04:関係ない、なんて……
昼休憩からの戻りがギリギリになったとしても、店主も夫人も苦言を呈するような人ではない。むしろ慌てるあまりエプロンの紐に苦戦するシーラを苦笑し、客までもが「パンを選んで待っているから」と宥めてくれた。
なんて優しいのだろうか。ーーもちろんその優しさは日頃のシーラの働きぶりがあってのものだ。それも含めて、店は優しさで満ちているーー
そうして午後の仕事へと戻るのだが、大通りに人が集まる日はパンの売れ行きもあがる。
次から次へと人が訪れ、飛ぶように売れていくのだ。
おかげで閉店前に殆どのパンが品切れとなり、いつもより少し早めに来た最後の常連客が「恨まないでくれよ」と冗談交じりに最後のパンをトレーに乗せた。
「今日は大通りも賑わっていたから、早めに店に来て良かったよ。シーラも大通りを見に行ったかい?」
「はい、お昼休憩に喫茶店のエマと一緒に」
「今回の来賓もすごかったな。それにクラウス様も珍しく表に出ていた。いやいや、あの若さで堂々としいて見事なものだ」
上機嫌で客が話し、店先に出ると「店じまい頑張って」と労いの言葉と共に去っていく。
それをお辞儀と共に見送った。いつもと同じやりとり。
だが今日に限ってはいつもより随分と早く、まだ六時前だ。さすがに閉店前に店を閉めるわけにはいかないと、シーラは『本日完売』の札を掛けて店へと戻っていった。
早々にパンが完売すると、そのぶん片付けも早く始められる。
おかげで閉店作業が全て終わったのは、いつもならばこれから掃除を始めるという六時半だった。
「まだクラウス様に呼ばれるには早いわね。シーラ、時間までお茶でもしていく?」
「いえ、今日はせっかくなので歩いて帰ります。今からなら七時前に家に帰れるから、クラウスさんを驚かせようと思って」
いたずらっぽくシーラが笑えば、夫人もつられてクスクスと笑い出した。
次いで店の奥から店主が二つ紙袋を手に姿を現した。
手渡されたシーラが紙袋の中を覗けば、暖かく食欲を誘う香りが鼻をくすぐる。袋の中にあるのは見ただけで柔らかさが伝わる食パン、見事な焼き色は輝いて見える。
「今日は全部売り切れちゃったからな。一つはクラウス様に渡してくれ」
「いいんですか? 嬉しい、今日の夕食はビーフシチューなんです!」
母親力作のビーフシチューに、焼きたての食パン。考えただけでお腹が鳴りそうだ。
そうシーラが弾んだ声で話せば、店主と夫人も嬉しそうに笑った。
◆◆◆
クラウスが毎晩七時に召喚するようになり、三年が経った。
その間もちろんシーラの都合に合わせて貰っているが、パン屋の仕事がある日は決まって彼に召喚されて自宅に帰っている。パン屋から自宅までは遠いという程でもないが、それでも眩く光って一瞬で辿りつける召喚に勝るものはない。
だが時には夜道を歩くのも良いものだ。とりわけ腕の中にはホカホカの焼きたて食パンがあるのだから、帰路につく足取りは軽い。
そうして自宅に帰れば、娘の早い帰宅に母が驚いたと出迎えてくれた。
もっとも驚きこそするがすぐさま「ちょうどよかった、クラウスさんにビーフシチューをもっていってあげて」と鍋を押し付けてくるのだが。
帰宅したつもりがあれよという間に鍋を押し付けられ玄関から出され、シーラが「労ってよ」と唇を尖らせた。いつの間にやら腕の中から食パンが一つ無くなっているのも不満を募らせる。
「娘より食パンなのかしら。……そういえば、私がパン屋で働くことに決まった時、誰よりもお母さんが喜んでいたかもしれない」
母の中では、シーラはパンを運ぶ存在。むしろ『シーラの帰宅<パンの到着』なのかもしれない。
そんなことを冗談交じりにぼやきつつ、隣家へと向かう。数十歩の距離だ。
「クラウスさん、驚くかしら」
日中見た凛々しいクラウスの顔を思い出す。今扉をノックし姿を見せれば、あの凛々しさもどこへやら目を丸くさせるだろう。
想像し、シーラが思わず笑みを零した。子どもが悪戯を思いついたような笑みだ。クスクスと笑いながら扉を叩く。
「クラウス・ベルネットさん、いらっしゃいますか? 美味しいビーフシチューと焼きたて食パンのお届けですよ」
わざとらしく声をあげ、クラウスの返事を待つ。
だが次の瞬間シーラが「あら」と間の抜けた声を漏らしたのは、足元がぱっと眩く光りだしたからだ。強い風が吹きあがりスカートを膨らませる。
これは何か?
