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後編

 昨日と同じように気温は三十五度。日中はとにかくうちわをあおいで過ごしていた。その間、妹がジュースを持って来い、アイスを買って来い、ゲームの相手をしろだのと色々と命じてきて、しぶしぶそれに従ってやった。新聞記事の二の舞は勘弁である。

 ようやく五時頃に解放されて自分の部屋に戻ったのだが、何もやる気が起きない。

 晩飯のそうめんを食べ、部屋でゴロゴロする。雑誌も読む気にならない。ネットもやる気になれない。宿題なんぞなおさらだ。俺はもう少し休みが欲しい。

 押入れから枕を引っ張り出して頭を埋め込んだ。それ以降の記憶は判然としない。


「お兄ぃ」


 声が聞こえて目が覚めた。部屋の電波時計は夜の十時過ぎ。一昨日とほぼ同じ時間帯だ。


「また頼むよぉ」

 しかも声のかけられ方まで酷似している。となるとこの後の展開も容易に想像がつく。


「ねえ、早くってばぁ。逃げちゃうよぉ」


 ほら来た、まただ。今度はどんな生き物を相手しなくちゃならんのだ。一昨日のナメクジは生きていると思うが、その他の連中はもう燃えるゴミで出してしまっている。

 奴らは殺虫剤を浴びまくるという悲惨な目に遭っているが、俺は朝から妹に引っ張り回されてすこぶる機嫌が悪い。今晩のじめじめする暑さも殺意を増長させる。それに殺虫剤は使う気にはなれない。

 俺は押入れの奥に閉まってあるビニール袋を取り出した。中にはグレーの銃身を持つウエスタンアームズ・コルトガバメントとBB弾が詰まっている。

 親はいない。今日はこれを標的の脳天にぶち込んでやる。俺は鼻の脇を滑り落ちる汗をシャツの袖で拭うと、そのグリップに手を伸ばした。


「もう、お兄のバカ! 信じられない! お母さんに駄目だって言われていたのに!」


 翌朝、台所で新聞を広げていると妹が怒鳴り込んできた。セミロングの髪は寝癖であちこちにはねており収拾がついていない。


「夢にも出てきちゃったしさぁ。どうしてくれるのよ!」

「そんなのはお前の精神が軟弱なのさ。俺はやりたかったからやっただけだ」


 それを聞くと妹はもう一度「バカ」と言い放ち、二階に戻っていってしまった。

 昨日の相手はヤモリだった。ヤモリは「家守」と書かれるように家を守ってくれる動物である。人間に害は与えず、俺が先日に処理したような虫たちを駆除してくれるありがたい存在なのだ。

 俺もそのことは良く分かっていた。本来は放っておくべき生き物だ。しかし妹の頼み以前に俺自身も暑さで感情的になっていたのは否めない。台所に入って一メートル前方にあいつの姿を捉えた時、俺は迷わず頭を目がけ引き金を引いた。

 ヤモリは耳がいい。発砲音を聞いた瞬間に動き出したため、弾は尾の付け根に命中した。ほぼ千切れかけていたものの血はほとんどない。

 ヤモリはその痛みのせいか足をせわしく運んですぐ側の冷蔵庫に隠れようとする。後ろで妹のあげる悲鳴を聞きながらもすかさず三発打った。

 一発はあいつの右横一センチの床に当たって跳ね、一発はあいつの褐色の胴体に、一発は頭部にめり込んだ。最初に命中した時と同じようにほとんど出血しない不思議なヤモリだった。

 BB弾を体に打ち込まれ、釘を抜かれた標本のようになったヤモリをティッシュで包んでいる間、ずっとエアガン処理に対する妹の罵詈雑言が耳を打ち、ゴミ箱に捨てた時にはもう妹が階段を上っていく音だけが聞こえていた。


 食後のコーヒーを飲みながら新聞を読み進める。昨日熱中症による死者が出たそうだ。

 高齢の農業従事者らしい。入院する人も増加しているようで、暑さは人間にとって最大の困難の一つであることを認識せざるを得ない。

 天気予報によると今日は気温三十二度。昨日ほどではないがやはり暑い。家にいるとまたゴロゴロして一日が終わりそうだ。

 たまには図書館に涼みに行くか。今日の午後には親が帰ってくるはずだから、それまでに家に戻ればいいだろう。

 

「ちょっと図書館に行ってくる。留守番頼むわ」


 妹の部屋の前で声をかけてやった。すると


「お兄、雨が降るよ」

 自分の部屋に戻ってベランダから空を見る。雨どころか雲一つない快晴だ。ベランダの隅に置いておいたセミの遺体はもう無くなっている。


「降りそうにないぜ」

「雨が降るよ」

「言ってろよ。じゃ、行ってくるからな」 


 俺は自転車の鍵を片手に階段を下りていく。相変わらずよくきしむ階段だった。

 

