ミッドウェーと八咫烏
「おい! 大丈夫か! 返事しろ!」
暗い闇の中、男の野太い声が聞こえてくる。
なんだろう、体がやけに冷たい。
まるで金縛りにあった様で、動かすこともままならない。
「おいシゲちゃん! 息あるよ! 生きてる生きてる!」
自分の体が見も知らずの男に引き上げられる。
体を覆う刺す様な痛みが引いた気がした。
「大丈夫だぁ! もう助かる! 死ぬんじゃねえぞ!」
自分の周りを温かい毛布が覆う、ガクガクと震えていた身体が少し収まった。
「何でこんな海のど真ん中に……お前さん死ぬ気だったのか?」
毛布の上から必至に温めようと擦っている男から子守唄の様に聞こえてくる。
海? あぁ思い出した。
自分は海に落ちて、そして今は船に助けられたんだ。
何でこんな所にいて、何でこんな事態に陥ったのか。
正常な頭なら思い出せたのだろう、だが今は少し眠りたい。
本能の赴くままに体を睡魔に委ねる。
俺はその日、小さな船の上で最初の日を過ごしたのだ。
パン、パン、パン
早朝から耳の鼓膜を破るかの様な大きな破裂音が聞こえる。
撃鉄の音だ、ピストルと教えられた。
「日の本の為、天皇のおん為に殉職して行った仲間に……敬礼!」
巨大な甲板の上で皆規律をもって規則正しく敬礼を行う。
トランペットの演奏が空に響いて虚しさを一層高めていた。
梅雨の時期に珍しく晴天となったこの日に述べ27名の栄誉ある戦死を遂げた人々の水葬が行われたのだ。
船に備えられたスベリ台から一人また一人と日章旗に包まれた遺体が海へと落下する。
「天皇陛下にバンザーイ!バンザーイ! バンザーイ!」
大きな声で一際目立つ装飾をした男が手を挙げて万歳と声を張り上げる。
船の甲板に綺麗に整列した男達は万歳と同じ様に呼応した。
真っ白な制服につばの黒い帽子をかぶり一糸乱れずに手を上下にあげている。
真夏の様なうだる暑さの中で誰一人倒れる事無く、その眼差しは今は亡き戦友へと注がれていた。
彼らは帝国日本海軍と言う人達らしい。
俺はあの後、小舟からこの天城型巡洋戦艦で名を『赤城』と言う船に乗っている。
搭乗数は約1600人、一隻の船にしては異常な人数だ。
海で溺れていた俺はこの帝国日本海軍の人に助けられた。
生憎この船は任務遂行中との事で日本に帰るには最低でも3ヶ月は掛かると言われてしまった。
日本が故郷では無いのに皆が俺を返そうとする、確かに見た目は周りと比べると童顔で背も低い。
だが歴とした成人男性だと言うのに子供の様な扱いに不満が残る。
日差しの暑さに参っている自分だったが、気が付いたら27人の水葬が終わっていた。
ここ最近は毎日水葬を行っている気がする、この人達は戦争をしているのだ。
相手は強大なアメリカという国らしい、ここにいる人達もそのアメリカ人と戦うためにこの船に乗っていると教えられた。
水葬が終わり各々が持ち場に帰っていく中で俺は声を掛けられる。
「おい坊主! けぇるぞ!」
坊主と呼ばれて俺は男についていく。
そんな歳でもないのだが、どうも皆信じてくれない。
「それにしても、その金髪はどうにかならないのかね?」
人の頭をガシガシと掻き回す、乱暴だなぁ。
全く……また話さないといけないのか、周りは皆黒髪なのだ。
俺の生まれた村では皆が金髪だったので違和感がある。
「マルさんいつも言ってるでしょ! これ地毛だから!」
「だがなぁ、もう一度聞くがお前さんアメ公ではないんか?」
「もう何回目だよ知らないって! アメリカ何て国聞いた事ないから!」
しつこく聞いてくるのは、俺を助けてくれた男。
みんなからマルさんと呼ばれていたので俺もそう呼んでいる。
しつこいのが玉に瑕だが基本的には優しくて面倒見がいい。
顔が犬のブルドックに似ていると言われて犬の写真を見せられた時、確かに似てると笑ってしまった。
「マルちゃん、気にするね〜いいじゃないの、命あっての物種だよ」
「そうは言うがシゲちゃんよ、勝手に拾ったゆうても怒られんのは俺たちだで?」
