黄金の少年
ミゲル・フェルナンド・レオン・ガレアーノ・フォン・カレンブルクにとって、兄のエリアス・ルイス・セルジオ・ガレアーノ・フォン・カレンブルクは、何にも勝る自慢の兄だった。
兄弟は、ブエノスアイレスの南側のラ・プラタ河口に近い古い町で、19世紀のはじめに建てられた広い屋敷に、両親と十四人の召し使いたちと暮らしていた。ガレアーノ家の屋敷には、中央のファサードから左右にドーリア式の円柱が十二本並んでいて、等間隔に並んだフランス窓には、スペイン製の白いレースのカーテンがかけられていた。兄弟には、それぞれに広い部屋と、子守り専用の召し使いが与えられた。
兄弟の父、エステヴァン・ペドロ・ホアン・ガレアーノ・モラレスは貿易商で、新大陸の名産である、砂糖、羊毛、毛皮、色とりどりの香辛料や煙草の葉を船に積んで旧大陸へ運び、帰りには、旧大陸産の、シルクの布地、薬、シェリー酒や贅沢品を仕入れて帰った。
父方の先祖も裕福な商人で、征服者ファン・ディアス・デ・ソリスがこの地の河口に上陸した九十年後の17世紀に、故国スペインから、白い帆船で渡ってきた。先祖は新大陸での鉱山採掘権の取得を目指し、希望に満ちた新大陸に上陸したが、鉱山を手に入れることはできなかった。そのかわり、二世代目のペドロ・ルイスが牧場と紡績工場を手に入れて、その稼ぎで貿易用の船を手に入れた。
エステヴァンより十五歳下の妻、イレーネ・クラウディーア・フォン・カレンブルクのほうは、ガレアーノ家の先祖から一世紀を経て、ブドウ農園にする広い土地を求めて渡ってきたドイツの地方領主の末裔だった。染めていない本物の金髪と、灰色がかった青い目をもっていた。
二人のあいだに最初に授かった息子エリアスは、母親よりも明るい金色の髪と、ブルートパーズに光をあてたような、青い、不思議な光を放つ目をしていた。
初めての息子は、夫妻に計り知れない程の喜びをもたらした。先祖から受け継いだ征服者の誇りと、新大陸で徐々に薄れ、乾いた大地に少しずつ吸い込まれてゆく旧大陸の典雅な文化への憧憬を、強く呼び起こしたのだ。
手中の珠のごとく育てられたエリアスは、両親の期待を越えた子供だった。あまりむずかる事が無く、乳母にもよくなつき、屋敷に頻発にある来客に、歯も生え揃わないうちから、にっこりと微笑みかけた。その宝石のような透き通った青い目と、輝く金色の髪を目にした客達や一族のものは、みな同じ言葉をこの幼子に捧げた。
「この子は、宗教画に描かれた天使そのものだ」
エリアスが三歳になったとき、弟のミゲルが生まれた。
母親のイレーネは、ミゲルがお腹にできたとわかったとき、気がかりでならなかった。
(ああ、これからどんどん具合が悪くなって、特に、あのつらい悪阻と、嫌な立ち眩み!そのせいで、可愛いエリアス坊やのお世話ができなくなったらどうしましょう!)
