01:お隣さんがいまだに召喚してくる!
「……あら?」
とシーラが呟いたのは、クラウスの家の一室。今日も今日とて召喚され、そして夕食を共に食べてお茶を堪能した後。
「壁に掛けっぱなしのコートはいい加減に箪笥にしまわないと」と召喚用の部屋に向かったところ、机に置かれている時計の時刻が合っていない事に気付いたからだ。――ちなみにクラウスは慌てて「まだ少し寒いし、着るかなと思ったんだ」だの「忘れてたわけじゃないんだ」と言い訳をしつつシーラを追いかけてきた――
「クラウスさん、時計がおかしいわ。壊れちゃったのかしら?」
時刻は夜の八時半過ぎ。だというのに時計の短針は十の数字に掛かっている。
かといって止まっているわけではないようで、持ち上げて耳を当ててみればカチカチと稼働音が聞こえてきた。だがその音が随分とぎこちないあたり、歯車の調子が悪いのだろうか。
クラウスに手渡せば彼も同じように耳を当て、中の様子を窺うように軽く振った。カラカラと小さな音がする。
「中で部品が外れたか、どこか欠けたかな。明日にでも王宮に持っていって技師に直してもらうよ」
そう告げて、クラウスが時計を棚に戻した。
「今のうちに鞄に入れておいたほうが良いんじゃない? クラウスさん、王宮に持っていくの忘れそう」
「失礼だな、そこまで抜けてない。それよりほら、もう遅いから送っていくよ」
たかが隣家の距離、されど隣家の距離。それも夜道ときた。
律儀に家まで送ると言うクラウスに、シーラもそれならと彼に続いて部屋を出ていった。
◆◆◆
翌日、パン屋が休みのためシーラは昼前までぐっすりと眠り、「早く起きないとチョコチップを埋め込むわよ」という母親の言葉に起こされた。
最近母の起こし方は捻りを利かせるようになっており、何が何でもシーラをパンに見立てようとしてくる。
酷いときなど「溶き卵を塗りましょう」とハタキで顔を擽って起こしてきた。――ハタキが新品だったのがせめてもの救いだ――
そうして朝食とも昼食とも言えない食事をとり、向かうのは親友のエマが働く喫茶店。
休憩時間を合わせてくれるというので、一緒にお茶をしようと約束していた。
もっとも、お茶だけの予定がランチセットのロールキャベツを食べてしまったのだが、これは仕方ない。喫茶店の扉を開いた瞬間に美味しそうな香りに鼻を擽られてしまい、その香りに意識を惑わされ、気付けば注文を終えていたのだ。
あれに抗える者はいるだろうか? いや、いるわけがない。クラウスだってこの話を聞けば「それは上級国家魔導士でも抗えない」と言ってくれるはずだ。
「ところで、シーラは昨日もクラウス様に召喚されたの? あの事件の後もずっと?」
「えぇ、毎日よ。最近は趣向を凝らして召喚されてるの。この間は、私とお土産のパンが別々の場所にあったらどうなるか検証したわ」
「お土産のパンと?」
「七時に召喚されるタイミングで、お土産のパンを店長に持っていてもらったの」
結果、もちろんだがクラウスの召喚に応じたのはシーラだった。当然と言えば当然。
「少なくとも、私がパンのおまけじゃない事は証明されたわ」と真剣な顔でシーラが話せばクラウスが笑いそうになり、次いではたと我に返り「お土産のパンを忘れた!」と声をあげればついに彼は腹を抱えて笑いだしてしまった。
その後は二人で夜道を歩いてパン屋まで歩いて取りに行ったのだ。店長夫妻が店の前で楽しそうに待ってくれていた。
「そんなことしてたのね……。シーラが抜けてるのは前から知ってたけど、クラウス様は頭が良いはずなのにどうしてかしら……」
「なんだか失礼な事を言われた気がするわね。ここの店員はお客に暴言を吐くって苦情をいれようかしら」
