10:逃げる手段は……
騎士や警備が睨むような形相で警戒の姿勢をこちらに向ける。周囲には騒動を聞きつけた無関係な者達まで集まりはじめ、厳かな王宮とは思えない一触即発の空気が漂っている。
そんな中でクラウスはシーラの姿を見つけると近付こうとし、一人の騎士に肩を押さえて制止されていた。
彼の顔には焦燥感がはっきりと浮かんでおり、それを見てシーラは己の過ちを察した。
クラウスは既に王宮から退避していたのだ。
きっと彼は事態を知るやシーラが辿るはずの道を走ったのだろう。そして見つけられず、王宮の出入口に辿り着いてしまった。まだ来ていない事を祈ったに違いない。
仮にシーラがいつも通りの時間に王宮に辿り着いていれば、彼に出会えていたはずだ。
だがそれを知らず、シーラもまた王宮の出入口へと向かってしまった。アルフに連れられ、普段とは別の道を使って……。
彼の『クラウスには連絡する』という言葉も全て嘘だった。騙されたと気付いた瞬間、シーラの中で血の気が引く音がする。
「……でも、どうしてアルフ様が」
彼の肩書である『国家魔導士』とは、魔力の量だけでなれるものではない。
それまでの功績、そして人となりも評価の一つと聞いたことがある。国に仕える者として必要とされる要素だ。
アルフもそれを評価されて肩書を得たはずなのに。そう小さくシーラが呟けば、隣に座っていた女性が「貴女、王宮関係者じゃないのね」と小声で話しかけてきた。
年はシーラの両親よりも上か。聡明さを感じさせる女性だ。
「私、昼食の配達に来たんです。それなのにこんなことに……どうしてアルフ様が……」
「彼は魔導士の資格を剥奪されたのよ」
「剥奪? なんで……」
「魔力を使って他国を制圧するよう国に発言したらしいの。秘密裏に危険な研究も進めていたみたい」
聞けば、アルフは長く危険思想を秘め、先日ついにそれを表に出したのだという。
『優れた魔導士が集まった今こそ、他国を制圧し領土を広める時』と声高に告げ、そのうえ発表する研究内容は国家間の関係を脅かす代物。国は彼を危険視し、魔導士の称号剥奪と魔力の封印を決めた。
だがアルフはどこからか己の処分を知り、王宮に保管されている魔力を高めるローブを盗み出したのだという。
元より国家魔導士の称号を得る実力、そのうえ特注のローブを羽織っている。なにより人質がいるのだから、警備や騎士達が警戒の体勢から動けないのも当然だ。
シーラが視線を向ければ、クラウスが焦りと苛立ちの表情を浮かべている。
視線が合えば申し訳なさそうに眉尻を下げるのは、きっと自分のせいでシーラが危険に晒されていると考えたのだろう。
「お嬢さん、貴女クラウス・ベルネットと親しくしているパン屋の店員さんよね?」
「え、えぇそうです……」
「やっぱり。ごめんなさいね、こんなことに巻き込んでしまって」
王宮関係者として、ただの街娘でしかないシーラが人質になっていることに罪悪感を抱いているのか、女性が切なげな声で謝罪してくる。
そのうえなんとしてもシーラだけは解放させると言い出すのだ。
「アルフがどこに逃げるつもりかは分からないけれど、今いる人質全員は連れていけないはず。貴女は王宮とも研究所とも無関係だから、それをうまく話せば解放してもらえるはずよ」
「でも、そうしたら皆さんが……!」
自分だけが助かっても解決にはならない。
そうシーラが訴えるのとほぼ同時に、アルフが武装した男の一人に「連れていく女を選べ」と命じた。話していた通り、人質を選んで連れていくつもりなのだろう。
身を寄せ合っていた女性達の表情に恐怖の色が濃くなる。誰が連れていかれるのか、どこに連れていかれるのか、連れていかれた先でどんな扱いを受けるのか……。
だが女性達の恐怖などアルフに伝わるわけがない。「適当で良い」と告げて去っていった。
その背を見て、シーラは小さく「そうだわ」と呟いた。
次いで自分達を見守る人だかりへと視線を向ければ、もどかしそうな表情でこちらを見守るクラウスの姿がある。騎士に肩を掴まれていなければ今すぐにでも駆け寄ってきただろう。
彼が着ているのは濃紺のローブだ。
内に溜まっている魔力を使うのに必要な魔法陣が刺繍されていると、以前に聞いたことがある。
つまり彼は、今も使おうと思えば魔力を使えるのだ。
……それなら。
「つ、連れていくなら私一人だけで十分よ!」