召喚だ。
余裕を感じてゆっくり歩いて帰ってきたのが仇になってしまったようだ。
「せっかく早く帰ってきたのに」
そう呟くのとほぼ同時に、足元がいっそう強く光り、シーラの姿がパチンと弾けるように消えた。
夜の七時である。
眩さに目を閉じ――最初のころはなんとしてでも目を開けていようと頑張ったものだ。だがそれを知ったクラウスに「目を傷めるからやめなさい」と言われてからは大人しく目を瞑るようになった――次いで光が収まるのを瞼越しに感じつつ、ゆっくりと目を開ける。
そこはクラウスの家の玄関先……ではなく、家の中。
見慣れた本だらけの部屋。床には魔法陣、姿見もある。そしてもちろんローブを纏うクラウスの姿も。
「……クラウスさん」
「おかえりシーラ。すまないがちょっと待っててくれ、ドアがノックされたんだ。こんな時間に来客かな」
行ってくる、とクラウスが離れようとする。
それに対して、シーラは慌てて待ったをかけた。彼の言う『来客』とは、ほかでもないシーラである。
「私、私がノックしたの」
「シーラが? パン屋に居たんじゃないのか?」
「今日は早く仕事が終わったから、たまには玄関からお邪魔しようと思ったのよ」
「ははぁ、さては俺を驚かせようとしたな」
残念だったな、とクラウスがしてやったりと笑う。
それに対して、図星をつかれたシーラは小さく唸り、この話題はすぐに変えてしまうべきだと考え「そういえば」と話し出した。
足元を見れば難しい模様が描かれている。以前にこれは召喚に使用する魔法陣だと聞いたことがある。この他にも魔法を使うための模様はいくつもあり、国家魔導士は咄嗟に魔法を使えるようにとスカーフや手袋といった身の回りのあちこちに魔法陣を描いているという。
今クラウスが着ているローブの刺繍もその一つである。
「ローブを着て、床に魔法陣を書いて……。それでもクラウスさんは召喚に失敗してるのよね?」
「改めて言ってくれるなよ」
「事実を言ったまでよ。でも、そこまでして召喚したい人って誰なの?」
そろそろ教えてくれても、とシーラがじっとクラウスを見つめる。
だが彼はふいとそっぽを向いてしまった。ローブを脱いで姿見に引っかけ、「お茶を入れよう」とそそくさと出ていこうとするではないか。
明らかな逃げだ。いつもならシーラも溜息一つで誤魔化されてやるところだが、今日は珍しくもう少し粘る気になってきた。
「もう三年間も毎晩召喚されているんだもの、そろそろ教えてくれても良いじゃない。遠くにいる人? それともまだ出会ってない人? 失敗とはいえ毎回私が召喚されるんだから、私に関係ある人なのかしら」
いったい誰なのかとシーラが探りを入れつつクラウスを追いかける。
それに対して、彼はだんまりを決め込み、ついにはクルリとシーラを振り返ると「あれこれ探るんじゃない」と子を叱るかのような口調で言ってきた。
そのうえ、
「シーラには関係ないだろ」
とまで言ってよこすのだ。
これにはシーラも驚いてしまい、食パンと鍋を持つ手に無意識に力が入る。
関係ないだなんて、そんな……。
「関係無いわけないじゃない、私がこの部屋に召喚され続けて何年が経ってると思っているのよ」
無関係どころか、誰よりも、むしろ唯一実害を被っている。
そうシーラが冷めた声色で言い切ってやれば、クラウスがぐっと唸り声をあげた。白々しく紫色の瞳をそらし、なにやら言葉にならない言葉を口にする。
言い逃れられない状況で彼がよく見せる癖だ。それが分かっているからこそシーラはじっとりと彼を睨みつけた。
「関係ない」などと、いったい何年間の付き合いで、そのうえ何年間召喚失敗に付き合わされていると思っているのか。
だが次の瞬間に睨んでいた視線をふいとそらし、「そうね、私は関係ないわ」とあっさりと引いてみせた。
押して駄目ならなんとやら。
「私はたんなるパン屋の店員だもの、上級国家魔導士様の考えを聞きだそうなんて烏滸がましいわ」
「シ、シーラ、なにもそこまで言わなくても」
「いいえ、いいの。クラウスさん……いえ、クラウス様。数々の無礼をどうかお許しください。この庶民が作ったビーフシチューも、城下にあるただのパン屋の焼きたて食パンも、きっと上級国家魔導士クラウス様のお口に合うわけがないわ。持って帰ります」
「ま、待ってくれシーラ! 関係無いなんて言って悪かった。召喚対象を言わないのは俺の願掛けのようなものなんだ。召喚が成功したあかつきには誰より先に紹介するから!」
だから! とクラウスが慌てて引き留めてくる。
そのうえご機嫌取りなのか一緒に夕食はどうかと誘ってくるのだ。
あまりの必死さにシーラは肩を竦め、「一番に紹介してね」と念を押すように約束してこの件はおしまいにした。