01:パン屋の看板娘
店内に置かれた時計の長針がカチリと動き、文字盤に刻まれた12の数字と重なる。
その瞬間、ボーンと低く重い音が鳴り響いた。
ゆっくりと計六回。夕刻の六時を示す音だ。
ちょうど会計を終えた常連客がその音を聞き「今日もお疲れ様」と労いの言葉をくれた。この常連客は毎日閉店間際に訪れ、時計の音を聞くと労いながら帰っていく。
会計を終えたシーラがそれに笑顔で返した。看板をしまうついでに客を店先まで見送る。
「それじゃシーラ、店仕舞い頑張って」
「はい、ありがとうございます」
「あぁ、あとクラウス様にもよろしくね」
「はーい」
店員からの言葉に、シーラが肩を竦めて返す。
今まではまさに元気な看板娘といった態度が一転したのだが、これもまた客には楽しいのだろう、上機嫌で笑って去っていった。
その背を見届け、シーラは店じまいに挑むため袖捲りをして気合を入れ、扉に掛かっていたオープンの吊り看板をクルリとひっくり返した。
シーラ・クレールが働いているのは城下街にある一軒のパン屋。
国中に名が知れ渡る有名店というわけでもなければ、毎日ごった返す盛況というほどでもない。だが街の人から愛される店だ。
こぢんまりとしつつも清潔感のある店内には様々なパンが並べられ、常に焼きたてのパンの香りが満ちている。
シーラはそんなパン屋で働く、いわゆる看板娘だ。
元気で活発、小柄な体でちょこちょこと動き回る働き者。たまにドジをするが、それすらも愛嬌として受け入れてもらえている。
濃い茶色の髪に同色の瞳。以前までは地味な色合いだとシーラ自身はコンプレックスに思っていたが、店主の「パンのような娘だ」の一言で採用となったのだから今はこの色合いを気に入っている。
「シーラ、店仕舞い終わったか?」
店の奥から声を掛けてきたのは店主。恰幅の良い男性で、彼と妻が店の奥でパンを作り、店内でシーラが会計や客の対応をして店をまわしている。
息子が一人いるが今はパン作りを学ぶために国外にいるという、まさにパンを愛する家系だ。勘定を終えたシーラが売上報告のために近寄れば、ふわりと芳ばしい香りが漂ってきた。
「やっぱり定番のパンは売れ行きが良いな、もう少し数を増やしても良さそうだ。今月は月替わりのパンも人気だし、これも焼く回数を増やしてみよう。来月のパンも以前に出した時は人気だったな」
「お客様から『あのパンはいつ始まるの?』とか『来月はどんなパンなのかこっそり教えて』って言われます。みんな定番を買いつつ、月替わりのパンも楽しみにしてるみたいですよ」
「そりゃいい。『パン屋にも楽しみを!』って商品を月替わりにするシーラの案は大正解だったな。さすがうちの看板娘だ」
豪快に店主が笑う。それに対してシーラは頬を赤くさせつつ笑って返した。働けば褒めてくれる、なんと良い店主だろうか。
そうして店主と雑談を交わしつつ片付けを進め、売れ残りのパンをトレーにまとめはじめた。といっても、ありがたいことに売れ残りはいつも数えられる程度。今日も残っているのは五つだけだ。
それらを帳簿に書き加え、シーラはパッと表情を明るくさせた。
「チェリーパイが残ってる! 売れて欲しいと思う反面、売れ残って欲しいと願ってしまう。なんて罪深いチェリーパイ……」
うっとりとシーラが語り、チェリーパイをいそいそと袋に詰める。
その様子に店主が上機嫌で笑った。シーラは看板娘でありながら、このパン屋の一番のファンなのだ。そして一番のファンにとって、売れ残りを持って帰れるというのは最高の雇用条件である。
美味しいパンが売れていくのを見るのは嬉しい……が、売れ残りのパンを持って帰れるのはそれはそれで嬉しいのだ。もちろん、パンが売れるように努力はするが。
「今日はミートパイも残ってるな。クラウス様はうちのミートパイを気に入ってくれていたから持って行ってやってくれ」
「こっちのお総菜パンも好きですよ。これを持っていくと嬉しそうにお茶の用意をするんです」
揚げ物が挟まったパンをトングで掴んで袋に入れる。
「これはクラウスさん用」と小分けにすれば、店主が微笑ましそうに笑い、次いで時計を見上げた。
文字盤のゼロを指していた長針が今は六を超えている。六時半過ぎだ。
窓の外を見れば既に夜の闇が浸食し始めている。あと半時もすれば日が落ちきり暗くなるだろう。
「おっと、もうこんな時間か。長引かせてしまったな。俺は工房を片すから残りの掃除を頼む」
「はい!」
店の奥へと戻っていく店主を見送り、シーラも気合を入れなおして掃除道具へと手を伸ばした。
手早く掃除を済ませ、奥から出てきた店主達とパン屋の店先で別れの挨拶を交わす。
といっても、別れと言えども明日もまたシーラは朝早くから出勤し、パンの香りで包まれたこの店で彼等と共に過ごすのだ。惜しむようなやりとりではない。
「それじゃシーラ、明日もよろしくね」
そう告げてくるのは店主の夫人。それに対してシーラも笑顔で返した。
次の瞬間……。
シーラの足元が、まるで数十のランタンを同時に灯したかのように眩く光りだした。
眩しさにシーラが目を瞑る。足元から強い風が煽るように吹き抜け、スカートを大きく膨らませた。
手にしていた鞄が風を受けて大きく揺れる。今日は一日穏やかな天候だったというのに、今この瞬間だけは大荒れの台風のようだ。
風に煽られバランスを崩さないよう身構え、鞄をぎゅっと抱きしめる。
そうして一度大きく風が吹き荒れると、店先にあったシーラの姿が、まるでパチンとはじけたかのように一瞬にして消えてしまった。
◆◆◆◆
目を瞑っていても眩しいと感じるほどの光。
それが次第に薄らいでいき、シーラはゆっくりと目を開けた。
パン屋の店先に居たはずが、今いるのは屋内の一室。
薄暗い部屋だ。壁には本棚が並べられ、それでもしまいきれないのかあちこちで本が乱雑に積まれている。床を見れば難解な文字が薄く光っており、それも徐々に光を弱め、ふつりと途切れるように消えてしまった。
室内にシンと静まった空気が漂う。どことなく埃臭く息が詰まるような、重苦しい空気だ。
先程までいた店主と夫人の姿はない。
代わりにいるのは、濃紺の地に金の刺繍をされたローブを纏い、フードを目深にかぶる青年が一人。
彼は光と共に現れたシーラに対し、一歩近づき……。
「おかえりシーラ、お仕事ご苦労さま」
と、労いの言葉を掛けると、意味ありげに目深に被っていたフードをパッと捲った。
対してシーラもまた驚愕することも動じることもなく、
「ただいまクラウスさん。今日はクラウスさんの好きなミートパイと総菜パンが売れ残ったよ」
至極あっさりと手にしていた鞄を彼に見せるように掲げた。