08:二人の距離
配達を終えてパン屋へと戻れば、あとはもういつも通りの仕事をこなすだけだ。
店主と夫人に配達はどうだったかと尋ねられ、依頼客が喜んでくれたことやクラウスに会ったことを話す。……もちろん、研究所内で迷子になったことは秘密にしておく。咎められはしないだろうが、心配されて配達禁止になりかねない。
そうして店を閉めて七時になれば、今日もまたシーラの足元が輝きだし、まるで吸い込まれるように店先から消え去った。
眩い光に目を瞑り、それが収まるのを瞼越しに感じてそっと目を開ける。
視界に映るのは先程までいたパン屋の店先……ではなく、壁一面に本棚が並ぶ部屋。佇むのはローブのフードを目深に被った一人の青年。
張り詰めた空気の中、シーラの足元の光がじょじょに薄れていく。
そんな中、シーラはスカートの裾を摘まむと恭しく挨拶をした。
「ごきげんよう、上級国家魔導士クラウス・ベルネット様」
畏まった口調で挨拶をすれば、青年がフードをパッとめくった。
紫色の瞳を細めて「なんだそれ」と楽しそうに笑う。
「今日は上級国家魔導士らしいクラウスさんと会ったから、私もそれっぽくしてみたのよ。どう? 召喚に応じる魔法使いに見えたかしら?」
「パンの香りがする魔法使いか。そりゃいいな」
クラウスが上機嫌に笑い、次いでローブを脱ぐと姿見に引っかけた。
これをシーラが「皺になる」と小言と共に畳みなおして机に置く……と、いつも通りのやりとりだ。
「店長が、クラウスさんなら配達料はただで良いって。それも焼きたてを持っていけるようにするって言ってた。明日から持って行こうか?」
「本当か? これで昼食に焼きたてパンが食べられる! 仕事もはかどるな!」
「今度メニュー表を作っておくね。奥さんとも話してたんだけど、クラウスさんに持っていくならいっそ王宮への配達を本格的に考えてもいいかもって」
事前にメニュー表で注文を受け、当日の昼にシーラが配達に行く。
その間は店を抜けることになるが、一時間程度ならば奥さんが対応できると言っていた。
確かに昼時は混雑する時間帯ではあるが、真のピークである『昼食用のパンを買いに来た客』でにぎわう時間帯はそれより少し前なのだ。
それを話せば、クラウスがなるほどと頷いた。心なしか表情が緩いのは、これからの『焼きたてパンを堪能する昼食』が胸を占めているからだろう。
「配達料の代わりにシーラ案内係になろうか。王宮内も結構入り組んでるし、毎度迷子にさせるわけにはいかないからな」
「失礼ね。今日迷子になったのは初めて行った場所だったからよ」
「それなら、次また研究所への配達があっても平気なんだな」
「……平気よ。七時には家に帰れるもの」
「それは帰るとは言えないだろ」
頑なに迷子を認めないシーラに、クラウスが楽しそうに、そして少し意地悪に笑う。
次いで彼はマグカップを二つ棚から取り出すと「飲むだろ?」と尋ねてきた。もっとも、尋ねはするもののシーラが返事をするより前に二人分のお茶を用意し始めるのだが。
ふわりと漂う香りに、シーラがいそいそと鞄からパンを取り出す。
今日売れ残ったのは食パン一斤と総菜パンが三つ、それとミニサイズのキッシュ。お茶うけに最適だろう。
戸棚から皿を取り出し、ふとテーブルの一角に視線をやった。
紙袋が置かれている。更に『シーラ』と書かれた紙が貼ってあり、中々に目を引く。
昨日までは無かったはず……と中を覗けば、見慣れた大皿が三枚重ねられていた。
「そういえば、お母さんから『そろそろクラウスさんのところから大皿を回収しておいて』って言われてたわ。どうりで我が家の食事が最近は小皿に盛られていると思った」
「そ、それはだな。ちゃんと洗いはしたんだ。だけどおばさんに会うときは決まって忘れるから、今日こそシーラを送る時に持って行こうと思って……!」
幾度と忘れ、今日こそはとシーラの名前まで書いて用意しておいたという。
その話にシーラは肩を竦め、紙袋を手にすると窓へと向かった。向かいの窓へと声を掛ければ、すぐさま母が顔を出す。
