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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

やぶれかぶれの晩餐

作者: サブロー

 



 君は終電を気にするようになった。


 理由はそれで充分だった。









「一番良い肉を食べたいんですが」


 磨き上げられたシルバーの鉄板の向こうで、僕よりも若いシェフが面食らったのが分かった。無地の黒シャツのボタンは一番上まで留められていて、それが彼の真面目さをあらわしているようだった。


 鉄板焼きの店に入るのは初めてだった。

 店に入るまで、僕は鉄板というものは黒いものだと思っていた。けれど、この店の鉄板はまばゆいシルバー。その輝きに早くも圧倒されそうだった。


 平日だというのに店内は賑わい、僕は一番奥のカウンター席に通された。ほかの客からは少し離れた場所だ。一人客だからなのか、それとも別の理由があるのか。変なところで勘ぐってしまう。

 店の外観から、僕にはそぐわない高級店だとは分かっていた。分かって入ったのだから、僕も大概ひねくれている。客は誰も彼もが洒落込んで、普段着丸出しの僕は完全に浮いていた。


 席に着いた途端、カウンターの向こう側に髪を短く刈り込んだ青年が現れて、お品書きを差し出してきた。単なる従業員かと思ったが、ぺこりと頭を下げられて「今日担当させていただくナカツです」という言葉で、彼がシェフの一人なのだと知った。


 常連らしき客たちを相手にしているベテランのシェフとは纏う空気が明らかに違う。練習台にされるのかもな、と意地の悪い考えを巡らせながら、こんな高級店がそんな適当をやるだろうかとも思う。でもどちらでも良かった。僕だって、純粋に料理を楽しみに来たわけではなかった。


「一番良い肉、ですか」

「こういう店、初めて入るのでよく分からないんです」


 正直に白状すると、目の前の彼は「なるほど」と漏らし、困ったように頭を揺らした。困らせたいわけでも、いびりたいわけでもなかった。けれどどうやら、この青年はセールストークの面では未熟らしい。実のところ、僕もあまり人と話すのは得意ではない。

 言い訳がましく「値段はいくらでも良いです」と続ければ、彼はかえって困惑したようだった。こんなところで金の話をするのは無粋なのだろうが、初心者なので見逃してほしい。

 しかし何も見ないでこんなことを言い出すのも失礼だろう。そう思い、僕は真っ白なお品書きに視線を落とした。


「あ、じゃあこのブランド牛ってやつでお願いします。フィレで」


 ステーキコース、という分かりやすい名称のなかで、そのブランド牛が一番高価だった。A4、A5のさらに上。ランクの意味も知らないが、とにかく高ければ美味いのだろう。100グラムでこの値段か、と心の隅で驚いたが、席を立つつもりは全くなかった。

 ナカツ、と名乗った若いシェフがほっとしたように頷く。


「焼き方はどういたしましょう」

「おまかせでお願いします」

「かしこまりました」

「あとこれ、ガーリックライスも」


 メニューの下に小さく書かれていた文字をそのまま読み上げる。100グラムのフィレ、という心もとなさに貧乏根性が働いた。こういう根本的な考え方って、変えられない。お品書きで口元を隠してひっそりと笑った。こんな店に入るのは、最初で最後だろう。


「お飲み物は?」

「えーっと……赤ワインでおすすめがあれば」

「ではフィレに合うものを」


 安居酒屋でそうしているように「水で」と言える空気ではなかった。酒はほとんど飲まないが、肉には赤ワインが合うとよく聞く。

 話を聞いていたのか、後ろに控えていた従業員の女性が、どこからともなく現れたワインボトルを傾け、グラスに注いでくれた。せっかくなら肉と一緒に飲もう、と会釈だけしておく。


「オイルが少し跳ねます」


 ナカツさんが、たっぷりのスライスガーリックを鉄板にのせた。その上から澄んだオイルをかける。ぱちぱちと香ばしい音と、わくわくするような匂い。

 若く見えるシェフは、鉄板と同じシルバーのヘラを両手に持ち、それらを手際よく炒め始める。ヘラ、という名称が正しいのかは知らない。それは僕が知っているものよりも柔らかくしなり、金属同士で擦れても不思議と不快ではなかった。


「苦手なスパイスはございますか?」

「いいえ、なんでも食べます」


 言ってから、ますます貧乏くさいな、と反省する。ナカツさんが「良かったです」と微笑んでくれたのが救いだった。


 お前、なんでもうまそうに食うよな。


 ここにはいない男の声が耳の奥で鳴り、すぐに消えた。あいつは、僕がこんな場違いな店に来ていることを知ったら何と言うだろう。


 広がっていくオイルを巧みに手元に集めるさまは手品のようだった。それらの無駄のない動きで、僕は彼の練習台なんかではないとよく分かった。彼はプロの人間だ。

 

