前編
「お兄ぃ、また頼むよぉ」
階下からそんな声が聞こえてきた時、ちょうど俺はパソコンに向き合ってゲームをしている最中だった。
すでに時刻は夜の十時過ぎ。部屋中の窓を開け、網戸にしているのだが風など一向に入ってこない。足元には三匹の蚊が横たわり、いずれも出血多量。
どうやら俺にたどり着く前に幾人、幾匹もの犠牲者がいるらしかった。こうして椅子に座っていても左頬とうなじが痒くて仕方ない。
「ねえ、早くってばぁ。逃げちゃうよぉ」
「分かった、分かった」
デスクの脇に置いておいたハンドタオルを広げて、顔を大雑把に拭うと立ち上がった。
きれい好きの親が、数日前に部屋を掃除してくれたので、まださほど散らかっていない。
部屋の障子戸を開けて廊下に出ると、スリッパを履いて目の前にある階段を下りていった。木製の階段なので、体重のかけ方によって簡単にギシギシときしむ。全く音を出さずに下りるのは至難だ。
「もっと静かに下りないと。夜なんだよ。ご近所迷惑でしょ」
うぜえ。率直にそう思った。
どんな問題で呼ばれたかはだいたい予想できている。正直俺もあまり好きにはなれない問題だ。
階段を下りきると正面は玄関。すぐ左手が台所である。台所には案の定明かりが灯っており、その明かりを背中に受けてたたずむ小さい人影が一つ。
「今度は何が出たんだよ」
その人影に問いただすと、返ってきた答えは
「……なめくじ」
一瞬目の前の妹をぶん殴ってやろうかと思った。こんなことでいちいちゲームの邪魔をされたくない。
今週三回目の出動要請である。
四日前は家庭内害虫ことゴキブリ。二日前は女郎蜘蛛。どちらも好んで相手をしたくないのだが、しかたなく殺虫剤を使った。個人的には打撃武器で手っ取り早く叩き潰したいのだが、床が汚れるから駄目だと、最近親に言われた。
だが俺は殺虫剤の臭いは大嫌いだ。この前、換気をしたにも関わらず吐きそうになった。その後は少なくとも二十分は頭痛が治まらない。互いの被害を抑えるためにもエアガン駆除くらいで妥協してくれないかと思う。
妹に手を引かれるまま台所に入るとなるほど、冷蔵庫の前に殻を失ったカタツムリのような灰色の生物がいる。かがみこんで眺めていると時折先端から角を出して、きょろきょろと首をひねりながら、こちらにゆっくりとにじり寄ってくる。奴が通った跡は、小さな真珠をちりばめたようにてかてかしていた。
「害は無さそうだから、このまま放っとけよ」
「やめてよ、バカ!」
頭をどつかれた。嫌いな生物を前にすると妹はいつも興奮気味になる。
「台所中をうろつかれたら色々なものに触られるでしょ! あいつの這った冷蔵庫の取っ手なんて掴めると思う? 包丁は? お箸は? お皿は? お菓子の箱は? 私は絶対にイヤ!」
「古人曰く『知らぬが仏』と言ってだな……」
「知るも知らないも危険があるから困ってるんでしょ!」
後頭部に先ほどよりも重い衝撃が走り、大きく前につんのめった。危うくなめくじを顔で押しつぶしそうになる。恐らく膝蹴りでもかましてきたのだろう。
「だいたい私はこういう生き物はね……」
その後延々と愚痴が続き、結局なめくじを外に追い出したのは、それから十分ほど経過してからである。
今は夏休みの真っ盛りであり、中学一年になる我が妹は毎日市民プールで泳いでいるらしかった。高校二年で来年受験を控えた俺はひたすらゲームにいそしむ――と言いたいところだが、実施はたいてい夜からで昼間はゴロゴロしている。
クーラーのない部屋だから昨晩のように風の入ってこない日など、しょっちゅう汗を拭きながらプレイしなければならない。ゲームによってはそれが致命的になるケースもあるからかなり厳しい。
時刻は正午を若干回ったところ。親は遠くの親戚の法事で帰ってくるのは二日後と聞いている。
俺が部屋の隅の枕に右半身が下にくるように寝そべり、頭を乗せてからすでに三十分近く経つ。その間ずっと冷風が左手のうちわから供給されていたのだが、腕に溜まった乳酸はこれ以上の稼動に危険信号を発し始めていた。枕カバーは汗が染み込みはじめているのか、かすかに生温かい。外からは元気なアブラゼミの声が聞こえてくる。
目の前の網戸から見えるベランダの手すりには、今朝干したばかりの俺の布団。その手前の物干し竿にはハンガーにかけた寝間着と二つ折りになったシーツ。
昨晩もひどく汗をかいて、気持ち悪いくらい寝間着もシーツも濡れてしまったので、敷布団一式を日光浴させているのだ。こいつらはいくら日の光を浴びても汗をかくことはないから、今の俺にとってはありがたい体質を持っている。
