06:看板娘だって迷子になる
パン屋の仕事は、基本的には店内ですべて行われる。時には奥にある工房でパンを焼く手伝いもするが、シーラの主な仕事は店頭での会計や客の対応である。
だが時には材料が足りないとお使いに出たり、近隣に配達に行ったりもする。
その日も、いつも通り店での仕事をこなしていると、奥から出てきた店主に「配達に行ってくれるか?」と尋ねられた。
もちろんだと返し、いったいどこまでの配達かと彼が机に広げる注文書を覗き込む。
「これは……。隣町ですか? それも王立研究所!」
書かれている配達先に、シーラがぎょっとして目を見張る。
王立研究所とは国が管理している研究所。国に仕える研究員達の中でも頂点に君臨する者達が勤めている場所だ。
しがないシーラからしてみれば無縁の施設。入ることも許されず、せいぜい外観を観光気分で眺めるぐらい。それほどの施設だ。
聞けばそこに数日前から遠方の研究員が来ているという。
その研究員は店のパンをいたく気に入っており、なんとかして滞在中に一度……。と思っていたが多忙なため叶わず、ならばと配達の依頼をしてきたらしい。
配達料も相手持ち、それどころか通常料金に割増で頼んできたというからよっぽどだ。
「本当は俺が行きたいところだが、今日はパンの売れ行きも良いだろう。長時間工房を抜けられなさそうなんだ」
「確かに。言ってるそばからクロワッサンの最後の一つが無くなりましたね」
「あぁ、だからシーラに頼みたい。少し遠出になるけど行ってくれるか?」
「もちろんです。割り増し料金でも良いから食べたいというパンへの愛……! 必ずや届けてみせます!」
シーラが意気込んで答えれば、店主が笑う。
そうして「研究所は入り組んでいるから、迷子にならないようにな」と地図と共にパンを託してくるのだから、これにはシーラもツンと澄まして「子ども扱いしないでください」と返した。
……そう、返したのだが。
◆◆◆
「これは迷子じゃないわ。ちょっと道を間違えた結果、今どこにいるのかと来た道と進むべき道が分からなくなっただけよ」
シーラが壁に掛けられた案内板を見上げながら唸る様に呟いたのは、意気揚々と店を出てから数時間後。
馬車に乗り隣町まで行き、王立研究所に入って目当ての人物にパンを渡すことは出来た。随分と喜んでくれて、シーラのことも労ってくれた。
そうして受け取った代金をきちんと鞄にしまい、さぁ帰ろう……となったのだが、そこで迷子になってしまった。
もとい、現在地と、来た道と、進むべき道が分からなくなってしまったのだ。
「誰かに道を聞ければ良いんだけど、皆さん忙しそうだし……」
どうしたものかとシーラが溜息を吐いた。
時折遠目にひとの姿を見つけるが、誰もが忙しそうに足早に歩いていて声を掛けるのを躊躇ってしまう。
そのうえ現在地は王立研究所なのだ。つまり行きかう人々はみな国家レベルの研究員。それもまたシーラを気後れさせていた。
仮にここが賑やかな市街地だったなら、気の良さそうな人を見つけて道を聞けばあっという間なのに。
「せめてさっきのお客様のところに戻れたら良いんだけど……。でも迷子になったって店長さんに言われたら笑われるに決まってるわ。ここはどうにかバレないように自力で帰らなきゃ」
「シーラ? シーラじゃないか」
「こっちに行けば出口に近付けるかしら。でも王立研究所だから、迂闊に歩いて変なところにはいったら怒られちゃうかも……」
現在地のさっぱり分からない案内板を見上げつつシーラがぶつぶつと独り言を口にする。思い悩むあまり背後からの声は一切耳に届いていない。
だがさすがに肩を叩かれれば我に返り、慌てて振り返った。茶色の髪をふわりと揺らし、同色の瞳で背後に立つ人物をとらえる。
「……クラウスさん?」
そこに居たのはクラウスだ。
予期せぬ人物を見つけたと言いたげな表情だが、それはシーラとて同じこと。二人同時に「どうしてここに?」と尋ね合い、これにもまた揃えたように目を丸くさせた。
「俺は仕事の協力で研究所に呼ばれたんだ。ここは魔力の研究もしてるからな。だがシーラはどうしてこんなところに居るんだ?」
「私はパンの配達。それで……えっと、帰る途中だったのよ」
「ここまで配達に来たのか。よく途中で止められなかったな」
「入っちゃいけない場所だったの!?」
どうしよう!と思わずシーラが声をあげる。
迷いに迷い、ふらふらと勘を頼りに歩き回ってしまった。シーラとしては出口へと向かっているつもりだったのだが、クラウス曰く、ここは研究所でもあまり人が通らない奥地だという。
その話に、シーラは顔色を青ざめさせた。
「わ、私、なにも見ていないわ……! 研究所の秘密なんて暴いてない!」
「落ち着けシーラ、そもそも研究所の秘密なんて無いからな」
「怪しい薬品とか、危険な違法実験とか、禁断の魔造生物だとか、そんなもの何も見てないから! 本当よ!」
「だから落ち着けって。むしろここを何の研究所だと思ってるんだ」
慌てて無罪を訴えるシーラを、呆れた様子でクラウスが宥める。
大丈夫だ、怒られない、そもそもここの研究は至って真っ当なものだ……と、彼の話を聞き、ようやく落ち着いたシーラはほっと安堵の息を吐いた。
良かった、どうやら怒られはしなさそうだ。
関係者以外立ち入り禁止区域にうっかり入り込み、パン屋に変装したスパイ疑惑でも掛けられたらどうしようかと思った。
そう話せば、クラウスが「大袈裟だな」と笑った。
それと同時に、彼を呼ぶ声がする。
シーラとクラウスがほぼ同時に声のする方へと視線をやれば、こちらに向かって片手をあげながら歩いてくる数人の集団。みな同じように濃紺のローブを着ており、颯爽と歩く姿は様になっている。
彼等に対してクラウスが片手をあげて返した。「同僚だ」と簡単に説明する彼の言葉に、シーラはクラウスと歩み寄ってくる数人を交互に見やった。
クラウスの同僚。
それはつまり……。
「国家魔導士様!?」
大変! とシーラが慌てて自分の身なりを整えだした。
スカートに皺は無いか、髪は乱れていないか。
鞄から手鏡を取り出し、歩き回って疲れが顔に出ていないかと確認し、乱れていた前髪はちょいちょいと手で直す。
そうして最後の仕上げにと、深呼吸をして自身を落ち着かせた。
大袈裟と言うなかれ、なにせ相手は国家魔導士。しがないパン屋の看板娘が緊張してしまうのも仕方あるまい。
……もっとも。
「シーラ、俺も国家魔導士なんだけどな? それも上級国家魔導士なんだけど」
そう控えめに訴えてくるクラウスに対しては「クラウスさんはクラウスさんよ」とぴしゃりと言い切っておいた。