隣でシゲちゃんシゲちゃんと言われている男はあの船に乗っていて俺に毛布を掛けてくれた人だ。
痩せ型で髪に少し白髪が混じっている、歳はマルさんと同じで22歳と言っていた。
若白髪とか言う奴らしい、ご愁傷様です。
マルさんと違い落ち着いており、瞳からは知性を感じるものがあった。
二人とも流石は軍人と言うべきなのか、身体は鍛えられていて並の人間では勝てないだろう。
「とかく俺たちは待機組だ、部屋に戻るべ。坊主も来い来い!」
そう言って手招きをするマルさんに俺はついて行く。
待機組、彼らは海軍の中でも特殊な位置に居た。
大日本帝国海軍航空隊。
彼らはその中で第○ニ航空部隊に所属している。
海に居て空を駆ける覇者。
最初に彼らの飛行演習を目の当たりにした時、年甲斐もなくはしゃいでしまった。
それ以降坊主扱いされている、あれは失敗だった。
マルさんが俺のはしゃぎ様を見て嬉しそうにニヤニヤしていたのが最大の不覚。
彼らはこの『赤城』からいつも飛び立つ。
煩いくらいのエンジン音をならせて前についているプロペラが高速で回転する。
鉄の塊が滑走路をピストルの弾丸の様に走っていく。
名前を零式艦上戦闘機、通称で零戦。
ブルドック顔のマルさんがその時だけはカッコ良く見えてしまうから不思議なものだ。
俺はかれこれ救い出されてから1カ月が経とうとしている。
船の大きさや度重なる敵襲にも慣れてきた。
待機組、敵からの攻撃があった場合にいち早く急発進する部隊だ。
いわばこの船の守護神。
マルさんとシゲさんが待機部屋に入る。
二人と同じ様に待機部屋には人がいた。
この部屋には都合7人がいる、俺も含めると8人。
とても小さな部屋だ、一枚の布団を二人で共有して寝るだけで一杯一杯な部屋。
それもそうだ1600人なんて人数がこの船に乗っているのだからどこも窮屈で当たり前。
待機部屋に入ると既に全員が集まっていた。
マルさん達と共に部屋に入ると、ある男から大声で怒鳴られる。
「おい、何ニヤついた顔で入ってやがる。腑抜けてんじゃねぇぞ!」
部屋に入った瞬間に浴びせられる罵声。
マルさんもシゲさんも一瞬にして凍り付いた。
部屋の1番奥で番長の如く胡座をかいて座っている男性がいた。
「し、失礼しました白根分隊長殿!丸山秀雄只今到着致しました」
「同じく茂山寛六到着致しました、」
「到着じゃねぇだろ! 走って帰ってくるのが当たり前だろうが!」
壁を叩く、鉄の板で貼られているのにも関わらず御構い無しに思いっきり。
怒られている二人以外の部屋にいた残りの4人もビクっと肩を震わせた。
この男がマルさんやシゲさんの上司、白根斐夫。
まるで獣の様な鋭い眼光と坊主頭、常に怖い雰囲気を纏った人で俺は苦手。
マルさんやシゲさんよりも年下だと言うのにこの部屋で一番偉い。
「マル、今日何人死んだか覚えてるか?」
「……27人です」
「それで良くへらへらと笑ってられるなぁ!」
「……」
「だんまりか……チッ、さっさと準備しておけ!」
「……はぃ」
「おい、返事は? なんだ? 聞こえねぇよ!」
「は、はい!」
ここは人間の社会なのか?
獣の社会と言うべき理不尽な縦社会。
逃げる様に出撃準備をするマルさんとシゲさん。
獣の眼光は俺へと向けられる。
「小僧、死にたくなきゃこの船から降りるなよ」
俺を見据えて話しかける。
あえて無言で肯定も否定もしない。
この白根という男がどれだけ冷徹で冷酷な人間かをこの1ヶ月で嫌という程知らされたから。
俺が海で遭難中に救い出されてすぐ、医務室で俺は目を覚ました。
周りには一人の男、この船でベテランの医者だと後で知った。
そのもっと後ろでマルさんとシゲさん……そしてあの男白根がいた。
「おや? 起きたか、どれ自分の名前と年齢わかるかい?」
医者の男が優しそうにこちらに質問を投げかけてきた。
俺は極めて冷静に正常にそのとき答えたと思う。
「名前は偉大なる神樹アバヌから授かり『カルゥ』という、年は245歳だ」
そう、ハッキリと正確に答えた。
診断結果が『記憶喪失』。
……何故だ?
