ラブユーベイベ 前編
注意 この小説は、あくまで状態変化ものとして書いた物ですが、前編においては最終盤になるまで変化の描写自体が出てきません。その点、ご了承願います。
いっぺんに投稿するには長すぎる気がしたので、前後編に分けて投稿します。
2023年4月19日
段落分けを修正しました。
◆
『人生は一度きり』って色んな人が言うじゃん。
その一言だけ聞くと「当たり前じゃん、人間いつか死ぬんだから」とか「人生八十年近くあるっぽいし長くない?」とか私は思っちゃうんだよね。
でも、皆そういう事を言いたんじゃないってことは、分かってるつもり。
多分その言葉を口にする人の数だけ、『人生は一度きり』の意味があるんだと思う。
私の解釈?
私が思う『人生は一度きり』はね、すごく複合的で、総合的で、善意有過失で、なんというかこうインタラクティブな物だよ。
……言ってることの意味がよく分からない?
それはよく言われる。
私が言いたいのは……。
例えば、この時点において人生は八十年続くものだと仮定する。
人それぞれ条件は違うけれども、その間に『これだけは死ぬまでに絶対にやりたい!』と思うようなことが、仮に自分一人で実現可能なものだったとしたら。
その場合は、それを八十年の人生のどこかで実践する『物理的なチャンス』は、その気になれば結構得られるものだと思う。
でももしその願いが、“他の誰かと一緒にそれをしないと、実現不可能なもの”だとしたら?
『物理的なチャンス』そのものを得るのが『物理的に』不可能かもしれない。
なぜなら、自分の人生が八十年もあったとしても、一緒にそれをしたい相手の八十年と交錯している保証なんてないんだから。
……ここまで聞いても何を言ってるのかよく分からない?
まあ、それもよく言われるけどね。
彼氏からは何言ってるか分からないって言われないのかって?
言われないことはないかな。
でも多分、ウチの彼氏とは少なくとも『合意形成』ができてると思う。
また出たとか、そんな笑わないでよー。
私と彼氏の間では、『他の人達のことはよく分かんないけど、とりあえず自分たちは自由にやらせてもらおう』って、そういうふうに決めてるの。
最後の最後まで全然分かんないって?
しょうがないなぁ。
じゃあ、ちょっとだけ見せてあげる。
♨︎
ひっきりなしに列車が出入りする大規模な高架駅の真下、鉄道橋と立体交差する大通りに面した南改札口の前で、美由は待ち合わせ相手である彼氏を待っていた。
携帯電話を右手で弄り、時間を潰している。
今日はその彼氏と、この駅の南側の若者街にある、若者向けの古着屋やセレクトショップを一緒に回ろうという約束を美由はしていた。
八月も終盤に入った平日の真昼間だったが、地域で最も規模が大きいこの駅前は、一年中いつでも昼夜関係なく大勢の若者で賑わう場所であり、今日もその例外ではない。
小学生の夏休みならクライマックスに当たるだろうこの時期に入っても、猛暑は依然とどまるところを知らず、コーディネート面はもう適当でいいやと、美由はなるべく涼しさ重視で服を選んでいった。
上は、カットソーと言えばいいのかサイズ大きめで首元緩めのTシャツと言えばいいのか、とりあえず白いシャツをゆったりと着ている。
さらにその上から薄い生地の水色のジャケットを軽く羽織り、下は太腿を真ん中くらいまで出したデニムの青いショートパンツを履いている。
足元はバンドが編み込みによって形成されたサンダルに近い見た目の、黄褐色のヒール付きミュールを履いており、この季節でも涼しそうだ。
だいぶ前にブラウンに染めた色が少し残るセミロングの黒髪を、簡単な一つ結びにして後ろに下げている。
着ている物の中で最も表面積の大きいシャツのディテールをもう少しよく見てみる。
シャツの前面には、ブロック体の黒文字で書かれた何かの英文が印字されているというデザインだった。
おそらく幾度も洗濯済みなのだろう、文字は少し掠れ気味だ。
生地としては、正直そこまで上等とは言えない何かの化学繊維が主成分だと思われるが、綿も若干混紡されているのか、肌触りはあながち悪くなさそうだった。
洗濯を繰り返したことで生地が摩耗しているのか、表面は年季の入った化学繊維特有の大人しい光沢を持ち始めており、それが美由の形の良い胸に存在感を付加している。
それこそ、美由はこの付近の古着屋でこのシャツを購入したのだった。
確かその時は、お洒落な感じのスカートかボトムスかを買おうとしていた日のことで、一通り見繕った後に「上に合わせる物も何か買って、手持ちのバランスを取った方がいいかな」と思っていたところ、たまたまその辺に二束三文の値札を付けられ割と無造作にかけられたこのシャツを見つけ、これでいいやと適当に決めて購入した覚えがあった。
買った時点でもう既に着古されていた感じだったので、美由としては部屋着にでもすればいいかと最初は思っていたのだが、意外と生地がしっかりしていたのと元々安く買った物だから雑に扱ってもいいやという気安さもあり、だんだん外に着ていくことも増えた。
また美由の体格に比べるとウエスト周りが割と余裕のあるサイズ感だったので、その時々のボディラインを気にし過ぎる必要がない点も気楽だった。
そういうわけで、今日も美由はこのシャツを着て待ち合わせ場所に来ていた。
正直なところ、美由は自分の体型には自信を持っていない。
バストサイズはごく普通のBカップで、臀部の肉付きは人並み程度、何よりウエストのくびれが殆どないことを気にしていた。
全体的なシルエットを表現すると、悪く言えば寸胴体型だった。
そしてその時々のコンディションによって、腹回りにプラスアルファで肉が付くこともある。
定期的にダイエットをしようと決心しては、どうも自分は腹の肉が落ちにくい体質らしいとボヤく結果を繰り返していた。
そんなわけで、美由はなるべく上半身のボディラインを出さなくて済むような服を好んだ。
その上で、楽をしながら且つ良い感じの見た目になる着こなし方を自分なりに模索していく。
バスト自体はそこまで大きくないのだが全体がやや上側を向いた円錐型をしており、ブラとの合わせ方を工夫することで数値以上に胸周りの径を良い感じに見せる方法を発見した。
この手法と、ゆったりサイズのトップスとを組み合わせ、形を整えたバストのトップから重力方向にフワリと流す着こなしを確立した。
服がカーテンの役割を果たし、よっぽど腹が出てこない限りはウエスト部分を覆い隠すことができる。
その用途においても、この白いシャツはコンスタントに良い仕事をする。
その一方、上半身に対して脚は思い切って露出度の高いものを選ぶことが多かった。
特に人よりも脚に自信があるわけではないのだが、ゆったりとした服を着ることが多い上半身との兼ね合いで、脚を出した方が全体のバランスが良くなると判断したからだ。
足元については、美由はどちらかと言えば短足なので、高さを稼ぐためにヒール部分の高いものを履くことが多い。
以上の点から、今日の着合わせは、美由にとっての黄金パターンの一つと言って差し支えない。
