第61話 星の光は届かない
光里さんと話してから、まともに影人の顔を見ることが出来なかった。
影人が家族の元に戻るかもしれない。影人が私の使用人ではなくなるかもしれない。そう思うと、その可能性を考えると、影人の顔を真っすぐに見れなかった。
私は結局、そのまま影人を光里さんのところに送り出してしまった。
今頃は多分、朝実家にいるのかもしれない。
これからのことを話しあう必要があるだろうし。
(……ああ、もうっ。らしくないわよ、天堂星音っ)
そもそも影人と離れると言っても、消えていなくなるわけじゃない。
住むところを変えるだけだ。夏休みの時だってあったじゃない。
ただそれが今回、海外という場所になっただけだ。
そうよ。いっそ、私も海外に引っ越せばいいのよ。そんなことをしなくたって、会いに行こうと思えば会いに行ける。
(……って、邪魔しちゃだめよね。せっかく、生き別れた家族と再会できたんだから)
ため息をつきながらベッドに寝転がっていると、扉がノックされた。
……影人じゃない。影人のノック音は、一度一度がとても丁寧で、物音の中でさえ耳に届くほど聞き取りやすいから。
多分、使用人の及川あたりでしょうね。
「はい、どーぞ」
「お嬢様、及川です。客人がお見えになられております」
「お客様? まあ、いいわ……通してちょうだい」
誰だろう。誰でもいいけど。
今は何か気を紛らわせられれば、それでいい。
「天堂星音!」
勢いよくドアをあけ放って、ずんずんと歩いてやってきたのは海羽だった。
後ろには乙葉もいる。
「ああ、あなた達ね……どうしたの? 急に人の家に乗り込んできて」
「どうしたもこうしたもありませんわ。今日だったのでしょう? 影人様と、光里さんのお話は」
「……どうなったか、訊きに来た」
「ああ、そのこと……聞きたいならスマホでメッセージでも送ってくれればよかったのに」
「……既読がつかなかった」
本当だ。そういえばスマホを放置したままだった。
のろのろと画面を確認すると、乙葉と海羽からのメッセージで通知が埋まっていた。
「影人には訊いてないの?」
「……結果が分からない状態で、いきなり本人に訊くのはデリカシーが無い」
「わたくしたちが言うのもなんですが、家族の問題はデリケートですからね。慎重に動けるならば、それに越したことはありません」
二人なりに影人のことを気遣った結果の行動らしい。
「デリカシーだのデリケートだの言ってるけど、私の家にアポなしでずかずか踏み込んでくるのはいいわけ?」
「……わたしと影人の行動を、ドローンを使って監視しようとしていたのは誰だっけ」
「わたくしの家にメイド服を着て無断で侵入したのはどこのどなたでしたっけ?」
「私は過去を振り返らない主義なのよ」
ドローン? 無断侵入? 何の話?
まったく、これっぽっちも、心当たりがないわね。
「……それで。結局、影人はどうしたの?」
「お屋敷に返ってきたわけではなさそうですが」
「影人なら……妹さんと一緒に海外で暮らすことになったわ」
「か、海外ですって!?」
「……それ、本当なの?」
「本当よ。今頃、向こうの家で今後のことを話しあっているんじゃない?」
乙葉と海羽の二人は意外そうとばかりに眉を上げた。
「…………何よ。その反応は」
「……影人が、妹さんと話したのは今日だよね?」
「そうよ」
「では影人様は今日、光里さんと顔を合わせて、すぐに海外で暮らすことを決断したのですか?」
「だから、そう言ってるじゃない」
乙葉と海羽は、互いの顔を見合わせる。
あまり納得していない様子だ。
「……影人らしくない」
「あの影人様がそんなにもすぐ、あなたの傍から離れる決断を下すだなんて……正直、考えられませんわ」
「……記憶喪失だから?」
「そう言われてしまえば、それまでですが……」
どうやら二人の中にある影人のイメージと結びついていないらしい。
「……本当に、影人は迷わなかったの?」
「迷ってはいたみたいだけど……」
「……けど?」
「…………迷っていたみたいだから、私が背中を押してあげたのよっ」
そう。そうだ。私は、背中を押してあげたのだ。
隠すようなことでも言いづらいことでもない。
「自分の家族を選びなさいって。妹と暮らしなさいって。影人の主として最後の命令をしてあげたの」
「「…………………………」」
胸を張って言ってやったけれど、乙葉と海羽は納得がいってないらしい。
「……星音が、家族を選びなさいって、影人に言ったの?」
「言ったわよ。そして影人は、私の言葉通りにした。それだけよ」
「……そう」
リアクションが薄い。いや、乙葉は元々、そんな大きく反応を示すような子じゃないけれど。それでも今のは、いつもよりずっと反応が薄い。
「それで? あなたは何をしてましたの?」
「何をって……何よ」
「いつものあなたなら、朝実さんの家にお邪魔して影人様の恋人面をしているでしょうに」
「……もしくは海外への引っ越しの準備を進めているとか」
「…………っ。あのねぇ、私を何だと思ってるわけ?」
「……無駄遣い暴走お嬢様」
「お金を持った無法者」
こいつらよくもまあぬけぬけと。
私のことを非常識お嬢様と言わんばかりに。
そっちも大概じゃないのよ! 夏休みの記憶がまるっと全部飛んじゃったわけ!?