「あの、こういうお店って、客とシェフの方で何か話した方がいいんでしょうか」


 何も分からないついでに、声量を落としてナカツさんに聞いてみた。彼は一瞬目を見開いたあと、ふっと笑って答える。手をひとときも止めることなく。


「お話とお食事を一緒に楽しみたいお客様もいらっしゃいますし、静かなお食事を楽しまれる方もいらっしゃいます」

「なるほど。それじゃあ、黙って見学します」

「緊張しますね」


 冗談めかしてナカツさんが言う。

 こんがりときつね色に仕上がったガーリックを、ナカツさんはそっと脇に寄せた。食欲を誘う香りを吸ったオイルを器用にポットに移すのを、僕は感心しきって見つめていた。そして当たり前に空腹を覚える自分にも感心した。


 昨日の夜、恋人と別れた。

 七年付き合った恋人だ。男同士にしてはよく続いたと思う。僕にとっては、初めての恋人だった。


 元々は会社の同僚だった。同期入社で、はじめのうちはウマが合わなくて。たくさん本音をぶつけ合い、ぶつけられる気安さを心地良いと感じるようになった。葛藤を超えて恋人と呼べる関係になり、僕たちは互いをより深く理解できるようになった。


 理解できるから、ほんの少しのずれに気づいてしまう。

 半年くらい前から、あいつは僕と一緒にいるとき、終電を気にするようになった。


 同棲はしていなかった。一度僕から誘って、曖昧にされて終わったから。今思えば、あのときから掛け違えは起こっていた。もしかしたら、もっと前から。


 人の心の中身を考えても意味がない。けれど原因を探し当てたくて、ぐちゃぐちゃに散らかった心の中を何度もひっくり返して「これかな」と思うものをあいつに差し出した。そのどれにも当たりはなかった。僕のやっていたことは、当たりの入っていないくじ引きだったのかもしれない。


 わざとらしく思い出話もした。冬に二人で行ったホテルで暖房が壊れていたこと、酔っ払ったあいつが川に落ちたのを、僕が引っ張り上げたこと。バレンタインデーが来るたび訪れる嫉妬。重ならないラーメンの好み。夜更けの飲み屋街でこっそり手を繋いだ。

 日付が変わるまで一緒にデータの修正もした。帰りに缶コーヒーで祝杯を上げて、そのままホテルに転がりこんだ。次の日揃って遅刻をした。しわしわのスーツを指差し合って、お互いをけなして笑ったあの日。


 でも、僕たちはもうだめだった。

 何か致命的な理由があるわけでもなく、もうこれ以上良くなりようがなかった。


 冷めてしまった、と言ってしまえば簡単だ。けれど僕たちは必死に互いを手繰り寄せようとしていた。楽しかったあのころの熱を甦らせたいと思っていた。そうして必死になればなるほど、差し出し合うものの形に違和感を覚える。歩幅はとっくに合わなくなっていた。最後に肌に触れたのはいつだろう。


 僕は足元にまとわりつく終わりの気配から視線を外して、目の前のあいつを見ようとしていた。

 あいつはきちんと足元にあるものを見ていた。


 終電前に帰る。


 そんな言葉が当たり前になった。

 もうだめなんだな、とぼんやりと思った。僕たちは一晩を過ごすことすらできない。そして僕も、その言葉にほっとする自分がいることに気づく。ふたりでいることが、僕たちにとって窮屈になっていた。


 もう、やめとこうか。


 だから今朝、僕はあいつにそう告げた。別れようか、とは重すぎて言えなかった。けれどあいつは真剣な顔をして「分かった」と頷いた。それ以上はなかった。


 最後までにくたらしい奴だ。

 一を話したら、三から五くらいは分かってくれる。

 僕たちは互いを深く理解している。改めてそう思った。


 それで終わった。七年間の終わり。

 正直現実感がなかった。

 たまたま有給を取っていたから、僕は今日、ベッドの上に仰向けになって一日を過ごした。


 どうして有給を取ったんだっけ、と考えて、今日があいつの誕生日だと思い出した。去年の僕が、勝手に予定を入れていたのだ。プレゼントは用意していなかった。

 特別な日。特別であることに、僕たちはいつの間にか慣れてしまったのだろうか。


 終わってしまった。

 それだけが何度も頭の中を巡る。悲しみと安堵を比べたら、安堵の方が大きかった。

 それが僕とあいつの七年間の答えだ。


 身体を起こして街を歩いた。足を動かすことで考えを整理したかった。片付けようとしたそばから、また新しい思い出の箱をひっくり返そうとするくせに。


「焼いていきますね」


 鉄板の上に真四角の肉がのる。脂の入り方から、ひと目で良い肉だと分かる。じゅう、と小気味の良い音がした。

 ブランド牛のフィレ。やっぱり小さい、という言葉は飲み込んだ。でかい肉を食べても、胃もたれをするだけだ。

 ナカツさんはミルで胡椒を振り、ヘラを使ってするりと肉を裏返した。焦げ目が均等についてきれいだ。脂の多い部分はナイフで切り取られ、脇で細かく刻まれた。あとでガーリックライスに混ぜるのだという。


