02:お隣さんは国家魔道士
クラウスと呼ばれた男が、シーラの言葉を聞いて表情を明るくさせた。
銀色の髪が揺れ、紫色の瞳が嬉しそうに細められる。元は凛々しい顔つきだが、今はパンの魅力を思い出したのか緩んでいる。
「ミートパイか、そりゃ嬉しい。お茶を入れるからシーラも飲んでいくと良い」
先程までの重苦しい空気はどこへやら、上機嫌でローブを脱ぎ、そのまま近くにあった姿見に引っかけてしまった。
吸い込まれそうな深い濃紺の布で仕立てられたローブ。金の刺繍は細かな模様を緻密に描いており、特殊な加工が施されているとシーラは以前に聞いた。国が指定した者達しか纏う事を許されない、高価どころか値がつけられない代物だ。
それをクラウスは無造作に放ってしまうのだから、シーラは呆れを込めつつ、「皺になっちゃうよ」と一言苦言を呈してローブを手に取った。手早く畳み、机の上に置いておく。
それに対しての返事はなく、良い茶葉が手に入ったんだ、と上機嫌な声が聞こえてきた。
クラウス・ベルネットはこの世界において数少ない『上級国家魔導士』である。
そもそも魔導士とは己の体内に魔力を宿し、それを使う者達のことを示す。といっても殆どの者は魔力を宿していても微々たるもので、せいぜいがコップの中の水を揺らす程度。薄い本を膝丈まで浮遊させられたら歓声が上がるほどだ。
そんな中でも極まれに、強い魔力を持ち、更にそれを使いこなす技術を持ち合わせた者が生まれる。そういった者達は国に仕え『国家魔導士』の職に就く。
ただでさえ一握りしかいない魔導士の、さらに一握り。
そんな雲の上の存在とも言えるクラウスが、いそいそと二人分の紅茶を用意する。本来であればシーラは彼を制して自ら茶を淹れるべきだろう。
だがそれを横目に見つつ、一角にある窓を開けた。隣家との境は狭く、手を伸ばせば容易に隣家の窓に届く。
コンコンと数度ノックし「お母さん、お母さーん」と呼びかければ、窓に人影が映り、見慣れた顔が出てきた。
「シーラ、おかえりなさい」
「まだ帰ってないよ」
「はいはい。でも帰ったも同然よ。それじゃ夕飯は先に済ませちゃうからね」
母からの態度は随分と素っ気なく、これが帰宅した娘に対するものだろうか。
酷いとシーラが不満を訴える。だがこれも含めて帰宅のやりとりでしかなく、本心から傷ついたり不満を訴えているわけではない。
それは母も分かっているのだろう不満を訴えるシーラを慰めもせず、ひょいと手を差し出してきた。これは「パンを渡しなさい」という意味であり、膨れっ面でアピールをしていたシーラもそれを理解して手にしていたパンの袋を渡す。
「あら、今日はお惣菜パンが売れ残ったのね。夕飯がちょっと寂しかったから助かるわ。温めてから食べようかしら」
「娘に対してよりもパンに対しての方が饒舌なのね」
「はいはい。今日もお仕事ご苦労様です。チェリーパイは残しておくから不貞腐れないで」
娘の不満を軽く受け流し、母が「じゃあね」と一言残して窓を閉めてしまった。
なんて薄情! とシーラが文句の一つでも言ってやろうとするも、まるでそのタイミングを狙ったかのようにふわりと紅茶の香りが漂ってきた。
「良い香り」とシーラが上機嫌で呟けば、やりとりを見守っていたクラウスが笑いながら「絶妙なタイミングだろ」と自分の給仕のタイミングの抜群さを誇った。
シーラのクレール家と、シーラが今いるクラウスの家は隣り合っている。いわゆる『お隣さん』というものだ。
付き合いは長く、今年で十三年目。当時十歳のクラウスが一人でこの地に越してきてからである。
そのころすでに彼は魔導士としての才能を見せ、一人前とさえ言える働きを見せていた。そして才能を買われこの地に呼ばれ、家族と離れて独り立ちをしたのだ。
だが、どれだけ才能があろうと周囲の目には十歳の少年にしか見えない。同年代の娘がいるシーラの両親が彼の一人暮らしを気遣い、あれこれと世話を焼いて今に至る。
「お母さんが明日はビーフシチューを作るって。一日かけて煮込むって気合を入れてたわ」
「おばさんのビーフシチューは美味しいから楽しみだ。そういえばおじさんの時計の修理が終わったから、明日受け取ってくるよ。やっぱり王宮の機械技師は仕事が早い」
「仕事が早いというか、クラウスさんの名前で出すと優先されるだけじゃない?」
「なるほど役得ってやつだな」
得意げに告げ、クラウスが紅茶に口をつける。
シーラも残りの紅茶をコクリと飲み込み、空いたカップを流し台へと戻した。手早く洗い、ついでに隅に寄せられていた皿とカップも洗い、所定の位置に戻しておく。
ミートパイの最後の一口を食べ終えたクラウスがそれに気づき、慌てたように「忘れていたんだ」だの「今朝は急いでいて」だのと言い訳をしてきた。
おおかた、朝食を食べたはいいが片付けが面倒になり、流し場の隅に置いて出かけてしまったのだろう。
なんとも生活感溢れた話ではないか。これが国家魔導士、それも国家魔導士の中でも上位にあたる『上級国家魔導士』とは思えない。
人並み外れた才能と功績を認められた者しか到達できない領域。もとより一握りの中の一握りな国家魔導士の、その中でも更に一握りの存在。
『上級国家魔導士』の称号を得た者には、国から魔力の個人使用を許可される。だがそれも要申請で、たった一つのみという決まりだが。
「クラウスさんは国から許可をもらって召喚してるのよね」
「あぁ、そうだよ。それがどうした?」
「なんでいつも召喚に失敗するんだろうね」
「……ストレートに痛いところを突いてくれるな」
クラウスが呻くような声を出し、次いで肩を竦めて「それが分かれば苦労はしないさ」と言ってのけた。
次いで壁に掛けてあった上着を羽織り、ポケットから鍵を取り出す。
「家まで送っていくよ」
「隣だよ?」
「隣でも外は外だ」
危ないだろ、と話すクラウスに、シーラはそれならと彼と並んで家を出た。
『上級国家魔導士』にのみ許される、私的に魔力を使う特権。
その特権を、クラウスは『召喚』で申請し受理されている。今から約三年程前のことだ。
当時は誰もが「あのクラウス・ベルネットならすぐに召喚成功するだろう」と話していた。
だが実際は……。
「それじゃクラウスさん、明日もまた七時に呼んでね」
「いや、明日こそ成功するから自力で帰って来なさい」
「そう言われ続けて、私は毎晩七時に召喚されているわけだけど」
シーラがじっとりと睨むように見上げれば、クラウスがばつが悪そうに視線をそらしてしまった。このやりとりを約三年繰り返している。
今夜も変わらぬクラウスの反応にシーラは小さく笑みを零し、あっという間についた自宅の扉に手を掛けた。
「おやすみなさい、クラウスさん」
「あぁ、おやすみシーラ。また明日……と言いたいところだが、明日こそ召喚を成功させてみせるからな」
「そうね、成功を祈ってる。でももし召喚が成功して自力で帰ってきても、パンを届けてあげるから」
だから結局「また明日」になるのだ。
そうシーラが笑いながら告げれば、クラウスもまた笑いながら軽く手を振り、シーラが自宅へと入っていくのを見届けてくれた。