冬康と長慶
年の瀬 淡路・由良の浜辺
潮の香りと、冬の冷たい海風が頬を撫でていた。
波が小舟の縁を静かに叩き、遠くでカモメが鳴く。冬の海は、どこか凛として静かだ。
船上で二人、釣り糸を垂れていた。
兄、三好長慶──13歳。
弟、安宅冬康──8歳。
久方ぶりに顔を合わせた兄弟は、互いに時折目を合わせながら、静かな時間を過ごしていた。
「兄上……越水、見事でしたね。」
先に口を開いたのは冬康だった。
まだあどけなさの残る顔に、ここ数年で得た自信がほのかに滲んでいる。
「……ありがとう。お前の水軍の備えがあったからこそ、背後を憂えず動けた。」
長慶は微笑んだ。だがすぐに、その表情はやや陰る。
「……冬康。」
「はい。」
「今日は……お前に謝りたくて、ここに寄った。」
冬康は驚いたように兄を見た。
「当主としてではなく、兄として、お前に申し訳ないと思っている。」
長慶の視線は、海の彼方へと向けられていた。
「お前を……安宅家に、一族から誰も後見をつけずに一人で送った。
水軍とは名ばかりの、海賊のような連中に身を投じさせた。
裏切られれば、少ない三好の一族が更に減り、晴元か一向一揆に売られる可能性もあった。」
冬康は何も言わず、静かに聞いている。
「正直に言おう。私は“計算”した。
実休では損失が大きすぎる。一存では若すぎて飲み込まれる危険がある。
ならば──冬康、お前が最も“痛みが少なく”、かつ成功すれば最も得られるものが大きい。
……そう判断して、お前を送り出した。」
兄の声が、風に流れず真っ直ぐに届く。
痛々しいほどに正直で、冷徹で、そして──優しかった。
「許さなくていい。一生、恨んで構わない。……だが、あの時、私は他に選べなかった。」
冬康はしばらく黙っていた。だがその目は、兄の横顔をまっすぐ見つめていた。
「兄上。」
「……なんだ。」
「すべて……わかっておりました。」
冬康の声は、海風よりも柔らかかった。
「最初は、安宅の者たちのやり方に戸惑いました。
何もかもが“利”と“威”で動く世界でしたから。
でも、今は……楽しいのです。
この身一つで、人をまとめ、海を動かし、三好のために動けるのが。」
長慶は思わず目を伏せた。
「そして……兄上が、私以上に危うい場所におられる事も、承知しております。
兄上がこの国を背負う覚悟をしておられることも。」
冬康は、ふっと笑った。
「私は兄上を恨んでおりません。ただ、ただ……お慕い申し上げております。」
長慶は、言葉を失った。
この歳にして、これほどまでに穏やかで、強い心を持つ弟の存在が、胸に染みた。
やがて、二人は再び無言で釣り糸を垂れた。
陽はゆっくりと海へと落ち、空が薄朱に染まっていく。
「……冬康。」
「はい?」
「寒くないか。」
「兄上が隣にいれば、大丈夫です。」
長慶は微笑み、冬康もそれに笑みを返した。
冷たい海の上、小舟には、熱い兄弟の絆が、静かに流れていた。