まさしくその通りに、ミゲルがお腹にいるときの悪阻はひどかった。しかしこの時は、つらい時期は、前の時よりずっと早く過ぎ去った。よちよち歩きのエリアス坊やが、母親の手を握り、「マードレの具合が良くなりますように」と、可愛い声でささやいたり、母親が坊やの薔薇色の頬にキスすると、不思議と悪阻がよくなった。
その頃には、屋敷の使用人達からも、町の人々からも、「ガレアーノ家の屋敷の坊っちゃまは、天使そのものだ」という声が、毎日のように聞こえてくるようになった。
弟のミゲルのほうは、濃い茶色の巻き毛に、鳶色の瞳と濃い眉をもって生まれてきた。父方の故郷スペインの血を濃く受け継いだようだった。
ミゲルが生まれた時から、兄となったエリアスは、弟のことを大層可愛いがった。
五歳になったミゲルが、屋敷の大きな鏡を見て、兄と自分とが、まったく違う髪の色、違う瞳の色をしている事を口にした。不思議がるミゲルに、兄エリアスは優しく言った。
「僕の青い目は光に弱いけれど、その鳶色の目は、光に満ちたこの大地を駆けまわるジャガーの目なんだよ。この土地では、青い目よりも、ずっと価値があるんだ」
そう言って、弟の頭を優しく撫でた。
兄エリアスは、小学校に入学したときから、この地に学校が創立されて以来の秀才と呼ばれた。教師達からは、こんなに美しく、賢く、優しく、品格がある生徒は見たことがない、と賛辞の声が、ひっきりなしに両親の耳に届いた。両親は、誇りでいっぱいの胸に、さらに降るような賛辞を受け止めた。
私どもの愛しいエリアスのことでしょうか。ええ、息子は神様からのギフトですわ。あの子のためならば、私たちは、どんなことでもしてやりたいと考えておりますの。
3年遅れてミゲルが入学すると、エリアスは毎朝ミゲルを馬車から抱きかかえて下ろし、手を引いて新入学生の教室まで連れていってくれた。自分の教室に向かう前には必ず「今日も楽しく過ごすんだよ」と柔らかな声で言って、ミゲルの頭を撫でてくれた。
エリアスは美しい字で完璧なノートを取り、全ての科目で最優秀の成績を取った。絵画で州の最高の賞を取って首都で表彰された。8歳から始めた馬術では、地元の乗馬クラブ主宰の競技では、年少の部門で一等を取った。
エリアスの性格は、穏やかで思慮深く、それに加え、決めたことは必ずやり通す強い意志も持ち合わせていた。傲慢さは微塵も無く、使用人だろうが町の人だろうが、揺るぎない穏やかな微笑みと親切な態度で、それがごく当たり前のように振る舞った。
一方、弟のミゲルは、やんちゃで好き嫌いが激しい子だった。
数学は好きだが文法は大嫌い。肉は好きだが、野菜、とくに豆や人参は叱られても絶対に食べない。教師に対しても、好きな教師には質問にも行くが、気に入らない教師の宿題には、ノートにその教師の大きな似顔絵を落書きして渡した。
学校でも町でも、似ていない兄弟だと知れわたっていた。だが、本当の兄弟か、という話題になどはならなかった。エリアスは美しい母親からゲルマンの特徴を受け継いでいた。一方、屋敷の広間には、父方の先祖たちの肖像画が掛けられていた。その中の、曾祖父ペドロ・ルイス・ホセ・ロドリゲス・ガレアーノ・アドモの肖像画が、ミゲルとそっくりな髪と瞳と眉をしているのを、皆が知っていた。その父方の曾祖父の顔を覚えている老人も、まだ町には何人か生き残っていた。
エリアスは育つにつれ、ますます素晴らしい素質をあらわしていた。両親にとっては何より自慢の息子。校長にとっては我が校の模範となる生徒。町にとっては、アルゼンチン中のどの町に出したって恥ずかしくない、自慢の子供だった。ミゲルにとっても、兄は誰よりも優れている、自慢であり憧れの存在だった。
父親の貿易会社と牧場は、三代前先祖から受け継いだ時と同じく