「私はあなた達と違ってね、デリカシーもデリケートも標準装備なのよ。第一、生き別れの家族との再会なのよ? そっとしておくべきでしょう、今は」
そうだ。そっとしておくべきだ。
「影人の幸せを考えれば、そうするべきなのよ」
二人に言ったつもりだった。でも、どうしてだろう。
自分自身に言い聞かせるためのように、聞こえてしまうのは。
「まあ、あなたがそれで納得しているのなら、わたくしは口を挟みませんが」
「何よ、それ。言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさい」
「あの天堂星音にしては随分と腑抜けたことを口走るものだと、思っただけですわ」
言いたいことだけ言って、アポなしで勝手にやってきた海羽は、これまた勝手に部屋から出て行く。その後を追うように続こうとした乙葉も、最後に私の方を振り向いて。
「……わたし、星音のことが羨ましかった」
部屋の境界を踏み越えて、扉の一歩先で。
「自分の感情を、惜しげもなく相手にぶつけられる星音が……キラキラ輝いて見えてた。空に輝く星みたいに」
隔てられた向こう側にいる乙葉は、じっと私の眼を見つめてくる。
「歌姫が、星を見上げていたの。でも今は……見上げても、星の輝きがくすんで見える。わたしはそれが、少し……悲しい」
それだけを、言い残して。
乙葉は歩き出していく。海羽も。
先へ。部屋の中にいる私よりも、先へ。
「……何よ。好き勝手に言って」
私は、その二人を追いかけることもできなくて。
ベッドに倒れて身を委ねる。
自分の体を抱きしめる。手で覆って、抑えつけて、閉じ込める。
体を丸めて、溢れ出しそうになる想いを仕舞いこんで――――瞼を閉じた。
☆
お嬢に背中を押される形で、俺は光里が暮らしているという朝実家へと向かうことになった。
帰路についていたところだっただろうに、わざわざ走って戻ってきた光里の顔には、笑顔が溢れていて。走ってきたものだから、また転びそうになっていたところを反射的に支えると、今度はそのまま抱き着いてきた。
「兄さんっ……兄さんっ! 嬉しいです、とっても……!」
「あ、ああ……俺も、嬉しいよ」
ぽろぽろと涙を零す光里に対して、どこか俯瞰している自分がいる。
俺は涙を流せていない。この頬に雫の一つも伝ってはいない。
生き別れた妹と暮らすことになった兄として正しい反応なのだろうか。
(お嬢はもう、家に帰った頃かな。無事についたかな)
妹と再会して、泣くほど喜ばれているというのに、俺の頭は送迎車の停まっていた場所から天堂家の屋敷に至るまでの走行ルートと走行時間を計算して、お嬢の身を案じている。
心はまだお嬢のことばかりだけれど。
このまま過ごしていけば、お嬢に対する負い目も消えるかもしれない。
家族に捨てられて、一人になった。
一人であることの冷たさを知って、怯えて、恐れた。
俺は一人になりたくないから、お嬢に縋りつくように仕えた。
自分の心の安寧のために、お嬢を利用していた。
そんな負い目が、消せるかもしれない……。
忘れて、普通の高校生というものになってしまえば、胸を張って彼女の傍に……。
(……そのために今度は、家族を利用するのか?)
負い目を消すために家族を利用する。
それは、一人になりたくなくてお嬢に仕えていた時と変わらないんじゃないか?
果たしてそれは、天堂家の使用人として、お嬢に仕える者として……いや。今の俺は、もう……。
「兄さん?」
「え? あ、ごめん……何?」
「もうすぐ、お家に着きますよ」
「そ、っか……」
今は考えるのはよそう。せっかくお嬢がくれた機会を無駄にしてはいけない。
目の前の家族に集中しよう。
そうして着いた浅見家は、幸せを絵に描いたような庭付きの一戸建て。
天堂家の屋敷とは比べ物にならないのは当然だけれど、一般家庭としてはかなりの上澄みだろう。
「影人……」
家に入ると、母さんが出迎えてくれた。
何年かぶりに見た母さんは記憶の中よりも何年かぶりに見る母さんは記憶の中よりも老けていて、少し痩せていた。
「影人……ごめんなさい」
母さんが俺に対して最初に行ったのは、涙交じりの謝罪。
弱々しく震えながら頭を下げることだった。
俺はそれを……どこか……。
「謝る資格が私にないことも分かってる……それでも……」
「……謝らないでいいよ、母さん」
「でも、私は……あなたを…………」
「高校生の俺なら分かるよ。あの時の母さんは、もう心がボロボロで、どうしようもなかったって。仕方がなかったことだよ」
「ごめんなさい……ごめ、んなさい…………!」
ぽろぽろと、涙が零れて。溢れて。
涙ながらに謝罪されて、頭を下げられて、それを俺は止めた。
母さんのことを少しも恨んでいないといえば嘘になるけれど、少しだけだ。
精神を摩耗していた母さんの状態を考えれば、今の俺なら仕方がないことだというのも理解できたし、本当に悪いのは父さんだ。その父さんにしたって、きっかけ自体は不幸なものだった。
「ごめんよ、影人くん。僕の都合とはいえ、いきなり海外暮らしだなんて」
「気にしないでください。俺なら大丈夫です。天堂家で使用人をしてたおかげで、英語も喋れるみたいですし」
義理の父となる人は善い人だった。天堂さんが教えてくれた、天堂家の調査でも特に不審な点は無かったし、俺のことも快く受け入れてくれるそうだ。
恵まれている。
幸せだ。
なのに…………自分でも驚くほど、心が揺れてくれない。
生き別れた家族との再会を俯瞰して眺めて、あらすじだけをぼんやりと追っているような感覚。
本格的な引っ越しなどの話を軽くした後、今日のところはこの家に泊まっていくことになった。知らない家。床に敷いた布団。身に着けている衣服も、匂いも、どこか他人の物に感じてしまう。実際、今のところほとんど他人の家なのだから、当たり前なんだけど。
(慣れていけば、そのうち……ここも自分の家になるのかな)
電気を消した部屋は真っ暗で。
星空一つ映らない天井は、雲で覆われた空のようだった。