長所を活かす下着のセッティングの妙とシャツの滋味ある光沢とが双丘の半円形の柔らかみを印象付けておきながらも、ウエスト付近の余裕感を演出し、その下のショートパンツから伸ばした脚による抜け感へ繋げることに成功していた。
■
美由がこの街に引っ越してきたのは大学に入った今年の春のことで、最初は生活を全て自分の好みのもので埋め尽くした完璧な一人暮らしをしてやるぞと意気込んでいたものだった。
しかし実際始めてみると、そもそも自分のことを全て自分でやらないといけないという見え透いていたであろう当たり前の面倒臭さに直面し、試行錯誤の末、自分のセンスが許せる範囲内で楽して過ごそうというスタイルに美由はシフトしていった。
それでいくと、このシャツは意外と美由の生活スタイルにフィットした。
適当に洗っても平気だし、そこまで変わったデザインでもないから今日はこれ着ていっちゃダメだというケースも少ない。
梅雨の時は装飾部分が乾くのに少し時間がかかっていたが、それ以外の時期なら乾くのも早いしすぐ着られる。
そんなわけでこのシャツは美由にとっての「困ったらコレ」というポジションに落ち着いた。
“彼氏”と会う日に着ていくのはどうなんだろう、という考えがよぎったこともなくはないのだが、そもそも彼氏とは特に予定がない時は頻繁に会うような間柄だったので、面倒臭いし今日はこれでいいやと思うようになるまで時間はかからなかった。
美由が彼氏、拓と付き合い始めたのは高校時代のことで、普通科の他にも工業科や商業科が併設されているタイプの私立高校の進学コースでありがちのことだが、当然のように三年間同じクラスだった。
元々互いに軽口を叩ける友達同士という関係で、同じくクラスがずっと一緒だった他の友達も合わさって、男女それぞれ三人ずつの計六人のグループを形成してよく遊んでいた。
昼休みに集まって弁当を一緒に食べたり、放課後に部活をサボってカラオケに行ったり、夏休みに集まって花火をしたこともあった。
美由としては別に、その男三人のうち誰かとそういう関係になりたいだとか、そういう考えは特に持っていなかったのだが、思い返すと拓が今までで一番仲が良い男友達だったように思われる。
そのグループで緩く楽しくつるんで遊んでいるうちに、美由たちはいつの間にか三年生になっていた。
美由は、おや、と思った。
今更気づいたことだが、世間一般の女子高生なるものは、もっと恋愛だとか色恋沙汰だとかにキャピキャピ勤しんでいるものではないだろうか。
この仲間内の緩い雰囲気で遊んでいるのは勿論楽しいし、これはこの先も大事にしていきたい関係だと思っている。
しかしだ、自分はこれから先もずっと、そういった世間一般の共通認識としての『キャピキャピルンルン』とは無縁の人生を送っていくのか?
そんな疑問が浮かんだある日、一緒にお茶をしていたそのグループの女子二人に思案顔で「最近、恋してる?」みたいなことを聞いたのだと思う。
二人して「はぁ?」という呆れたような顔をしていた。
あれ、変なことを聞いただろうか、と美由は首をかしげる。
二人曰く、「もうお前さんと拓の、二人だけじゃんね」とのことだった。
なんか気付かないうちに、美由と拓以外のグループ四人でカップル二組が成立していた。
それも何ヶ月以上も前に。
マジで?と聞いたら、そっちこそマジかよとか、なんでまだ付き合ってすらねえんだよとか返ってきた。
美由はそれまでのことを思い返してみる。
確かに拓は男友達の中では一番仲が良くて、気軽に冗談を言い合えるし、しょうもないことで喧嘩になったとしても良い意味で平気というか、そういう気の置けない相手なのは間違いない。
しかし、自分の中でのそういうレンアイと呼ばれる物の『キャピキャピキラキラホンワカルンパッパ』なイメージとはどうにも結びつかない感じがする。
というか、他のカップル二組もグループで一緒にいる時にそういう雰囲気を出してなかったから、付き合っていると聞かされて現に驚いてるわけで。
急に心がざわめき始めた気がした。
その翌日、登校途中で拓と一緒になったので、ねえねえと話しかけて、あの二人とあの二人が付き合ってるの知ってる?と尋ねてみた。
「マジで?!それ本当なん?」と返ってきた。
自分一人が世界に取り残された馬鹿なのかと思っていたら、馬鹿が二匹に増えた。
「にゃろうマジかー。役者かよー」などと馬鹿二号は独りごつ。
ホッとしたような呆れたような、そんな気持ちを美由が抱いていると、拓は顎に手を当て「うーん、むーん」と何やら難しい顔をして唸っている。
何してんだコイツと一瞬思ったが、すぐに拓が次に言おうとしていることが分かってしまったので、同時に言ってハモってやろうと思った。
「「ウチらも付き合う?」」
拓が言うには「自分が持っている恋愛というもののメラメラテカテカルンパッパなイメージとは異なる関係性だと思ってた」などと供述しており、美由は何言ってんだコイツと思った。
結局のところ、二人して『イメージしてたのとは違うけど、そもそも付き合うっていうのがどういうことかいまだによく分からんし、とりあえずこいつ相手に試し撃ちしてみるか!』という好奇心が一気に膨れ上がり、結果利害が一致したらしい。
かくして交渉成立。
登校したその足で、他四人にこれこれこーゆーことになりましたと各自報告すると、それぞれ呆れたような視線で生暖かい祝福をよこしてきた。
♨︎♨︎
待ち合わせ場所にて、美由は携帯電話を弄りながらも、時々周りの様子をチラチラと気にしていた。
拓がどこかに隠れてやしないかと警戒しているからだった。
小学生ではあるまいに、拓は死角から美由の目を塞いで「だーれだ?」するやつをやってきたり、肩を叩かれてそっちを向いたら頬に指が刺さるやつをやってきたり、美由をからかう事がしばしばあった。
いちいち相手をするのもなんだか気に入らないので、たまに携帯電話から目を離しては周囲の様子を気にしていた。
そうしていると、手に持っていた携帯電話にメールが届いた。
拓からだった。
『寝坊したゴメソ』という文面に続いて、なんか気持ち悪い顔文字が添付されていた。
美由が『はよこいハゲ』と打って返信すると、すぐさま拓から、その気持ち悪い顔文字が敬礼をしているだけのメールが返ってきた。
それを打ってる暇があったらダッシュで来いっつーの。
美由と拓は同じ路線沿いにある3駅ほど離れた別々の大学にそれぞれ通っており、二人とも自身の通う大学のすぐ近くにアパートを借りて住んでいるため、その気になれば互いの家をすぐ訪ねられる。
入学したての頃は、こうして出かける際にはまずどちらかの家に集合して、それから目的地に向かうといった行程を取っていた。
しかし、拓が約束の時間に遅刻する頻度があまりに多いのと、移動する手間が増えるのが面倒に思えてきて、現在は各自現地集合するスタイルに落ち着きつつある。
■
今でこそ当然のようにこうして近くに住み頻繁に会うという生活を送っているが、二人の進学先が確定する前は、『それぞれ違う地域の学校に進んで関係もそれっきり』になりそうな可能性が相当程度あった。