順風に運営されていた。ガレアーノ一族はこの地に根を張り、商売に励み、国や州に何人も議員を送り出した。地元の社交クラブやパーティーでは、父エステヴァンが来ないと乗馬や狩の話は始まらない。また、父親は、会社の利益から、かなりの額を町の教会に寄付していた。教区の神父からは毎月感謝の手紙が届けられ、毎週日曜日ごとの礼拝では、父の名に感謝の言葉が捧げられた。
美しい母親は、地元の社交クラブや乗馬クラブのパーティーの花形だった。フランスから取り寄せたレースのドレスを身にまとい、金色の髪を美しく結い上げ、毎月欠かさず、白亜の宮殿のようなテアトロ・コロンまで出かけていった。この新大陸の文化の象徴である豪華な大劇場で、父と母は腕を組んで優美な大階段を上がり、巨大なシャンデリアの下で、大好きなオペラを楽しんだ。
新しもの好きな父親が買った自動車に乗って、家族で町へ出かける事もあった。大勢の町の人々が両親、そして兄に目を止め、話しかけてきた。
「エリアス君は、馬術大会には今年も出場するのかね?おお、それは楽しみだ」
「エリアス坊っちゃん、この間はうちの子がたいそう親切にしていただいたそうで。ありがとうございます」
「エリアス、私の誕生日パーティーの日を忘れないでね。うちの料理人が、大きなケーキと、山ほどのレモンパイを焼くの」
ミゲルのほうは、よく町の老人達に話しかけられた。
「なんとお祖父様によく似ておられる。この町の教会の建立に手を尽くしたひとりで、それは立派な方でした」
そう言って、ミゲルの顔を見る度に昔を懐かしがった。
エリアスが十歳、ミゲルが七歳になったとき、それぞれに天体望遠鏡と自転車が与えられた。天体望遠鏡はドイツから、自転車はイングランドから取り寄せられた。 エリアスは貰ったものを大切に使った。特に、天体望遠鏡をとても気に入っていた。ミゲルが夕食のあとに庭で自転車に乗る練習をしていると、よくエリアスが大きなフランス窓を開き、天体望遠鏡で空を眺めているのが見えた。
夜が更けると、どこからか乾いた風に乗って、ガウチョたちが唄う、もの哀しいフォルクローレが聞こえてきた。
ミゲルが8歳になったころ、休みの日に両親や子守係に内緒で屋敷を抜け出し、クラスの遊び仲間と自転車で出かけた。仲間たちたちに丘の上から盛大なジャンプを披露したが、自転車ごと窪地に落ちた。ミゲルの左の足首の骨にはヒビが入り、両親にこっぴどく叱られた。自転車は壊れ、まっすぐ走らなくなってしまった。危険だからと、新しい自転車は買って貰えなかった。週末に馬や自転車で走り回るのを何より楽しみにして、窮屈な学校生活をどうにか我慢していたミゲルは、ひどく落ち込んだ。
その日の夜に、ミゲルの部屋に、イチジクと苺とボンボンとを皿に盛って、エリアスが来た。エリアスは、ミゲルの左足首に巻かれた包帯に、そっと手をあてた。
「痛むかい?」
「ううん、もう痛くない」
エリアスは、安心したように微笑んだ。
ミゲルは、べそをかきながら、兄に訴えた。
「お父さんは、いつも同じことばかり言う。試験は何点だったのだ?エリアスを少し見習え、ノートに落書きするな、勝手に屋敷を抜け出すんじゃない。僕は生まれる家を間違えた気がするよ。ガウチョの家に生まれて、馬でパンパを走り回って牛を追う暮らしの方が、僕には合っているんだ」
エリアスは穏やかな目でミゲルを見ながら、優しく頭を撫でた。
「お父さんは、本当はお前のことが可愛くてたまらないんだ。お前が自分に似ているから、顔を見ると声をかけずにはいられないんだ。頭を撫でる代わりなんだよ。怪我がすっかり治ったら、僕の自転車と交換してあげる。今度こそ、気をつけて乗るんだよ」
エリアスのトパーズの瞳が、淡い光を放っていた。
エリアスが十二歳、ミゲルが9歳になったとき、エリアスが町のフェスタのパレードに参加することになった。両親は、さっそく、自慢の息子がフェスタで着る衣装の準備に取りかかった。町の誰よりも、どの家の子よりも立派な衣装や靴や帽子をしつらえるつもりでいた。だが、派手すぎて品が無くなるのはいけない。祭りは主と、聖母マリアに捧げるためのものだ。敬虔なカトリックの善きしもべとしてふさわしい、品のある衣装でなければ。
