本願寺からの
天文3年(1534年) 初夏 摂津・越水城
越水城の石垣を、涼風がなでるように吹き抜けていった。
長慶が畿内へ戻って半年あまり。城の周囲は兵たちの往来も増え、武具商の姿すら目立ち始めていた。だが、それを“戦の前触れ”と感じ取れる者は少なかった。
あくまで表向きは――
周辺豪族との懇談。
名族との婚姻交渉。
畿内整頓の名を掲げた、若き領主の外交活動。
だが、裏では違った。
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その日、越水城の広間にて。
「越前よりの使者にございます、本願寺よりの文と口上をお届けに参りました。」
使者は、質素な法衣に身を包み、顔を伏せたまま、事もなげに語った。
「我ら法華一揆を日々悩ますのは、他ならぬ細川晴元殿の身勝手なる野心にございます。
寺社を踏みにじり、商人を搾取し、民の命を紙より軽く扱う振る舞い……まさに悪鬼と申すほかございません。」
「……して、我らに求めるは?」
長慶の問いに、使者はぴたりと頭を下げる。
「三好家こそ、旧き細川に代わる“新たなる秩序”をもたらすと、我ら確信しております。
つきましては、晴元討伐の義において、我らと共に挙兵されませ。
大義は我らが掲げましょう、兵は貴家の裁量にてご調整いただければ……」
長慶はしばし黙し、目を細めて使者を見た。
「心得た。善処しよう。……伝えたまえ。」
「かたじけのうございます。」
使者が去った後の広間には、松永久秀と長慶だけが残された。
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松永は笑いを堪えながら口を開いた。
「“新たなる秩序”とは……随分な言い様でございますな、本願寺。」
長慶も、わずかに口元を緩めた。
「まったくだ。
己らは京を焼き払い、堺を脅し、仏の名のもとに欲と血を浴びてきたというのに……
その口で“晴元は悪鬼”とは、よくも言えたものだ。」
松永が低く笑う。
「仏門とは、かくも厚顔にてあるべきやもしれませぬな。」
「いや、それを言えば……我らも似たようなものだろう。」
長慶はそう言いつつも、真顔に戻る。
「だが、この大義は使える。
奴らが“旗を掲げ”、民や商人に呼びかける間、我らは兵を温存し、
然るべき時に、越水より出て制圧もしくは、そのまま和解交渉だな。」
「つまり、“正義の後ろに隠れて”出陣の機会を伺うと。」
「そうだ。必要以上に血を流さず、戦果を得る。
晴元には、父を討たれた個人の恨みではなく、乱世の整理として退場してもらう。」
松永はしばし黙り――その後、にやりと笑った。
「理想にして冷酷、ですね。当主様は。」
「お前が言うな。」
「ふふ……返す言葉もありません。」
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夕暮れの光が、広間の障子に赤く差し込む。
越水の城に立つ若き当主は、父の仇の名を掲げぬまま、静かに戦を始めようとしていた。
正義という仮面をかぶった、冷徹な知略の戦が、今ここに幕を開ける。