とは言っても、別にシリアスな話でも何でもなかった。
そもそも二人の共通認識として、棚ぼたというか成り行きというか、完全にその場のノリで付き合ってみることを決めたわけで。
だから進路を選ぶにしても、彼(彼女)と同じところに行きたい!という希望などはこの二人には特になかった。
周りの友達はほぼ全員大学に進むという環境だったので、二人とも自然と大学進学を目指すことにした。
この二人が通っていた高校は結構な田舎町にあり、大部分の生徒は卒業後は実家を出て、この地方で最も栄えている隣県の大学に行くか、あるいは思い切って東京や関西まで出てしまうという進路を選択していた。
当初、美由は隣県の国立大学の法学部を、拓は同じく隣県の私立大学の『文系学部のどっか』を希望していた。
しかし、拓は美由がその国立大学を志望していることを知ると、「せっかく隣県まで出るなら、俺もその国立大学を狙いたい」と言い出し、結果的に“たまたま”同じ志望校を目指すことになった。
そうは言っても、と美由は思った。
高校の時の成績を見ると、美由に関しては勉強の要領が良いおかげで模試の結果も安定して推移しており、その国立大学法学部にも問題なく受かるだろうというレベルだった。
仮にその国立大学に落ちたとしても、その場合は拓が志望していた私立大学の法学部を滑り止めにする予定だった。
一方拓はと言うと、三年生一学期の時点で当初言っていた私立どころかまず留年せずに卒業できるのかと言うくらいの成績だったので、同じ大学に通える可能性はかなり低いのでは、と美由は考えていた。
三年に進級してから、受験に向けてグループ六人で一緒に勉強する時間が増えた。
そのカップル三組の内一組は関東の同じ大学を目指し、美由・拓ともう一組は隣県の国立大学を目指す、という構図になった。
初めは、拓はその六人の中でも早い段階で集中力が切れることが多かったものの、少しずつ粘り強くなっていった。
最終的に拓は、学校での成績が急上昇して留年の可能性からはひとまず脱することができていた。
さらに、当初志望していた隣県の私立大学の中でも学部を選り好みしなければ合格は堅い、と言えるレベルまで仕上げることができた。
しかし拓はそれでも満足せず、あくまで美由と同じ国立大学を目指すことに拘った。
とりあえずその私立大学に入れれば、美由の近くに住むことはできる。
付き合いだしてからも何ヶ月か経っていた頃のことで、そこまで自分と一緒にいたくなったのかと、美由は軽く感動していた。
後日、同グループの他の男子から「オープンキャンパスの時にあそこの大学が一番美人が多かったから、って言ってたぜ」と言う証言を得たので、「私が勉強教えてやった時間を返せ!」と張り倒してやった。
とは言えその頑張り自体は本物で、国立大学の合格発表で自分の受験番号がないことを悟った拓は、その場で地団駄を踏んで本気で悔しがった。
一緒に合格発表を見に行きしっかり合格していた美由も隣で笑いながら「ドンマイドンマイ」と拓の背中をバシバシ叩いて慰めてやった。
それでも努力は奏功して、拓は自分の力でもって、高校卒業と隣県の私立大学法学部の合格を勝ち取った。
その後の各自が住む物件選びも特段示し合わせることもなく、報告し合った後に『まあそうなるわな』と言えるくらいの距離感でそれぞれ居を構えた。
ちなみにグループの他四人もそれぞれ志望していた大学に合格でき、同県に住むもう一組のカップルとは、定期的に二組一緒に遊びに行く仲が続いている。
♨︎♨︎♨︎
「おじょーおさん」
不意に声をかけられて、美由は驚いて携帯電話に向けていた顔を上げる。
目の前に、白タキシードと白マントに身を包み、そして白髪混じりのオールバックに白いシルクハットを被った、顔立ちは幼いようにも年老いたようにも見える年齢不詳の男が立っていた。
とりあえず知り合いではない。
誰だろう。
この駅の付近は若者が多く、その分ヤンチャしてそうな連中もよく見かける。
例えばすぐそこの公園なんかは、毎年ハロウィンの時期になるとコスプレをした若い男女が大挙して押し寄せてきては東京のそれを真似た変態仮装行列を形成し、交通整理のために警官が配備されるような状態になる。
だからこういう変わった格好をした男がこの辺にいても、特に不思議には感じなかった。
目の前の男を“若者”と呼んでいいものかどうかは、容姿からはちょっと判断がつかないが。
あるいは。
この駅の南側の若者街、それをさらに南下したところには、所謂“いかがわしいお店”が林立する区画がある。
そこの関係者が、若者街を通りかかった若者に何らかの目的で声をかけることがあると聞いたことがある。
その手の輩がここまで北上してきたという可能性もあるか。
美由は丸顔の童顔をしていて、150cmに満たない身長も相まって初対面の相手から中学生ぐらいの年齢に間違われることも珍しくない。
酷い時には小学生に間違われたこともあった。
もしそういう、いかがわしい系の輩がこんなちんちくりんに声をかけてきたのだとしたら、随分良い趣味をしてやがるなと思う。
男はナンパをしているようなそういう雰囲気ではないものの、ただならぬ気配を放っており、警戒するなと言う方が無理な話だった。
とは言え、人通りの絶えない駅前なので、この場でいきなり変なことをされるという心配は少ないように思う。
「早速ざんすが、ミーの両眼を見るざんす」
そう言うと男は、無造作に美由の目を覗き込んできた。
驚いた美由は、反射的にその男の相貌、そしてその両瞳を見ていた。
よく見てみると、男の瞳は右と左で色が違っていた。
右目が赤色で左目は青色?
カラーコンタクトでも入れているのか?
その両方を見比べていると、なんだか──────。
美由の意識はそこで途切れた。
■
「拓は美由とそういう雰囲気になったことないのか?」
「は?」
一瞬、質問の意味が分からなくて、口に入れ損ねたカツカレーのカツがスプーンからこぼれ落ちた。
にゃろう。カツってそもそもスプーンで掬って食べるようにはできてないから、カツカレーのカツって食べにくいんだよな。
拓は高校の学食で、いつもつるんでいるグループの男子二人と昼食を取っていたところだった。
こぼれ落ちたカツの切れ端を、指で摘んで口に放り込む。
「そういう雰囲気って、どういう雰囲気だよ」
「とぼけんなぃ。
チュッチュでキャーキャーでダメヨーダメダメな雰囲気だよ」
「……ねえな」
あと、そのイメージ映像にはバイアスがかかり過ぎではなかろうか。
「ていうか、まさか……。
お前ら二人とも、もう“その領域”まで到達してしまったんか?!
だとしたら羨ましすぎるぞ!?
どういう状況だったか教えてくれ!!
参考にするから!」
拓が逆に質問攻めしてきたことで、二人は自分達からそういう話を始めたのに、却って冷静な気分になってきた。
こうなると拓は面倒臭いので、逆質問はスルーして元の話に戻す。
「んー、そういう雰囲気になると言うか、そういう雰囲気に持っていくと言うか。
拓も健全な男子高校生の一人やろ?