枕が湿り気を帯びてきているのを感じる。新しい枕カバーを持ってこようと頭を起こした時、ベランダにコン、と小石を落としたような音がした。
先ほどから聞こえていた鳴き声が一層近くから聞こえてくる。見るとシーツの下にグレーの胴体から生えている六本の足と羽をばたつかせている虫がいた。――セミがベランダに転がり込んできたのだ。
我が家では別に珍しい話ではない。夏になるとセミがよくベランダに飛び込んできたかと思うと腹を見せたまま最後の喘ぎと言わんばかりに、足と羽をばたつかせて断末魔を叫ぶのだ。
多い場合には一日で五匹以上のセミがここで生涯を終える。それもほとんどがとても暑い日だ。おおかた、熱中症にでもなっているのだろう。あたかもこのベランダはセミたちにとって霊園のごとき場所なのだ。
今回も同じで、四、五秒ほどジージー鳴きながら身体をばたつかせたかと思うと、ぴたりと固まって動かなくなった。セミによってはすぐに近寄ってつついたりすると、またじたばたし始めるのだが、半数以上はそのまま鬼籍に入ってしまうようで二度と動きはしない。試してみたところやはり後者だった。
遺体をベランダの隅にどける。セミたちにはここが墓場として最適だと思っても、所有者である俺たちはセミと埋葬の契約をしているわけではない。基本的に野ざらし雨ざらしだ。そのうち腹を空かせた鳥なりアリなりが処理してくれるだろう。手間がかからなくていい。
ベランダへ出たついでに、干した布団に手を当てる。温かいを通り越して少し熱い。確かに汗をかくことはないが、その分熱を発散しないものだから、日光は布団にとって自然のオーブントースターとなるわけだ。生き物ならばとっくにダウンしていることだろう。
そろそろ取り込まないと、熱くなりすぎてしまう。まず手前のシーツを部屋に入れようと手をかけた時、玄関の戸が開く音がして「ただいまぁ」という妹の声がした。
珍しい。あいつはいつもプールに行くときは夕方になるまで帰ってこないはずなのだが。
シーツ類を全て部屋に入れ終えた。まだ階段を上ってくる音はしない。シャワーでも浴びているのだろうか。
しかし着替えは二階にしかない。帰ってすぐシャワーを浴びるにしても一度上に来なければいけないはずだ。
あいつの着替えを持っていくわけにもいかず、とりあえず玄関に下りてみることにした。下駄箱の横で右手にショルダーバックを下げ、湿った髪を後ろでアップにした妹が、しきりに左腕で両目をこすっている。
「ゴミでも入ったのか?」
「……違うと思う」
そう言いながらも目をこするのを止めない。何度も目のあたりを往復した腕が濡れていることが分かった。汗のせいだけではなさそうだ。
「あんまりこすると目玉がほじくれるぞ」
「そんなわけないでしょ、バカ」
こするのを止めたかと思うと真っ赤な目でこちらをにらんできた。泣いていたせいなのか、プールの塩素のせいなのかは分からない。
「泳いでいたらちょっと目がかゆいなって思ったの。時間が経っても直るどころかますますひどくなるし、何だか肩とかもむずむずしてきちゃって。変な臭いで鼻も痛くなるし集中できないから早めに帰ってきたのよ」
「ふうん」
俺は首を傾げた。その症状はプールのような環境ならあり得ないことではないが――。
「とにかく目を洗ってよくうがいをしろ。大事にとっておいた最後のケーキを盗み食いされちまったような情けない面をしている」
妹はもう一度俺に向かって「バカ」と言い放ち、履いていたビーチサンダルを脱ぎ捨てて、洗面所に駆け込んでいった。
その日の夕方は何台かの救急車のサイレンを聞く事になった。
翌朝の新聞の地方欄を見たとき、俺の想像は当たっていた事がわかった。
例の市民プールでは昼ごろから薄い塩素ガスが発生していたらしい。避難した人数は二百人あまり。うち病院に運ばれたのが十人。プールの水に溶けた塩素が水温の上昇によって気化したのが原因と見られているが、現在調査中。
「しばらくプールは利用不可能だな」
妹はむくれながらイスに座って朝食のシュガートーストをかじっている。機嫌が相当悪いらしくテーブルの上にぼろぼろパンくずがこぼれているのに、全く意に介している様子はない。
「お兄、オレンジジュース」
突き出されたコップに注いでやる。すでに一リットル近い量を飲んでいるだろう。
「人の楽しみを奪ってくれちゃってさあ、何が面白いんだろ」
「俺に言われても知らん」
「きっと神様は私のような可憐な少女には、つい悪戯したくなっちゃうんだねえ」
「そういううぬぼれやを排除するためのイベントを開催したんだろ。少し大がかりな奴を」
「――やっぱ、お兄、うざっ」
遠ざかるスリッパの音を聞きながら新聞をめくる。家族を刺した少女の事件が載っていた。