ともかくそんな顛末があり今の自分は記憶喪失の異国の少年という扱いだ。
だが白根だけはあの時俺を睨んでこういった。
「小僧生きたいか、死にたいのか」
まだ目覚めてフラフラする中で白根の瞳だけは何故か引き寄せられた。
「生きたいに決まってる」
そう答えた瞬間ニヤッと白根は笑った。
「そうか、生きたいか……マル! シゲ! コイツは俺が引き取る」
上機嫌にそう言い残すと白根は一人だけ帰ってしまったんだ。
あの時はまだ、いい人なんだと思っていた。
「おいシゲちゃんどうしよう?」
「どうするか? まぁなんだ、カルゥ……いいづれぇ坊主、良かったなぁ〜」
自分の頭をシゲさんが優しくさすってくれた。
愛情のこもっている暖かさを感じる手だった。
この一言で二人から坊主呼ばわりが決定した。
言いづらいって……そりゃ無いだろ。
結論から言うと、俺がここで皆と暮らせているのは白根のおかげ。
なんで俺を引き取ったのか分からない、分からないが冷酷で冷徹なのはもう知ってる。
俺は二日前にアメリカからの敵襲があった時、戦闘終了後部屋に戻る前に白根とシゲさんが連絡通路で話し合っている声を聞いてしまった。
「白根隊長、なんであの時私に攻撃命令を出さなかったんですか! 仲間を助ける千載一遇のチャンスだったんですよ!」
シゲさんが顔を真っ赤にして怒っている姿を見てしまった。
優しくて何処か抜けているシゲさん。
マルさんと一緒に馬鹿やっているのが似合うシゲさんが、白根隊長の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけていた。
白根は冷たい視線をシゲさんに送ったまま、反対に右手の拳でシゲさんの左頬を殴りつけた。
強烈なパンチを喰らって鉄の廊下にシゲさんは叩きつけられる。
叩きつけられながらもシゲさんは呆然とした表情で白根を見上げていた。
「シゲ、お前何か勘違いしてねぇか? 上司に向かって胸ぐらを掴むだと? どういう了見だ! ぁあ!」
答えたのは軍規に対しての回答、作戦行動についての可否を答えはしなかった。
「隊長、隊長! 答えないんですか! それとも答えられないんですかぁ!」
俯いて顔を上げようとしない、泣いているんだなと遠くで見ていた俺でも分かった。
「あの状況をもう一度よく考えな、俺に不満を発言する前に自分の行動をよく省みろ」
白根は慰めの言葉もなく、ただ説教を行っただけでそのまま去ってしまった。
残された廊下からはシゲさんの鼻水をすする音が聞こえていた。
それが二日前の出来事。
そして今日27人の水葬が行われた。
シゲさんには同じ航空軍学校の友達がいた。
しかし、今は水の底に眠っている。
あの暑い日差しの中で瞬きもせずに海に落ちて行く日章旗を見つめていたことを俺は知っている。
それでも気丈に俺たちには笑っているシゲさん。
あいつはシゲさんの友達を見殺しにしたんだ。
待機部屋で地図を見ながら永遠と考え混んでいる白根を俺は自然と睨んでしまっていた。
そんな中で突如大きなサイレンの音がこだまする。
ゔぅぅぅぅぅーーー。
「敵機襲来! 敵機襲来! 各々戦闘配備!」
船内放送があちこちから聞こえてくる。
アメリカ軍がやって来たのだ。
警報を受けて船内が慌ただしく動き回りだす。
やっこさんの得意の強行偵察だ。
もうこの1ヶ月で何回やって来たか分からない。
余りにも多いので慣れてしまった。
「! 第◯二航空部隊! 直ちに発進!」
地図とにらめっこしていた白根分隊長が大声で飛び出す。
後の7人も我先にと飛び出した。
マルさんとシゲさんが俺に向かって声をかける。
「アメ公はしつこい奴だなぁ、休ませてほしいよ……なぁそう思うだろ坊主?」
「何言ってんだマルちゃん、ほらさっさと行くべ。お留守番頼んだぞ坊主!」
軽口を叩きながら彼らは大空へと飛び立って行く。
俺は非戦闘員扱いなので部屋に待機する約束になっている。
数分後には窓の中から彼らの零戦が何機も発進するのを眺めていた。