なんというかこう、例えばリビドーが坂道を転げ落ちて加速したら二度と止まらん時とかないんか?」
「んー、そういう気分になる時は、それは勿論あるよ。
そういう、自分が納得できるような処理をしないと気持ちが落ち着かない時とかさ。」
最近では携帯電話でも、インターネットに接続できる時代になっている。
だから、そういう瞬間瞬間を満足するための材料はいくらでもそこに転がっているし、アクセスすることも容易い。
実際、俺も毎日のように検索エンジンで大人のお姉さんの画像を貪ってはサティスファクションする日々である。
なんなら、それ関連の画像だけを保存したフォルダがPC内にいくつもある。
時々、ディスクの容量を確保するためにファイル整理の必要に駆られ、泣く泣く残すべきデータを取捨選択する羽目になる。
その選択作業を繰り返していった結果、自分の中で一つの統計が出た。
どうやら俺は『スタイルの良いボンキュッボンな年上のお姉さんが大好きで、そのうえ金髪で、ラテックスのような材質のテラテラ感のあるビキニを着て女豹のポーズを取っていればなお良し』と言う感性を持っているらしい。
こういう奴が生物としてのそういった熱情の類を持っていないなんて言ったら、それは嘘だろう。
でも。
いや、だからこそ、か。
「じゃあ、そういう気持ちが美由に対して発生しないんですか?と聞かれても、なんだか話が大ジャンプし過ぎてるように感じてピンとこないんだよ」
例えば、
『Q1.美由は可愛い女の子か?』
と問われれば、
『A1.可愛いに決まってるだろ、◯すぞ?』
と即答できる。
そりゃあね、うん、やっぱ、一応付き合ってるわけだしな。
そう答えないとな。
って言うか正直、俺なんかには勿体無いなと思うことが時々あるくらいだ。
でもその直後にいきなり、
『Q2.ではラテックスのテラテラビキニを着て金髪に染めた美由が目の前に現れて女豹のポーズを取っていたら、お主はサティスファクションできるか?』
などと聞かれたら、
『A2.ちょっと待てぃ!』
となるだろう、それは。
落ち着きなよ、そこのカウボーイ。
それは、なんか、変だろう。
いや、仮に実際そういう状況に直面してみたら、俺みたいなのは理性なんか迷わず脱ぎ捨ててル◯ンダイブしている可能性の方が高いというのは否めない。
でも、現実はもっと、その、段階があるもんだろう、段階が。
その段階ってものが、具体的に何なのかは知らないけれど。
返答を聞いた二人は意外そうな顔をした後、何か難しいことを考えているのか、んーと唸っている。
「わし時々、拓が何も考えとらんチャランポランなんか、それとも実は臆病で自分に自信がないウブな男の子なんか、どっちか分からんなる瞬間があるわ」
おうなんやとコラ?
思わずテーブルの下からフットロックをかけようとした俺を、もう一人がどうどうと鎮めようとする。
俺は、コップに注いでいた水を一口飲んで、気分を落ち着かせる。
「んー、じゃあ質問を変えまひょ。
美由とキスしたことはないんか?」
「あ?それはあるよ」
「あるんじゃねえかそういう雰囲気!!」
もう一人にスパーンと頭を引っ叩かれたので、今度は出してきた手に対して反射的に腕固めを仕掛ける。
「どうどうどう」
とりあえず、コップに注いでいた水をもう二口飲んで落ち着く。
「ちなみにそれっていつぐらいのことなん?」
「……付き合い始めて三ヶ月目くらいの時かね。
そんな、雰囲気がどうこうって話でもねえよ。
『そう言えばウチら付き合ってるとか言いながら、付き合ってる感のあること全然してねーじゃん』って話になったことがあってな」
「ほうほう」
「確かに拓と美由って、付き合う前と付き合い出してからの印象が殆ど変わってない気がするわ」
「ん、それで、試しにキスしてみたら何か変わるんかねって話になって」
「ほえー」
「きましたわ」
「じゃあとりあえず一回試してみてから考えよってことで、ムッてしてみたんよ」
「……擬音が独特やな」
「そしてすぐ実践してみる行動力な」
「よう分からんかったなーほやなーってなったから、もう二回か三回くらいムッムッムッてしたんよ」
「……」
「……」
「それでもよう分からんかったからさ。
ほら、美由の唇って近くで見れば分かると思うけど、上唇は薄い割に下唇は分厚くてぷっくりしとるやん?試しにそれを」
「オーケーよう分かった。
もう言わんでええぞ」
「想像以上に生々しくて、昼飯時に聞く話じゃなかったわ」
まだまだエピソードの途中だったのに、静止させられてしまった。
ちなみにこの話のオチだけ言うと、最終的に俺は美由から両頬に往復ビンタを食らい、その日一日ずっとパンパンに腫れたチュー顔のまま過ごす羽目になった。
キスはとっくに終わってるのに、ずっとチュー顔とはこれ如何に。
俺は、そもそもそっちが話題を振ってきたんじゃねえかと思いながら、水の入っていたコップを空にしてしまう。
「……わしらがそこまで話掘り下げてもないのに、勝手に自分で色々証言しだしおったわ。
オモロいのぅ」
「……外野から見てて勝手に心配しとったけれど、なんだかんだでやることはやってんじゃんかねえ。
心配して損した気分だわ」
小声でヒソヒソ話してるつもりなんだろうが、聞こえてるぞオイ。
「全く、大きなお世話だってえの」
そんなことを言いつつ、正直なところ傍から見てて俺と美由の関係性が心配されるというか、面白がられる心当たりというのは、ないではない。
俺と美由はどちらも結構変わり者だと思うから、二人合わさると、周りから見ていておかしなシーンっていうのが相乗的に増えて見えるんだろうと思う。
自分一人に対してツッコミを入れられるだけなら、これまでの人生もそうだったから、そこまで気にならない。
『三つ子の魂百まで』って言うじゃねえか、って感じで流したり開き直ったりできる。
ただ、俺らセットで色々言われ始めると、自分でその内容に対してどう対応するかジャッジを下す作業が途端に面倒臭くなる感覚がある。
例えばこういうことがあった。
ネットが発達してからと言うもの、どの高校でもほぼ必ず裏サイトがあるというのがすっかり当たり前になった。
俺は、わざわざオンラインを介さなくてもその時間を使って友達と直接話した方が楽しいだろという感性なので、自分の学校の裏サイトを日常的に見に行くということはなかった。
美由も、裏サイトにはほとんど興味を示さない。
しかしある日、その裏サイトが学校とは全く関係ない外部の荒らしによる投稿でエライことになっているという話を、学校で聞いた。
面白半分で久しぶりに裏サイトを開いてみると、既に管理人によってその荒らしの投稿はあらかた削除された後だった。
ただ、削除されずに残った既存の書き込みの中で気になるものを見かけた。
『あそこのリア充気取りのグループってぶっちゃけどう思う?』
その匿名の書き込みは、暗に拓と美由が含まれる六人組のことを示していた。
『正直あいつら全員顔面は微妙じゃね
よくよく観察してみたら雰囲気だけリア充風なぞってるだけだから
なんでいつもあんな楽しそうにできるのか分からん』
何様だこいつ、と思った。
誰かに迷惑をかけてるわけでもないのに、なんでこんなことを言われなきゃならんのか。
そもそも学校生活楽しむのに、容姿は全く関係ないだろ。
はっきり言って頭に来た。
『気に入らないことがあるなら、顔出して直接言いに来いや。
中指食らわせてやるから』
自分一人のことを言われたのなら、すぐにこんな感じでレスを飛ばしていたと思う。
でも、まず頭に浮かんだのは美由のことだった。
美由は、この書き込みを見てどう感じるだろう?
