若き当主
1532年 未明 堺
「父上からのご命令だ。
すぐに阿波まで落ち延び、そこで吉報を待ちつつ力を蓄えよ──とのことだ。可能だと思うか?」
澄んだ声でそう問いかけたのは、目元が涼しげな少年だった。
年の頃は十ほど。まだ髭も生えぬ幼さを残してはいるが、その声音には年齢を超えた冷静さがあった。
「……それは、阿波まで逃げ延びることでございましょうか?
それとも──吉報が届くこと、で、ございましょうか?」
応じたのは、二十歳をいくつか過ぎた影のある青年。鋭さと皮肉を滲ませたその顔立ちには、何かしらの過去を感じさせる。
「無礼であるぞ、松永!」
声を荒げたのは、どこにでもいそうな面差しの、しかしどこか少年と似た雰囲気を持つ男。年は二十半ばといったところか。
「叔父上、よい。久秀のそういうところが気に入っているゆえ、傍に置いているのだ。」
少年は静かに言った。年若いとは思えぬ落ち着きと、命ずることに慣れた口ぶりで続ける。
「久秀よ、理由を申せ。」
「……殿。ありがたきお言葉、感謝いたします。」
まったく感謝がこもっていない声でそう述べたあと、松永久秀は薄く笑った。
「前者──すなわち阿波へ落ち延びる件については、康長様が既に道筋を整えておられましたゆえ、難しくはございますまい。
後者──吉報の方は……元長様の置かれた立場と、相手が悪すぎました。最悪の事態を想定しつつ、根回しを図るべきかと。」
「……最悪の想定、か。」
少年は一拍おいて、静かに言った。
「……ならば、康長の叔父上よ。私は、三好宗家の家督を継ぐ覚悟がある。
叔父上は、いかがか? もし宗家に未練がおありならば……道中の不安を取り除くためにも、今ここで命をいただかねばならぬ。」
淡い月明かりと蝋燭の火だけが照らす狭い空間。
だがその言葉が放たれた瞬間、空間全体が広がり、光に満ちたかのような圧を感じさせた。
「……若。
この康長、ご兄弟方の教育係を仰せつかったその時より、宗家への未練は断ち切ってございます。
お疑いならば、お斬りくださいませ。」
康長はじっと少年の目を見据え、しぼり出すように言った。
虫の音しか聞こえぬ沈黙の中、二人はしばし見つめ合う。
その瞬間、康長の胸中は、ある種の喜びに満ちていた。
(……最悪の事態を告げられただけで、ここまでの覚悟を決めるとは。
実の叔父を斬ることさえ厭わぬこの胆力。
まさに、大将の器……。ここで斬られても、この才が三好に残るのなら、悔いはない……!)
「……よい、わかった。今後は『康長』と呼ぶ。
私のために、その力を存分にふるってくれ。」
少年は続けた。
「父上はまだご存命であられるが、我らが落ち延びるその間は、私を三好宗家の当主として扱うように。……両名とも、異存はないな?」
「はっ。異論ございません。」
その瞬間。
三好千熊丸は、三好家を継ぐ覚悟を定めた。
わずか十歳にして、将としての第一歩を踏み出したのである。
──後の、三好長慶である。