考え無し
幼いころは何でもできるような万能感があった。勉学にしろ、スポーツにしろ周囲と比べ能力は高いほうで、親も厳しくはあったが、子供の決めたことに口出しはしつつも反対をすることはめったになかったし、習い事にも通わせてくれた。こういう恵まれた環境で、不自由なく育った私は現在、仕事をやめようとしている。
何か特別な思いがあって辞めるだとか、やりたいことを見つけたためではない。漠然と、何を考えるのでもなく辞めたいそう思ったのである。思い返すと自分の人生がいかに薄っぺらく、中身がなくて、考え無しの行動が非常に多かったと苦笑いを浮かべてしまう。
転換期はいつであったか、おそらくだが中学校、高等学校の受験に失敗し競うこと、努力をすることから逃げた時からだろうか。いや、努力自体は昔から苦手であったから、性分としか言えないが、それでも厭々やりはしていた。そして、滑り止めの高校に入学し、現在も付き合いのある友人も出来たことから、結果からして後悔はしていない。ただ、嫌いであった努力をしてまで勉学に励もうとは到底思えず、授業を受けてさえいれば、一定の成績を収めることができていたので、アルバイトや部活動、友人たちと遊ぶことに明け暮れていた。
高校三年生を迎え、周囲が大学受験の雰囲気になっていてもそれは変わらず、アルバイトをしていた。何を買うためでもなく、働いて無駄に金を使っていた。兄弟が有名大学を卒業し、大手企業に採用されたからか、見栄やプライドだけは一丁前な私は、周囲に努力をしていますよと主張するためだけに、北海道の僻地にある大学に入学することにした。そこでは、経営を中心に学んでいた。周りは、将来のことを考えて進学しているものが多く、見栄のために進学した自分が酷く恥ずかしかったのを覚えている。そのような矮小な考え方をしている者が、僻地で一人暮らしを出来ることは当然だができず、私は次第に学校に行かなくなり、二年後、私は北海道の地を去り、実家に逃げ帰った。
半年ほど、イベント設営のアルバイトをしていたが、流行り病の煽りを受け、仕事がなくなった。そのため、何とか働くことのできる職はないか探していると、知的障害を持っている方の介護施設の募集があり、人手が足りていない状況で採用されないことはないだろうというあまりにも考え無しの甘い思考で応募をし、結果予想通り採用をされた。
職場の雰囲気は良く、人間関係も良好であったが、元々人と関わることが苦手であったため、利用者とコミュニケーションがうまくいかずに、ストレスが溜まってしまった。考えもなく行動した挙句に、ストレスがたまり現状やめようと考えに対して、批判はあるだろう。自分自身でも都合がよすぎると思っている。ただ、たまったストレスがいつ爆発するか自分でもわからず、解消を試みるも、出勤し帰宅すると限界値までたまっていたことがある。このことからも、辞めたほうが私自身にとっても、職場、利用者にとっても最善のことなのではないだろうかと思い込むことにしている。本当はわかっているのだ。逃げるための口実にしていることぐらいは。情けなく、どうしようもない私のちっぽけなプライドを守るためには言い訳を考え、自己の正当化をさせるしか方法がないのだ。他者と比べられることが嫌いなくせに他者には自分と同等のことを要求してくる。図々しい奴。それが今の私である。人生百年時代と言われている現代社会において自分が高齢者どころか三十代さえ想像することのできない生後二百七十五ヶ月の幼子。先の長い将来のことを考えると、酷く憂鬱な気分になるのはお年頃というべきなのだろうか。
ただ、自分という人間が嫌いで今すぐにでも幕を下ろしたいという気持ちと、ねじ曲がったような性根が嫌いではなく、まだまだ生きていたいという気持ちが同居している。矛盾である。矛盾ではあるのだが、後悔しているが、後悔していない。好きだが、嫌い。とは表裏一体であってどちらも自分の本音であるのだと考える。相反する気持ちを抱え、悩み、それでも人は生きていくのだ。
この先も、私は選択する場面が訪れた際に、逃避を選択してしまうだろう。そのたびに後悔をするだろう。あの時、こうすればよかったのだ、ああすればうまくいったのかもしれない。幾千も考えていくだろう。しかしながら、道は続いてしまうのだ。いくら後悔しようと過去に戻りたいと願っても、後ろに戻る道はなく、前に進み続けるしかないのだ。途方もなく長い道程、途中棄権したくもなる。ただ、きっと私は進み続けるだろう。自分でも間違っていると思いながら、真っ直ぐではない捻くれた道を。終着点はまだ遠い。結局は、たとえ逃げ続けた人生で他人から言われようが、辿り着いた後でしか自分の人生を総合評価することは出来ない。であるならば、逃げ続けるというのも選択肢としてありなのではないだろうか。今後の人生、憂いつつ、楽しみにながら私は仕事をやめようとしている。