大前提として、まず俺は、美由の顔立ちは、その……、贔屓目なしでとても可愛いと思っている。
目がくりっとしてて、両頬と顎が丸っこくて、下唇がぷっくりしてて、口を開くとちょっと八重歯が見えて。
むくみやすい体質らしくて、時々顔がパンパンになってることがあるけれど、その時もまた良いというか。
童顔で雰囲気が垢抜けない感じは、あるかもしれない。
でもそれはもう、言いがかりの域だと思う。
単にお前が、それこそモデルさんや女優さんぐらい整った顔じゃないと納得できない可哀想な人間なだけじゃないのか、というような。
……ただ、美由本人がどう思っているかは分からない。
俺も、友達としての冗談の言い合いとして、美由の見た目に触れたことがないではない。
『なんか今日の格好、小学生みたいやなー笑』……とかさ。
一年生とかの頃だったか。
見た目に関してはどうやら美由自身も気にしていたようで、俺がイジった時の反応が明らかに嫌がってる感じだったから、『あー地雷踏んじまった』と後悔して以降はもう容姿をイジったことは一度もない。
せっかく、俺が地雷原を慎重を期して歩いていってるかたわらを、自分は安全圏にいるからと遠慮なく横切っていく何たる無神経さ。
……と言った具合で、いつもなら「しょうもな」の一言だけで片付けられるようなトピックに、延々愚痴が湧いてきてしまう。
時間の無駄なので、さっさとブラウザを閉じて他のことをする。
でも、なぜかその書き込みのことがちょくちょく浮かんできてはムカムカしてしまう。
それは翌日学校に行ってからも同じだった。
「どしたん拓?
ずっと険しい表情しとって珍しい。
下痢なん?」
自分ではそんな顔をしていたつもりはないのだが、美由に目ざとく勘付かれてしまった。
美由は裏サイトに興味はないから、多分その書き込みのことは知らない。
俺が言わなければその存在すら知らないままで済むかもしれんし、わざわざ教えてやることもないだろう。
そう思って、「なんでもねえよ」と返して誤魔化す。
それを聞いて「何かあるな」と判断したらしい、それから一日中何があったのか正直に教えろと延々問い詰めてきた。
こっちは美由が余計に嫌な思いをさせないようにと気を遣ってやってるのに。
……まぁ、そもそも美由に勘付かせてしまったこと自体が、俺の落ち度なわけだが。
俺は、ムスーっとシラを切る。
しかしあまりに美由がしつこいのでとうとう根負けして、『俺に対して怒るなよ』と前置きした上で、かくかくしかじかと書き込みのことを教えてやった。
それを聞いた美由は、
「はぁー?何ソイツしょうもな」
と言って呆れていた。
俺は、とりあえず美由が傷ついてる様子がなくホッとした。
俺の表情から何かを読み取ったらしい美由は、両手を当てた腰をクイクイっと左右に揺らし、制服越しでもその形の良さが分かる胸を反らせてこう言った。
「こんな可愛い女の子を微妙呼ばわりとか、目が腐ってるんじゃないの?」
わざとらしく片頬を膨らませている。
それを見た俺は、なんだかツボに入ってしまって、ゲラゲラ笑ってしまっていた。
それに対して美由はさらに追い討ちをかける。
「ちょっとー?
何がそんなにおかしいのよー?」
右左の頬を交互に膨らませながら、まだ腰をフリフリしている。
「ブハハハハッ!!
ちょ、それやめろ!
笑い死ぬから!」
「笑い死ぬとか失礼ねー?
こっちは拓を悩殺してやるつもりで踊ってるのにー」
いやー、やっぱ最高だよお前。
可愛すぎる。
俺の負けだ。しっかり悩殺されてしまった。
「ま、何を気にして隠してたのかはよく分かんないけど、もし私が気に入らないことがあったら、普通に拓にはストレートに言うからさ」
美由がそう言ってくれて俺は、ああ美由には敵わないな、なんて思ったものだった。
確かに、今までもずっとそうだった。
そんな、“シリアス”認定するほどの価値のある話でもなかった。
うん、ありがとうな、美由。
「じゃあ俺も美由には、なるべく、思ったこと素直に言うようにするわ」
「いやそれはいいわ、なんか淫猥なことまで言われそうだし」
「あんだって?まず俺を悩殺してみせてから言いやがれ」
やいのやいのと、いつも通りの調子に戻っていく。
リア充気取り呼ばわりがなんぼのもんじゃい。
こちとらこれでも色々気ぃ張って頑張って、実際リアル充実させようとしてんだからよ。
それからしばらく経って、思い出した頃に当の裏サイトを覗いてみたら、例の書き込みは管理人によって不適切なものと判断されたのか、削除されていた。
それを見て、「しょうもないレスしなくて正解だったのかもな」と他人事みたいに思ったのを覚えている。
その時の悩殺ダンスが随分印象に焼きついたのだろう。
拓は、美由のそのダンスに爆笑する夢を見ながら、待ち合わせ時間を寝過ごしていた。
♨︎♨︎♨︎♨︎
待ち合わせ場所に美由はいなかった。
「はて?」
一瞬、どちらかが集合する改札口を思い違いしているのだろうかと逡巡したが、駅南側の店を見回るという約束をしているのだから、こっち側の改札口で間違いはないだろうと思い直した。
もしや、遅刻に呆れて帰ってしまったのだろうか?