あの中にマルさんとシゲさんがいるんだろう。
尾翼もブレずに綺麗な発進をしている一機があった。
誰が乗っているか一目瞭然なのが嫌だった。
「あの零戦は白根か、腕だけは一流なのが気にくわねぇ」
真っ直ぐに先頭を突っ走る零戦。
その後に6つの零戦が編隊飛行を行なっていた。
「まぁ俺には関係ない事だ、精々寝て待っているか」
7人がいた待機部屋で俺は大の字になって優雅に寝そべる。
元々小柄な自分の身体。
8人いれば窮屈なこの部屋も一人でいると物寂しい。
白根が最低な事は確定しているが、ここでの出来事は何も悪いことばかりではなかった。
給仕室からマルさんが酒をくすねてみんなで酒盛りをして白根に怒られたり。
花札やトランプなんかの遊びだって教えてもらった。
窓の外を見れば敵機が横切る世界で。
俺は人の温かさを知った。
俺の名前は神樹から授かった者。
授かる名前にはその人に与えられた力が存在する。
自身がもらった『カルゥ』という言葉は。
【災害】
何の因果かわからない。
俺はいるだけで災害をもたらすもの。
そう言われ続けられて、実際俺にはその身に余る力を手にしていた。
村の人は皆俺のことを避けてきた。
災害というレッテルを貼られて自分の力をどう使ったら良いかわからなかった。
「俺は単なる人間だっていうのにな」
そんな傷心していた自分にここの住人は俺を人間扱いしてくれた。
そのことがたまらなく嬉しかった。
ニヤケながらいつまでも夢見たいなこの世界に居続けたかった。
戦争によって人が死んで行く様な世界で、俺は幸せを感じていたんだ。
夕暮れの空、アメリカ兵と戦った航空隊が赤城の滑走路へと戻ってくる。
俺は皆の帰りを甲板の上で待って居た。
尾翼のブレない零戦がこっちに向かって着陸態勢をとる。
「白根が帰って来た、って事はマルさんもシゲさんもあの零戦に!」
白根に続くように飛行する零戦が何処かおかしい。
俺は一瞬見間違いかと思って目をこすった。
「あれ? 1・2・3……なんで5機しか居ない」
何度確認しても5機しか居ない。
いくら、いくら数えても5機しか見えなかった。
やがて滑走路からパイロットが降りてくる。
俺は見覚えのある顔を見てホッとした。
駆け寄って近くで聞いた。
「マルさん! お帰り! あれ? シゲさんは?」
俺はマルさんの後を眺めたがシゲさんの姿が無い。
マルさんもいつもと違って顔を下に俯けたまま、こちらを向こうとしない。
手を固く握り締めて、何かを耐える様に。
身体の温度が急激に下がる。
人が簡単に死ぬ様な世界。
だけどマルさんやシゲさんだけは特別だって勝手に思っていた。
そんな訳ない。
そんなバカなことがあってたまるか。
だけど俯いているマルさんを下から覗いた時に全てを悟った。
溢れんばかりの涙をたたえてグシャグシャになったマルさんがいた。
「なぁ坊主、シゲちゃんな……シゲ……うぅ……あ”ぁ”あああ!!」
しつこいくらいにお節介焼きで優しいマルさんが子供の様に泣き喚いている。
手が充血して赤黒く変色するほどに悔しさを握り締めながら。
自分で止める術が分からないのか涙を必死に腕で擦りながら。
それでも涙が止まらない。
「マルさん! シゲさんは! シゲちゃんは!」
俺も一緒に泣いて居た。
想像しなかった訳じゃない。
日章旗が船から海に落ちて行く時、あれがマルさんやシゲさんだったらと考えたことはあった。
だけど一ヶ月二人はニコニコしながらこの甲板の上に帰ってきた。
だから何の証拠もなく、この二人は死なないのだと思っていた。
マルさんの頭がガクガクと揺れるほどの前後に揺らす。
信じたくなかった。
「軍人が、メソメソ泣いてんじゃねぇ!!」
ビリビリと空気が破れるくらいの大声を上げる男。
こんな時にこんな非常識なことを言う奴なんて一人しかいない。
「白根ぇ! 仲間に対してお前は、お前はぁあああ!!」
俺は頭が真っ白になって白根に飛びかかっていた。
シゲさんが死んだんだぞ?
何だよその態度?
フザケンナよ!!