そうシーラが震える声で告げた。
アルフに人質を選べと言われた男が意外な表情をし、次いでシーラを見るとニヤリと口角を上げた。品のない笑みだ。
「威勢が良いなぁ」とニヤニヤと笑い値踏みするようにシーラを見つめてくる。纏う衣服も口調も、それどころか歩いて近付いてくる仕草一つをとっても、いかにもごろつきといった様子だ。
アルフと同じ危険思想の持主か、もしくは彼に金で雇われたのか。どちらにせよ、普段のシーラであれば話しかけるどころか擦れ違うのでさえ遠慮したいところだ。
「私はただの民間人よ。無関係な人質の方が、何かあったら問題につながるから国は動けなくなるでしょ」
「そうかぁ?」
間延びした声で男が唸る。あまり理解出来ていなさそうな表情。腕っぷしはありそうだが、その反面、どうやら頭の回りは弱いようだ。
ならばとシーラは畳みかけるように「そうよ」と断言した。声が上擦り体が震えるが、それでもここで引いてはいけない。
視界の端にクラウスの姿が見える。彼はアルフでも他の人質でもなく、ただじっとシーラを見つめている。
「私一人だけを連れていくなら、大人しく人質になるわ」
「なんでお前がそこまでするんだ? なんか企んでるんだろ」
「何も企んでなんかいないわ……。ただ、こちらのご婦人は体調がすぐれないようなの。だから……」
だから早く解放してやってくれ。そうシーラが隣に座る女性をチラと横目で一瞥した。
アルフについて教えてくれた女性だ。小声でシーラを止めていた彼女は、男の視線が己に向けられると弱々しく俯いた。青ざめた顔と微かな震えが合わさり、今すぐに倒れてもおかしくない。
他の女性達も同様だ。それらを見回し、男がふんと鼻で笑った。
「気にいった。そこまで言うならお前にしてやる」
「そ、そう……。それなら、他の人達は解放して」
「あぁ、いいぜ。王宮関係者様がただの街娘に助けられるとはな。お笑い種だ」
男の声には侮蔑や嘲笑の色が混ざっている。
きっとこの状況を、『街娘一人を犠牲にして、王宮関係者が助かる』という状況を楽しんでいるのだろう。そのうえ警備や騎士達も何も出来ず、ただみすみす自分達が逃げるのを見ているだけなのだ。
それもよりにもよって、市街地の者達が見ている前で……。
国の面目は丸潰れである。男の顔からざまぁみろとでも言いたげな意地の悪さが窺える。
「よし、他のやつらは行け。いいか、変な真似はするなよ」
手にしていた武器を軽く揺らして男が命じれば、身を寄せ合って座っていた女性達が一人また一人と立ち上がり、よろよろと歩きだした。
シーラの隣に座っていた女性は最後まで立ち上がろうとしなかったが、シーラが彼女の手を一度ぎゅっと握るとゆっくりと立ち上がった。彼女もまた覚束ない足取りで騎士達のもとへと向かい、警備に保護された。
残されたのはシーラだけだ。
それを見せつけるように、男がシーラの腕を掴んで己へと引き寄せた。強引に抱きすくめられ、思わず小さく悲鳴をあげる。自分で人質になると言い出したが恐怖で体が震えだした。
自分に視線が注がれているのが分かる。
誰もがこの展開に青ざめ、己を犠牲にし他者を逃がしたシーラを案じているのだ。
その最前に居るのは、ローブのフードを目深にかぶったクラウス。
その姿にシーラが小さく彼の名前を呼べば、それとほぼ同時にアルフが戻ってきた。
「おい、馬車の準備ができたぞ。連れていく女は決まったか」
「あぁ、こいつにした。他のやつらを逃がせば大人しく着いてくるって言い出したからな」
男がシーラの顔を無理やり掴んで上げさせる。
それを見たアルフが一瞬目を丸くさせ、次の瞬間、表情を強張らせた。
対して男はいまだ下卑た笑みを浮かべ、「強い女の方が楽しめるだろ」と言ってのけた。耳元で聞こえる下品な言葉に、シーラの背筋に冷たいものが走る。
だがそれももう終わりだ。
シーラの足元からふわりと風が舞い上がった。無理に顔を掴まれているので見下ろせないが、きっと足元には眩い光が輝き始めているのだろう。
シーラを捕まえていた男がぎょっとして声をあげる。アルフはいち早く事態を察し、男の愚行を怒鳴りつけると共にシーラへと手を伸ばしてきた。だが遅い。
「クラウス・ベルネットの名において命じる。我が未来の伴侶をここに!」
聞き覚えのある声が、眩さに目を瞑ったシーラの耳に届いた。