拓が待ち合わせ時間に遅刻するのは、今月はこれでもう三回目だ。
ぐえー、まじか。
何か埋め合わせをして許しを乞わなければ……。
しかし、美由は最近、以前よりも増して自分の体型に気を遣っているようだった。
なので、何か美味しい軽食で手打ちにしようとしても、「いや、今ダイエットしてるから」と言われて門前払いされる可能性が高い。
そうなると、選択肢から食べ物が外れることになるが、そうなると美由の趣味嗜好と合わせて考えた場合、服や雑貨と言ったところになり、どうしても必要費用がアップせざるを得ない。
うーん、仏の顔も三度まで、だったか……。
いや、言うほどあいつに仏のイメージねぇけど……。
そんなことを考えていると、駅の南側、若者街の方に向けた視線の先に、既視感のあるシルエットを見つけた。
美由だ。間違いない。
拓にとっては見慣れた格好で、若者街の方に歩いている。
ははぁ、先にお目当ての店に行ってしまおうとしているのだな、と拓は最初思った。
しかし、なんだかいつもと比べて歩き方がおかしい気がする。
間もなく、美由の前方2m付近を背丈が180cmはあるだろう、長身の男が歩いていることに気づいた。
上下を白タキシードで揃え、体を覆い隠すほど大きな白マントと、白いシルクハットを身につけていて、遠目にも異様な雰囲気を漂わせているのが分かる。
そしてよくよく見てみると、美由はその男が通った足跡をそっくりそのままなぞるように歩いて行っており、まるでその男の後に付いていっているように見えた。
妙だな、と拓は思う。
美由の後ろ姿を見失ってしまわないよう、青信号が点滅し始めた大通りを横切って、拓は追いかけるように若者街の歩行者天国に踏み行っていく。
やはりと思うべきか、御用達の古着屋やセレクトショップの前で美由が立ち止まる気配はない。
それどころか、白マントの男に誘われるかのように、これまで入って行った事もないような若者街の最奥、すなわちキナ臭い感じの店屋街のエリアに踏み込みつつあった。
ここに至り、どうやらあの男が何らかの方法で美由を誘導していってることを確信した。
その時点で、男が向かう目的地についてもなんとなく察しがついた。
どうでもいい事だが、八月の猛暑の中でその格好はあまりに暑すぎないかい?という拓の密かな心配をよそ、美由を伴って男はその最奥エリアを進んでいく。
そこは拓にとっても、ほとんど立ち入ることのない区画だった。
毎晩ネオンライトでケバケバしく彩られるであろうその通りは、真昼間なので当然その灯りは落としている店が多く、想像していたよりもそこまで異様な街並みには感じなかった。
しかしそれでもなお、それなりにいる通行人たちが放つギラギラとした気配は明らかに若者街のそれと趣を異にしており、また街のそこかしこから漂う独特な甘くすえた臭いが、その街の夜の姿を容易に彷彿させた。
後ろから見ているだけでも、その街並みの中に美由がいるという光景は、明らかにアンバランスなものだった。
その通りを少し歩いたのち、男はある鉄筋コンクリート造りの建物の前でようやく立ち止まった。
やはり美由もその建物の前で立ち止まり、その地点で直立不動のまま静止している。
二人が立ち止まったその建物の看板には『◯◯休憩所』と書かれていた。
そこは、所謂ラブホテルだった。
やっぱり、と拓は思った。
拓自身もこのエリアは以前一回通りかかったことがあるぐらいで、どこに何の店があるのかという知識までは持ち合わせていなかったが、この区画内にいくつかこういった施設が存在している事は知っていた。
そのラブホテルの入り口は、田舎でよく見かけた駐車のためのガレージを兼ねた所謂モーテルのそれとは異なり、普通のホテルと同じようにシックな雰囲気も併せ持った綺麗なエントランスが備え付けられていた。
とは言え、軒下から内装へ続く照明は、足元を確かめて歩ける最低限の明るさまで意図的に抑えられており、入り口付近外装を照らす人工的な紫やピンク色のライトによる演出が、そこが通常のホテルとは似て非なる異世界であることを物語っている。
男は、その足取りに自分の意思が感じられない美由を伴って、そのエントランスへ入っていく。
まさか、こんな形で、ラブホ童貞を卒業することになるとは……。
そう思いながら、拓は二人の後をつけて、自身もその暗がりの中へ踏み入る。
腕時計を一瞥すると13:30を回ったところだった。
当初待ち合わせを予定していた時刻から三十分が経過している。
今日は、随分趣向を凝らしたデートになりそうだ。
早めに勘付いておければ、先に警察に通報しておくこともできたのだろうが、ここまで来たからには仕方がない。自分でなんとかしよう。
入り口脇の部屋を案内するパネルが目に入り、拓は「ここって、昼間結構安いんだな」などと思った。
♨︎♨︎♨︎♨︎♨︎
そのホテルは入る部屋を、エントランスのパネルから選択した上で入室するシステムのようだった。
入る前に鍵が渡されることはなく、利用者が入室してから扉の開閉が行われなくなったことを確認したのち部屋の鍵が自動で施錠される仕組み、とのことだった。
用事が済んだ後に部屋の中にある機械で精算をすれば、部屋の扉にかかった鍵が解錠されて部屋の外に出られる、ということらしい。
物陰から男の様子を窺ってみると、ほとんどの部屋が空室であるにも関わらずあえて大部屋を選択しているのが見えた。
このホテルには、二人で入るのに必要最低限の広さで料金も手頃なワンルームタイプの部屋もあれば、大人数で入室してもなお余裕のある大部屋の所謂パーティルームタイプの部屋もある。
男が選んだのは後者だった。
当然大部屋の方が料金も高いので、わざわざそれを選ぶこともまた妙に感じた。
しかし、大部屋の方が拓にとっても都合が良いかもしれないとも思えた。
仮に、男が美由に何かしようとしたら、拓は即座に男を取り押さえるつもりでいた。
その時に部屋はなるべく広い方が、美由に怪我か何かをさせないで済む確率が高いだろう。
また、パーティルーム型なら、部屋の中にも仕切りなどの遮蔽物が多そうだから、飛び出ていくタイミングも測れる。
拓は男が選んだ部屋の番号を確認するや否や、気づかれないように足音を立てず早足で二人の背後を通り抜け、先回りしてエレベーターに乗り込み、当該の部屋があるフロアへ先回りした。
到着したフロアの、部屋とは反対側の通路の影からエレベーターホールの様子を窺っていると、間もなく拓が乗ってきたその次の便で二人がフロアに上ってきたのが見えた。
二人はそのまま部屋に向かっていたので、拓は静かに後を追う。
例の自動施錠機構がついた扉を男が開き、美由を先に入れてから男も部屋に入り扉を閉じる。
二人が入室したのを見届けてから、拓は素早く部屋に駆け寄り、音を立てないようにドアレバーをゆっくり回す。
鍵はまだ掛かってなかった。
静かに中の様子を見渡す。
男と美由は入室してから部屋の奥の方に入っていったようで、入り口付近には誰もいない。
そのことを確認してから、拓は男に気づかれぬよう忍び足で、自分も部屋の中に侵入していった。
部屋の入り口とベッドなどが置いてある広い場所との間には、ちょうど良いことに体を隠すことができる間仕切りがあったので、拓はそこから二人の様子と部屋の概観を観察することができた。
拓がラブホテルというものに対して想像していたよりも、そこはまるで普通のホテルと同じように清潔感のある部屋だった。
よくよく見れば広さの割に窓が一つもなかったり、普通の宿泊目的で考えるとどうも部屋の区切り方がおかしかったり、部屋の真ん中奥に大人二人で寝そべってもなお余裕がありそうな馬鹿でかいベッドが鎮座していたり、ベッドの枕元に新品のゴム製品が並べられていたり、部屋の隅に精算機と自販機のようなものが置かれていたり。
そういった、“そういう用途”のための部屋であることは明白なのだが、それ以外の家具類なんかは意外と落ち着いたセンスのもので揃えられていた。
照明も、その辺にあるカフェやラウンジで使われているような暖かみのある電球色の蛍光灯が部屋全体を照らしている。