 図書館は休館だった。今日は普通の日曜日で特に休館する要素は無いはずなのだが。仕方なく自転車を返す。この近くの国道沿いに古本屋がある。そこを冷やかすのは俺のちょっとした楽しみだ。日曜は車が少ない。信号をところどころ無視し十分足らずで到着した。

 しかしあろうことかここも臨時休業だった。つくづく今日は運が無い。でもこのまま帰るのも癪だ。俺はこの国道の先にある河川敷に向かうことにした。

 サドルにまたがった時、右手から砂利が混じった強い風が吹いてきて、そばの街路樹を揺らした。空を見上げると、いつの間にか青空が無くなり灰色の雲が湧き出し始めている。

 

 河川敷まではおよそ十分前後。その間国道を通る車は皆無だった。過ぎ去っていく店も一軒家もマンションも人の気配が感じられない。

 たどり着いた河川敷も静寂に包まれていた。電車の通る鉄橋が頭上を横切るこの場所では、普段は野球からゲートボールまで多様なスポーツが行われている場所なのだ。これにはさすがに俺も首を傾げざるを得なかった。

 何かおかしい。どうして人がいないのだろう。しばらく待ってみるか。

 自転車を降りると頭の中で三百を数えた。河川敷に立つパターゴルフコースの旗竿すら微動だにしない。人がやってくる様子もなく、川のせせらぎも電車の音も耳に届くことは無かった――。


 その時、遠くで花火をあげたような音がしたかと思うと左足首を鋭い痛みが突き抜けた。それは瞬時に神経を伝わり、左足全体の感覚が無くなった。

 力が抜ける。体を支えきれず、前かがみになって土手に身を投げ出す形になった。

 体中が何度も草にもまれ地面に叩きつけられる。転げ終わった時には足の長い草に埋もれて仰向けに空とにらめっこをしていた。暗い空から顔にぽつぽつと水が降ってくる。本当に雨が降ってきた。

 何とか左足を動かそうとするが、シナプスが切れてしまったのか俺の指令が全然伝わっていない。その割に出血は見られない。一体何が――。


 するとまたさっきの破裂音が左手から聞こえた。体に衝撃はないがさっきよりも音が大きい。きっとこちらに近寄ってきているのだ。そして標的は俺しかいない。

 じっとしていてはいずれ近づかれて一巻の終わり。逃げるしかない。

 左足は使い物にならないので、両腕を使ったほふく前進を試みる。音がした方の反対側には鉄橋がある。その下に逃げ込むのだ。

 こちらの位置がばれてはまずい。土手はここより草が短いから、登って逃げようとすれば、ばれて確実に狙われる。橋の下は昼間でも暗い。そこで隙をうかがうのだ。

 

 俺は息を押し殺しながら迅速に先を急ぐ。先ほどのような音は聞こえてこない。俺を探しているのだろうか。

 心臓の鼓動が早まっているのを感じる。シャツが雨と汗で背中にぺたりと張りついているのがわかった。鉄橋まであと五メートル足らず。何者かに襲われて物陰に逃げようとするなんて昨日のヤモリのようだ――。

 

 ヤモリ。そうだ、俺はあいつを撃ち殺した。妹にとっては不快感の、俺にとっては殺意の対象。だがヤモリにとっては突如降りかかった身に覚えのない災厄。理由も分からず蜂の巣にされ命を落とすことになった。

 それ以前に駆除したゴキブリや女郎蜘蛛にしたって同じことだ。あのセミだって、もしかしたらベランダにたどり着くまでに、過酷な体験をしてきたのかも知れない。

 その順番が、俺に回って来ただけのこと……。

 

 三度目の破裂音。それと共に腹部に衝撃。ほどなく鈍痛が襲ってきた。

 じきに腹、そして上半身の感覚も無くなるのだろう。両腕は動くが、先ほどのような素早いほふく前進はもう不可能だった。橋まではあと一メートルというところか。


 数センチ動いただけで、口から胃そのものを吐いてしまいそうだ。身じろぎさえ辛い。

 足音が聞こえる。逃げられない、とすぐに理解できるほど。

 狙ってきた奴が誰なのか。せめてそれだけでも眼に映そうと、俺は音のした方へ身体をひねり出す。

 だが、それすらもはや叶わないということを、頭蓋を揺らす第四弾が確実にしてくれたようだ。



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