重大さを知らぬ者であれば、まるで簡単な旅支度にでも見えてしまいそうだった。
元長は一瞬、虚を突かれたように黙り込んだ。
だがしばらくして、先ほどまでの厳しい表情が嘘のように崩れ、優しい笑みを浮かべた。
「……良い男じゃのう、長頼は。わしに希望を持たせてくれるとは。……どれ、口吸いでもしてやろうか?」
冗談めかして元長が言うと、長頼も軽く乗った。
「お望みとあれば、寝屋にでも参りましょうか?」
「ふふ、それよりも──長頼。すぐに長慶のもとへ向かえ。子たちの力になってやってくれ。……儂はここで、死なねばならんのだ。」
軽口を返しかけた長頼の顔が、ふっと曇る。
「……やはり、死なれますか? もし、阿波までお戻りになれば、あの分家の太鼓持ち共も、きっと……」
「いや。儂が生きておれば、奴らは淡路や阿波までも攻め寄せてくるやもしれん。」
元長は静かに、だが断固とした口調で言った。
「太鼓持ち共でも、一揆勢の向かう方向くらいは操れるはずじゃ。ならば、ここで死ぬことが最も効果的な時間稼ぎになる。……あの愚か者どもは、一揆勢の怖さを何も分かっておらん。」
「……」
「時間さえ稼げば、息子たちが三好を再興させてくれる。儂は、それを信じとる。」
その言葉を聞きながら、長頼は一言も返せなかった。
武士としても、男としても──今口を開けば、情けない言葉しか出てこないと分かっていたからだ。
黙って唇を噛み、視線を落とす。
そんな長頼を見ながら、元長は穏やかに続けた。
「長頼よ。お前も、お前の兄も──ほんに良い男たちじゃ。
共に天下に通じる器を持っておる。譜代でもないのに、命をかけて三好本家を支えてくれる……。
そのような者たちがいてこそ、三好はもう一度立ち上がれる。……じゃから次は、お前たちが、息子たちと共に天下を目指せ。」
「……もったいないお言葉……兄も、きっと喜びましょう。我らこそ、三好家に拾われなければ、どこぞの石くれと変わらぬ者。……このご恩は、必ず……!」
「はよう行け。……達者でな。」
長頼は深く頭を下げ、しばらくそのまま動かなかった。
嗚咽がこみ上げ、言葉が出ない。
やがて、顔を上げると、元長に何かを言い残すこともなく、まっすぐに走り去っていった。
その畳には、忠義と別れの涙が、しっかりとその跡を残していた。
──この後、三好元長は壮絶な最期を遂げることになる。
そして一揆勢は、元長の予見通り、細川晴元の手にすら余る存在と化し、己の欲望のままに動き始めたのだった。