かと思ったら、男がテーブル上のリモコンのスイッチを弄って、照明の色を紫色とピンク色の混ざったなんだかイヤンバカンウフンとでも言いたくなるような光色に変えやがった。
やっぱりそういう目的なのか、と拓は顔を顰める。
照明の灯りを、美由の形の良い双丘を柔らかく包むシャツの光沢が慎ましやかに反射していた。
部屋の中でのそれぞれの位置関係として、先に入室した美由は最奥の馬鹿でかいベッドの手前に入口側を向き直って立っており、男はその2mほど手前側で美由の方を向いていて、そして拓はさらにそこから5m離れた間仕切りの反対側から様子を窺う構図となっている。
美由がこちら側を向いたことで拓はその表情を見ることができたが、やはり心ここに在らずといった感じで、目つきなんかもボーっとしていて、目を開けて立ったまま寝ていると表現した方がいいかもしれない。
さっさと男を取り押さえに行っても良いのだが、少し状況を確かめる余裕はあるかもしれない。
勿論、美由におかしなをしようとし次第、死角から強襲してやる。
男は、照明のリモコンを備え付けのテーブルの上に置き直すと、ハァ〜と大きな溜め息をついた。
溜め息をつきたいのはこっちだっつーの。
「さーてよしよしよし、これだけ広い部屋なら、生地を目一杯広げられるざんすね」
男は部屋を見渡すとブツブツ呟いている。
そして、上着の胸ポケットから片眼鏡を取り出すと徐に右目に装着した。
「んー、やっぱりこれがないと落ち着かないざんすねぇ。
やはり、ミーと言えば片眼鏡、片眼鏡と言えばミーざんす。
もう少し懐に余裕が出てきたら、そのうち左目用の片眼鏡も手に入れて、そんで両目に片眼鏡を装着してみたいざんすよぉ」
男はケ◯ト・デリ◯ット氏よろしく片眼鏡を大仰にクイクイと前後に動かし、その位置を調整しているようだった。
こいつは一人でずっと何言ってんだ?と、拓は訝しむ。
男の独り言は続く。
「それにしても、ミーがこんなドサ回りのような仕事までやって日銭を稼がなければならなくなるとは……。
世の中分からんものざんす。
請け負った大仕事が債務不履行扱いになって、スッカラカンざんす。
仕事にどうしても必要なものだと説明して、なんとかこの一丁羅だけは差し押さえられずに済んだざんすが、せっかくコツコツ働いて稼いだお駄賃も返済で手元には残らない……。
やってられんざんす。
なんとか売り物になるものを沢山仕入れて、弁済と賠償を早く終わらせなくては……」
話を聞いていると、男はどうやら事業の失敗か何かで巨額の債務を抱え込んでいるらしく、その負担を少しでも軽くするべく、美由をこの場所まで誘導してきた。そんな口振りだ。
拓はてっきり、その男は美由を襲うつもりでラブホまでやってきたのかと予想していたのだが、どうもそういう雰囲気ではないらしい。
しかし、巨額の債務を解消するために『売り物を仕入れる』と言う“動機”に対し、若い女の子をラブホテルの一室に連れ込むという“手段”を取るというのは……。
どうにも物騒なワードしか浮かんでこない。
これは、想像以上にとんでもない事態に巻き込まれてしまったらしい、拓の緊張感はぐっと増していた。
流石に、部屋の中に監視カメラはない。
部屋の外の廊下にはカメラが付いていた気がするから、もしかしたら後から部屋に侵入しようとする拓の姿にスタッフが気づいている可能性は、なくはない。
が、店側が客同士のいざこざにどこまで介入することになっているかは、拓には知る由もない。
どうやら背後の扉は既に自動施錠されているらしく、この状況で今から警察に通報する余裕はなかろう。
あとは拓自身で男をなんとかするしかなさそうだ。
部屋の床は綺麗に掃除されたフローリングで、扉に接した上がり框で靴を脱いでから入室するように注意書きされているが、拓は構わず土足で上がり込んでおり、いよいよ臨戦態勢を整えていた。
「さて、いい加減仕事に取り掛かるざんすか」
男の言葉を聞いて、拓はそろそろだなと構えた。
しかし男は、美由に手をかけるでもなく、上着の内ポケットからスッと何かを取り出した。
あれは何だ?小瓶?
学校の理科室の戸棚に置いてある薬品を保管する壜のような。
あるいはウイスキーのベビーボトルのようにも見える。
「うえー、本当はこれ苦手なんざんすが……。
ん、では失礼あそばせ」
苦々しそうにそう言うと、男は小瓶の中身を口に含んだ。
なんだ?自分の良心に踏ん切りをつけるために酒でも呷ってるのか?
判断力が下がるのは好都合だが……。
確実に攻撃を入れられるタイミングを測って、測って……。
思いながら次の瞬間、男は口一杯に含んだその液体を、毒霧よろしく美由の顔そして上半身に勢いよく吹きかけていた。
「何しとんじゃゴルァア!!!」
「あいたーっす!!?」
見るや否や、拓は慌てて男の右斜め後ろから猛ダッシュで走り込み、美由の身長に合わせて中腰になっていた長身の男の突き出した尻に、思いっきりサッカーボールキックを叩き込んだ。
拓本人ですら測ってもいないタイミングだったことから、男にとってはなおさら意識の外から見えない一撃を叩き込まれた形で、男は無防備な体勢のまま左斜め前に吹っ飛びうつ伏せに倒れ込んだ。
法学徒の風上にも置けない不意打ちだぜ、と拓はどこか思う。
間髪入れず男の背中にのしかかる。
その体格から受けた印象に反して男の体は厚みに乏しく、膂力もほとんど出せない様子で、拓は拍子抜けすら感じていた。
力ずくで男の両手首を後ろ手に押さえ込み、男が身につけていたマントでぐるぐるにして拘束していく。
そのマントは男の首元から繋がっていて、男はほぼ身動きが取れなくなった。
これぞまさに自縄自縛……、いや自縛ではないか。
「痛い痛い痛い!?
誰ざんす?!
何をするざんす!」
男は不意打たれたことによるショックと尻の激痛で完全に錯乱状態に陥っていた。
拓は男の体の自由を奪いながらも、一体男に何をされたのかと美由の方をチラと見た。
すると、そこに想像だにしない光景を見た。
まず、美由は男が吹っ飛んだ弾みを受けて、背を向けていたベッドの上へ仰向けにふわりと倒れ込んでいた。
その時に、美由が軽く羽織っていただけの薄手のジャケットははだけてベッドの傍らに脱げていた。
そこまでは、まだ分かる。
男が吹きかけた液体は琥珀色に近い色合いで、美由の顔、緩やかな首元、シャツにかけて吹きかけられた跡が、にわか雨に降られた後のようにしっとりと濡れていた。
しかし、その水分が見る見るうちに乾いていく。
いや、見たところ、乾いていると言うよりも、まるで美由の顔、身体、そしてシャツに一気に『浸透していっている』という表現が近いかもしれない。
すると、美由の身体に異変が起きる。
美由の胸元がムニュムニュと蠢き始めたかと思うと、そのシャツがだんだんと縦に横に、膨張し始めたのだった。
まるで、シャツの内側から四角い枠が、美由の背丈と同じくらいの大きさの長方形を目指して伸びていっているかのようだ。
白いシャツの生地がぐんぐん伸びていき、美由の腕、首元、顔を徐々に飲み込んでいく。
下半身もまた同様で、シャツの生地がまずはデニムのショートパンツを柔らかく包み込むように飲み込んでいった。
この時点だけを切り取って見ると、全身が飲み込まれていくその進捗具合の組み合わせから、元々は半袖のTシャツに過ぎなかった服が、喩えるならまるで上は長袖で下は限りなく短いミニのスカート丈までひと繋がりのシャツワンピースに、その姿を変えたように見えた。
しかし、その状態に留まらず次の瞬間にはシャツはさらに美由の身体を飲み込み続け、太腿、膝、脛、そして部屋に上がる際にミュールを脱いだ素足までを飲み込んでいった。
美由の身体を完全に包み込む人間大の長方形に辿り着くと、シャツの縦横方向の膨張は落ち着いたようだった。
美由の見た目は、喩えるなら、その着ていた白シャツと同じ生地で出来た四角いバキュームベッドに、全身を覆われているような感じになっている。
そのバキュームベッド状の物は元のシャツと同じような質感と光沢を表面に持っており、美由の肢体、浮かび上がったそのラインを照明の灯りの下露わにしている。
「えぇ……?」
何なに?なんだこれ?
バーチャルなんちゃら映像ってやつか?