労いの言葉に返し、紙袋を差し出す。ついでに今日の戦果として食パンも渡しておく。
「回収してくれたのね、ありがとう。これで明日は大皿で食事ができるわ」
「おばさん、すみません。返そうと思ってたんだけど……」
「良いのよ、いつものこと。みんな『息子に届けた皿は二度と返ってこない』って言ってるもの。うちは回収係が居てくれるからマシな方よ」
コロコロと上機嫌で母が笑い、次いで「明日のごはんも楽しみにしていてね」とクラウスに告げて窓を閉めてしまった。
なんとも母親らしい態度ではないか。これにはクラウスとシーラも顔を見合わせた。
「おばさんは相変わらずだな」
「クラウスさんが上級国家魔導士って忘れてるんじゃないかしら」
「その可能性はある。次に大通りに出る時には、おばさんにも見に来てもらうか」
名案だと笑うクラウスの話に、シーラの脳裏に国家魔導士として働く堂々とした彼の姿が蘇った。
上質のローブを纏い、同僚達と話す姿。堂々と馬を進め、凛とした佇まいはまさに『上級国家魔導士』だった。シーラが声を掛けるのを躊躇ってしまうほどだ。
あれを見たら母もクラウスを『雲の上の存在』と改めて思うのだろうか。それどころか息子同然に扱うなど烏滸がましいと萎縮してしまうかもしれない。
それを考えると少し寂しく、シーラは弱々しく「そうね……」と呟いた。
だがその声にかぶさったのは、クラウスの「でもなぁ」という明るいものだった。
「おばさんの事だから、『私のビーフシチューとポトフがあの立派な国家魔導士を育てたのよ!』って周りに言いふらしそうだな」
「ビーフシチューとポトフ?」
「あぁ、そのうえパン屋の夫妻まで名乗り出てきそうだ」
その光景を想像しているのか、クラウスが「俺の取りあいだ」と苦笑する。
だが確かに、クラウスの食生活はクレール家とパン屋が担っている。
といってもクラウスが無理に頼んでいるわけでもなく、彼がだらしなく見兼ねて面倒を見ているわけでもない。もちろん上級国家魔導士なのだから、食事をする金が無くて恵んでもらっている……というわけでもない。
ただなぜか不思議と、食事の準備をするときにクラウスの分もと考えてしまうのだ。
シーラも休みの日や時間が空いた時は料理をするが、その時も当然のように彼の分も用意する。母と父と、自分と、そしてクラウス。食事はいつも四人分だ。
それを話せば、クラウスが嬉しそうに笑った。
「今日のキッシュも美味しいし、明日の昼は焼きたてパン。夕飯はおばさんの手料理。俺は恵まれてるな。食の星の下に生まれたのかもしれない」
「食の星の下って、大袈裟なんだから」
「でもずっととは言えないな、いずれは……」
言いかけ、クラウスが言葉を止めた。
何かを考え込むような表情だ。紫色の瞳がじっと隣室の扉を見つめている。
扉の先にあるのは研究用の部屋だ。本棚が並び姿見が置かれ、床には魔法陣が描かれている。シーラがいつも召喚されている部屋でもある。
真剣なその表情に、シーラは妙な胸騒ぎを覚えて彼の名前を呼んだ。
「クラウスさん、いずれはってどういう事?」
シーラが尋ねると、クラウスが少し驚いたようにこちらを向いた。
どうやら無意識に口にしていたようで、次いで彼は気まずそうに頭を掻いた。
「それは、えっと……召喚が成功したら全部話すよ」
「成功したらって、だって誰を召喚しようとしてるかも教えてくれないじゃない」
「大人の事情ってやつだ。ほら、もう遅いから帰った方が良い。送っていくよ」
無理やり話を終え、クラウスが急かすように立ち上がる。
『もう遅い』と言ってもいつも通りの時間だ。むしろもっと遅くまで話し込むときもあれば、クラウスと一緒に夕食を食べる時だってある。
たとえ時間を気にするとしても、所詮は隣家、窓を開けて「ちょっと遅くなるね」と声を掛ければそれで解決である。
それでも今日に限って急かしてくるあたり、よっぽどこの話題について触れたくないのだろう。
シーラは小さく「私にも秘密なのね」と呟き、促されるまま彼の家を出た。
数十歩で自宅に着く。
その距離が、今夜だけは妙に遠く感じられた。