「火が上がります」


 ブランデーが肉の周りに振りかけられ、言葉通りに火が上がる。なんだかすごすぎて笑いたくなった。実際、ちょっとだけ笑ってしまった。


「テレビで見たやつみたいだ」

「喜んでいただけて何よりです」


 子どもみたいな僕の感想に、ナカツさんは微笑みで応えた。この人は僕に合わせてくれているだけで、本当は誰とでも打ち解けられるのかもしれない、なんてことを考える。


 焼き上がった肉の塊を、鋭いナイフが切っていく。清々しいくらいの切れ味に舌を巻く。内側から瑞々しいピンクの肉が覗いていた。


「どうぞ」

「いただきます」


 皿にのせられたフィレは、食べなくてもおいしいと分かった。表面の焦げ目を見ただけで喉が鳴る。付け合わせの野菜も追加でやってくる。


 箸を伸ばして掴み、柔らかさに驚いた。そのまま口に運び、もったいないな、と思いながら噛み締める。


「うわ」


 文句なしにうまくて、驚きの声が出た。肉汁の味が違う。肉そのものの味とブランデーのほのかな甘みが口の中でじゅわっと広がって、噛むごとに味わいが深くなる。

 喋るのが惜しくなって、僕は黙々と肉を噛んだ。

 普段はこんなにしっかり噛まない。ここ数年忙しさにかまけて、食事をゆっくり楽しむこと自体ほとんどなかった。


 結局さぁ、質より量なんだよ。


 また、あいつの声が耳の奥で響いた。ふたりでよく焼肉の食べ放題の店へ行った。まともな牛肉なんてあるはずもなく、ぺらぺらの豚肉で空腹をごまかした。ほとんどタレの味しかしなかったけど、それでもうまかった。本当に、うまかった。

 焼肉は米をおいしく食べるためにある、とあいつはいつも言っていた。もうその馬鹿げた理論を聞くこともない。終わりって、そういうことだ。


 うまいものを食べたかった。

 あいつとは食べたことがない、とびきりうまいものを。


 一緒にいすぎたから、ふたりで食べたことのないものを探す方が大変だ。それくらい、僕たちは同じ時間を過ごした。

 重なったものが大きいからといって、いつまでも一緒にいられるとは限らない。あのころの僕たちは、まだそれを知らなかった。


 口の中に肉を放り込む。A5よりさらに上のフィレ。

 そんな肉を食べたのだと、僕はあいつに自慢することができない。あいつも知らないまま生きていく。


 噛めば噛むほどうまい。

 どうしてこんなにうまいのか、難しいことは僕には分からない。


 でも、それでいいと思う。

 理由や理屈が分からなくても、噛み砕いて、飲み込んで自分の身体の一部にして、しばらく経ってから「なんだかよくよく分からないけどめちゃくちゃうまかった」と思えれば、それでいい。

 きっといつか「なんだかよく分からないけど幸せだった」と思える日が来る。

 

「……とても、うまいです」

「ありがとうございます」

「良い肉でした」


 箸を置いて馬鹿な感想を告げれば、ナカツさんがほっとしたように笑った。


「難しい顔をされているので焦りました」


 そう言ってから、ナカツさんは「しまった」と言わんばかりに口をつぐんだ。僕は「すみません、うますぎて」と笑って返す。きっとこの人は、喋りすぎないように普段は黙っているのだろう。


「まあしかし、おいしいものを食べているときに笑わなきゃいけないなんて決まりはないですからね」


 ナカツさんが声をひそめて言った。僕はまた笑う。独特な言い回しをする人だ。けれど、こうして、些細なことで笑えるのがうれしい。


 若きシェフは少し照れたようにはにかんでから、先ほどポットに移していたガーリックのオイルを鉄板に敷いた。真っ白なライスが上にのる。追加で頼んでおいてよかった。100グラムじゃさすがに物足りない。


「……また、給料が入ったら来たいですね」


 ライスが色づいていくのを見つめながら、僕はぽろりとそうこぼした。お世辞ではなく、本音だった。今度はランクを落としてもいい。きっと、この店で食べたらうまい。

 うまいものを食べたいと思えるうちは、僕は大丈夫な気がする。


「ランチなら、もう少しお手頃ですよ」


 ナカツさんが弾んだ声で言う。

 立ち上がる蒸気の向こうに見える得意げな表情を、僕は穏やかな気持ちで見つめ、笑った。





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[一言] 肉の焼ける音も香りもするのに 静かな空気感と佇まいが素敵でした
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