非現実的な光景すぎて意味がよく分からない。
なんか、そういう、ドッキリ的なやつ……?
美由の様子がどうなっているのか詳細を確かめたいが、そのためにまずは身の安全を完全に確保したい。
拓が押さえ込んだ男は、とりあえず今のままでもろくに身動きできない様子だったが、念のためにもう少し厳重に拘束しておきたい。
部屋の隅にある自販機を覗くと何故か、何故か縄が売ってあったので、それを使って素早く男を亀甲縛りに締め上げた。
哀しいことに、この緊迫した状況で俺の頭が瞬発的に思い出せる人体の拘束方法が、亀甲縛りしかなかったのだ。
断じてふざけているわけではない。
人間が普通に生活してたら、人体の縛り上げ方について調べる機会なんて、亀甲縛りを除いてまずないだろう……。
今日家に帰ったら、もう少しまともな縛り方を検索しておかなくては……。
一般的に、亀甲縛り自体には実際の拘束効果はほとんどないとされているが、男の一丁羅は表面積が大きいせいか縄が食い込みやすくなっているみたいで、結果二重三重に拘束された形となっており、これで戦闘能力はほぼ失われたと見ていいだろう。
ひとまず落ち着いて、美由の方に視線を戻す。
先程の光景が気のせいであればなおよかったが、果たして現実だった。
全身を長方形のシャツ生地で覆われた美由の身体はだんだんと厚みが失われていっており、平面に近づきつつあった。
身体の中でも特に厚みのあった胸と頭蓋以外の箇所は、ほとんどぺったんこになっている。
言い表すなら、美由の身体は、人間大の、元の白シャツと同じ布生地の反物になろうとしていた。
ただ、その反物の真ん中のやや上側、元々は胸から腹の部分にかけて印字されていたブロック体の黒文字の英文はそのまま柄として残っている。
あの英文は何て書いてあるんだったか……。
拓は高校の頃から英語が特に苦手で、結局それは大学受験まで克服できなかった。
洗濯を繰り返したことで文字が掠れているのも元の通りだ。
それ故に、その反物が間違いなく、美由という人間が変化したものであるということを証明しているようだった。
この変化の過程のどこかで、男が美由にかけていた催眠術のようなものが解けたのか、美由は自分の体の変化に抵抗するようにベッドの上でビタンビタンとのた打っていた。
厚みの残った顔の部分が、荒い息を繰り返すように口を開閉させているシルエットが浮かんでいる。
それに合わせて、胸に当たる二つの半円形の膨らみが上下している。
拓は、美由だった物が乗ったベッドに近づいて状況を確かめようとする。
美由の厚みが失われる速度が鈍化してきた。
変化が落ち着きつつあるのか、それとも完全に反物に変わるフェイズに入る前段階の小休止か。
美由だった長方形は、薄い箇所は約0.5cm〜1cm、厚みが残る箇所は3cmぐらいといった具合に、その一枚の中で人体の凹凸が面影として残る物体と化していた。
拓は実際にそれを触ってみる。
その中に、化学繊維系に若干綿が混紡されている感じの布生地としての質感と、人肌の柔らかそうな肉感や血の通っていそうなプニっとした柔らかい感触が共存していた。
この状態になってもなお、美由の意識はその反物に残っているらしい、ビクッビクッと波打って動いている。
あまりに非現実的すぎる出来事を目の前にすると、人間というものは却って冷静さが研ぎ澄まされるものらしい。
拓は、その美由の身体の表面に、事態を好転させる手がかりを求めつつも、その美由の姿は何かに似ている気がする、どっかで見たことがある気がする、そう思っていた。
あ、思い出した。エイだ。
大学の夏休みが始まってすぐくらいに、美由と一緒に行った水族館の水槽で見たエイの腹に似ている気がした。
何頭かのサメと数えきれないほどの魚の大群が泳ぎ回る大水槽、一匹のエイが人間たちの姿を面白がるかのように、水槽のこちら側へ顔を近づけてきた光景がフラッシュバックした。
エイの腹は白っぽく、そして表面はツルツルとしてそうな見た目をしていた。
それでいて且つ、生物的な柔らかさのある質感というのか、有機的な趣を持ち合わせていた。
よく見ると、美由の顔と胸だった箇所に残った凹凸が、そのままエイの顔と鰓の部分に見えなくもない。
つまり、美由は、エイになったってコト???
……いや、何を考えてるんだ俺は。
んなわけあるかい。
もっと真面目に、シリアスに考えなければならない。
あと、エイに似てるっていうのは、美由には直接言わない方が良いだろう。
ビクビクとしている反物に、拓は確認するように話しかけた。
「お、おーい、美由ー?生きてるかー?」
それにしっかり反応するよう美由は、ビタン、ビタン、と身体を波打たせて返事をした。
うむ、人間としての美由の意識はまだちゃんとあるようだ。
翻り、美由をこの姿に変えた張本人たる男を問い詰める。
男が毒霧を美由にぶっかけてから、この変化は始まった。
コイツから聞き出すのが一番手っ取り早い。
「おいオッサン、これはどうやったら元に戻るんだ?」
しかし男は拓に不意打ちを食らってから恐慌状態が続いているようで、拓が縄でぐるぐる巻きにした口元からは混乱を訴える喚き声しか聞こえない。
本人でも制御ならないパニックに陥っているのだろう、拘束されている体をもんどり打つのに必死だ。
うーん、この男から何か情報を得るには、多少落ち着くのを待つしかなさそうだ。
しかし、もし美由の身体の変化が再開した場合、完全に反物と化してしまうまでにそれが間に合うかは怪しい。
もう一度、反物の表面を触って確かめてみる。
時間が経つにつれて、その触感は人間の素肌から布生地に近づいていってるのが分かる。
身体の凹凸をなぞられた美由は、くすぐったそうに身体をピクピク震わせている。
うーむ……。
ダメだ、元に戻す方法が分からない。
男の顔をもう一度見てみる。
毒霧、液体、浸透。反物、布。
もう一回、反物の方を見返す。
エイ、顔、水槽、水。
表面の掠れた印字が目に留まる。
服、汚れる。
繰り返し洗濯。……洗濯?
部屋の側面、精算機と自販機がある壁とは反対側を見ると、そこはこの部屋専用のバスルームへ繋がっていた。
ラブホ、風呂、あるな。
うん、洗濯だ。とりあえず、洗濯してみよう。
拓は美由だった反物を両手に抱き抱え、バスルームに運んで行った。
人間の姿だった美由よりも、その質量もかなり失われていて、だいぶ軽くなってしまっている。
しかし、それでも完全な布生地と比べれば、まだまだ生物然としたずっしりとした重みが感じられる。
いや、直截に重いとか言ったら多分、美由に怒られるな。
身体を抱きかかえられたことに気づいた反物が、おっどうしたどうした?と言いたげに、腕の中でモゾモゾ動いている。
ふと、水族館の飼育員さんも、エイの体を洗う時こんな感じなのかな、と一瞬思った。
しかしこれも、やっぱり美由に怒られそうなので口には出さないでおこうと思った。
ラブユーベイベ(後編)に続く
前回書いた「名札」が2万字を超えてしまったので、今度こそコンパクトな話を書こうとしたんですが、書き終わってみると4万字を超えてしまってました。何で?