二日前にシゲさんがしていた様に自分も白根の胸倉を掴んでいた。
「自分の仲間が死んだって言うんだぞ! 泣くのは当たり前じゃねーか!」
冷徹にして冷酷。
人間の風上にも置けない人。
俺の瞳を鉄仮面の如く無表情で見つめてくる白根がいた。
全く二日前のシゲさんに説教垂れた時と同じシチュエーションだった。
「小僧、部外者が口出しするな」
淡々と胸ぐらを掴まれているのに話す。
悔しい。
こんな上司のもとで死んでいったシゲさんが浮かばれない。
「……あぁ、そうかよ。 最低だなお前」
怒る気力すら湧かない。
こいつはそうゆう奴なんだ。
そう悟った時急に掴んでいた手の力が抜けた。
何を言ってもこいつは揺るがない。
「もういい、分かった」
そう言い放って俺は甲板の上から去った。
去りながらも大粒の涙は甲板の上に落ちて行く。
よく晴れた日だから、きっと甲板に落ちた俺の涙は数分もしないうちに乾いてしまうだろう。
自分の悔し涙がその程度だと言われている気がしてやるせなさを感じた。
やっと涙が止まったのは夜も更けた頃だ。
ずっと泣いていた為に顔が赤く腫れてしまっている。
俺は何も考えられずに甲板の上に呆然と立っていた。
戦友に敬礼し、整備員に敬礼し、最後に日章旗に敬礼を掲げて飛び立つパイロット達。
そこにはあるはずの無い幻影が重なって見えた。
シゲさんは最後に何を思ったんだろうか。
悔しかったんだろうか。
怖かったんだろうか。
思い出すだけでせっかく止まっていた涙が溢れてきそうだった。
「俺はこの世界に来て何をすればいい」
俺がこの世界に来たのは神樹アバヌからのお声が聞こえたから。
アバヌ様に言われるがままに禁断の森に入って行った。
村の人々はいい厄介払いができたと喜んでいた。
自分の居場所はあの世界には無いんだと再確認させられた。
森の中に大きな穴があった、隕石が落ちた様にポッカリと。
そのまま奈落に続くかに思えるほどの大穴。
アバヌ様は言った。
そこに身を投げろと。
俺は自殺させる為にここに導かれたのかと思った。
もう生きていても辛いだけ、何の抵抗もなくその穴に落ちて行った。
そうして気付いたら俺はあの大海の真ん中にいたんだ。
「シゲさん……俺どうしたらいい」
一人甲板の上でそう呟いたとき。
「クソッ! クソォオオ!!」
俺の先にこの甲板に人がいたんだ。
その男は船の穂先で悔しそうに大声で。
穂先にある柵につかまってアメリカ兵がいる方を見つめながら。
聞き覚えのある声だった。
けどこんなにも悲痛で悔しさのこもった声を聞いたことがなかった。
疑った。
白根斐夫が泣いているなんて。
「クソ、クソッ! 俺があの時! あの時ぃ!」
ガンガンと壊れるくらいに柵を叩いて、感情を吐き出している。
「シゲ、シゲェ! 何勝手に死んでるんだ! 許さねぇぞ!」
その姿は一匹の狼が寂しく吠える様に。
白根は誰にも聞かれることのないこの船の先端で嘆いていた。
「俺は……俺は一体あの時どうすればよかったんだよぉ……」
ズルズルとそのままへたりこむ様に倒れていく。
初めて見る白根の弱音。
偶然にも聞いてしまった俺は、白根の事を勘違いしていた事を知った。
何であんな冷酷な奴にマルさんやシゲさんが付いていくのか不思議だった。
最低な奴だと俺は思っていた。
違ったんだ。
誰よりも仲間思いで、誰よりも人間らしいと俺は理解した。
だからみんなあの男の背中に付いていくんだ。
俺の心の中に悔しさがまた燃え上がる。
一人で吠えて、獣の様に胸の内にあった感情を露わにしている白根。
すごく切なくて、同時に俺がこの世界に来た本当の意味に気づいた気がした。
「俺、分かったよ」
白根の泣き叫ぶ姿を見ながら小さく呟く。
自分に向けた決心の言葉。
「俺はみんなを守る為にこの世界に来たんだ」
【災害】と呼ばれた自分。
村のみんなに嫌われて隔離された自分。
俺の力。
全ての風を操る力。
「これ以上、俺の大切な人を失いたくないから……」
自身に風を纏い、風の力で俺は甲板上から垂直に舞い上がった。
零戦なんか目じゃないほどの加速。
光の速さで俺は『赤城』から飛び立つ。
それは一羽の鳥が飛翔する様に。
ここはミッドウェー。
大日本帝国が1942年の6月5日にアメリカと熾烈な海上戦闘が行われた場所。
この戦闘で日本は『赤城』と含む4隻の航空母艦と重巡洋艦1隻が海に沈む大敗北をする。
その一日前の6月4日の夜10時に飛翔した男がいた。
真っ暗な夜にあってその金髪が鳥の目の様に光って見えたという。
日ノ本には有名な神話がある。
神武天皇が東征の際に一羽のカラスが道を指し示し、導いた。
そのカラスの名前が『八咫烏』。
日本を守る、守護獣の名前。
のちに八咫烏と呼ばれる男の物語。