「これは失礼いたしました。訂正いたします。お客様の頭にはふかふかのパンが詰まっているようですね」
「もっと失礼よ!」
シーラが怒って不満を訴えれば、エマが楽しそうに笑って謝ってきた。笑った事で涙が浮かんだ目尻を拭いつつ「ごめんごめん」と謝ってくるのだが、まったく謝罪の意思が感じられない。
まったく、とシーラが不満を抱き、彼女のランチプレートに盛られたミニトマトを一つ奪って口に放り込んだ。
「シーラもクラウス様も、近すぎるから気付かないのかしら」
「なんの話?」
「この距離で満足してるからこそ結論に至らないのかもしれないわね。後押ししてくれるようなアクシデントがあれば、一気に変わりそうなものなんだけど……」
「ねぇ、エマ、だから何の話をしてるの?」
ぶつぶつと呟き考え込むエマに対し、シーラが名前を呼ぶ。
だが彼女は一向に意識をこちらに向ける様子はなく、真剣な表情で考えを巡らせ続けている。食事をしていた手もすっかり止まり、シーラの声も耳には届いていないようだ。
一緒にご飯を食べてるのに、とシーラが唇を尖らせる。「お客さんの話を無視するなんて、酷いお店だわ」と文句を訴えれば、馴染みの店員が苦笑を浮かべて通り過ぎていった。
◆◆◆
休憩を終えて仕事に戻るエマを見届け、買物を済ませて家に帰る。
夕食の準備を手伝い、それが終わると風呂に入る。早めに帰宅したおかげか、ご満悦で歌を歌いながらゆっくりと入浴しても、あがった時にはまだ六時過ぎだった
「時間があるから夕食は家で食べて、デザートだけクラウスさんの家に持って行こうかな」
下着だけを身に着け、タオルで髪を撫でるように拭きながら誰にともなく話す。
今夜のデザートはエマの働く喫茶店で買った期間限定のシフォンケーキだ。メープルをふんだんに使っており、ランチセットのデザートで食べた時に買って帰ろうと決めた、絶品のシフォンケーキである。
自分と両親の分、もちろんクラウスの分も買ってきた。
彼が夕食を食べている隣でシフォンケーキを食べようか。食べ終えるのを待って一緒に堪能しても良い。
「そういえば、クラウスさんはちゃんとあの時計を王宮に持って行ったのかしら」
ふと、昨日交わした会話を思い出す。
中で部品が壊れたのか、おかしな時刻を指していた時計。クラウスは王宮に持っていくと言っていたが、彼の性格を考えるに、うっかり忘れていまだ棚の上に置かれている可能性は高い。
「まだ棚の上にあったら、勝手に鞄に入れちゃおう。そうでもしないと、クラウスさんの事だからずっと置きっぱなしだわ」
きっと彼はあれこれと言い訳をし、挙句に参ったと言いたげに頭を掻くだろう。その仕草はまるで手が焼ける弟だ。想像してシーラが笑みを零した。
だが次の瞬間はっと息を呑んだのは、シーラの足元にふわりと小さな風が舞い、家屋の床には有り得ない光を灯し始めたからだ。
「えっ!?」
躊躇いの声をあげる。
この光に覚えがないわけではない。むしろ毎日この光を見ている。だからこそ次に何が起こるのか、どこに連れていかれるのかも、考えずとも分かる。
……だけど、まだその時間ではない。
「なんで、クラウスさん、まだ早いわ!」
待って! とシーラがここにはいないクラウスへと制止の声をあげる。だがそれに応える者はいない。
それどころか、まるで返事代わりのように風と光が強くなりだした。
慌ててシーラがルームウェアへと手を伸ばそうとするも、吹き上げた風に奪われてしまう。ならばせめて体を隠せる大きなタオルをと狙いを変えるも、こちらもシーラの指先をするりと掠めていった。
部屋の中に光が満ちる。
目を開けているのが辛い。
だけど、まだ……。
「待って、クラウスさん!」
叫ぶような声を最後に、シーラの姿が脱衣所から消えた。