エリアスの衣装をあつらえるため、仕立屋が屋敷に通うようになった。腕によりをかけてあつらえた衣装は、金糸で細かな刺繍がぼどこされた水色のジャケットに、みっちりと刺繍が縫い込まれた肩当てがついて、それに大きな襟の付いた豪華なマント。大きな白い羽の付いたつば広の帽子。ヨーロッパ風の衣装をまとったエリアスは、弟から見ても、本や絵画に描かれた騎士みたいに美しく見えた。
ミゲルも、フェスタ見物のための衣装をあつらえてもらった。鮮やかな翡翠色の短い上着に、揃いのつなぎのズボンのマタドール風の衣装で、ミゲルの黒い髪に合わせてつくられた。
女中達は、台所での忙しい食事の合間に噂した。
「フェスタの衣装を着たエリアス坊っちゃまったら、そりゃあもう立派で、まるでドイツの王子樣みたいだったよ。ミゲル坊っちゃまのほうは、すっかり小さなマタドールだ」
フェスタの日には、町の沿道から教会前の広場までが、華やかなポールやリボンで飾り立てられた。家々の窓や戸口は花で溢れた。
パレードは昼過ぎに始まった。主と、聖母マリアの像が乗ったみこしが通ると、プラタナスの並木道に溢れる人々は熱狂に包まれた。口々にメシアと聖母を称える言葉を叫び、祈り、胸の前で十字をきった。熱狂冷めやらない人々の前に、続いて中世ヨーロッパ風の騎馬隊があらわれた。騎馬隊の先頭には、優美な衣装をまとったエリアスの姿があった。エリアスが乗っている馬の鞍や手綱まですべてが、母親が新しくあつらえさせたもので、鞍はきらびやかな大陽や波のモチーフで彩られ、手綱は金糸のフリンジで飾られていた。強い日射しの下で、エリアスの黄金の髪はますます輝きを増し、瞳は空よりもさらに澄んだ青い光を放っていた。
人々の視線はエリアスに釘付けになっていた。みな胸に手をあて、騎馬隊が通り過ぎてさえ、その後ろ姿を目で追った。
両親と一緒に、四頭立ての花馬車に乗ってパレードを見物していたミゲルが、馬上のエリアスの姿を見つけた。ミゲルは、兄の姿に誇らしさで胸がいっぱいになって叫んだ。
「エリアス兄さんだ!僕の兄さんだよ!」
パレードが終わると、ミゲルのところに同じクラスの遊び仲間であるフェルナンドとマルコとクリスチアーノが、フェスタ会場の広場に見物に行こうと誘いに来た。母親は心配気な顔をしたが、父親が許した。ミゲルは馬車から転がるようにして降りると、いさんで祭り見物に出かけた。
古い大きな教会の広場は、色とりどりの衣装を着た人々でごった返し、肉の焼ける匂い、薔薇の花の香り、それに人々の汗の匂いがしていた。黒い髪、茶色の髪、赤毛に金髪。黒い瞳、青灰色の瞳、鳶色の瞳、様々な人種が集まり、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語が飛び交っている。広場の隅には、丸いフェルト帽子を被ったインディオ達の姿もあった。彼らは身を寄せ合うようにして、多くはしゃがんで、静かに祭りを見ていた。
フェルナンドが銀貨を持っていて、ミゲルははじめて屋台に行き、皆でアサード(串焼き肉)を買って食べた。家の料理人が作る料理よりもスパイスがきいていて、ミゲルはその味をとても気に入った。
広場の真ん中に行くと、メスティーソらしい褐色の肌に黒く長い髪の娘たちが、フリルの付いた赤いスカートを翻して踊っている。もっと小さな子供たちは、得意気な表情で、花びらと、レモンの香りのする水を、あたり一面に撒いていた。赤や白や黄色の花びらが、ミゲルの頭上にも降りそそいだ。
日が傾きかけた広場には、近隣から歌声自慢のガウチョたちが続々と集まってきていた。ガウチョたちは、白や赤のシャツに幅広のボンベーチャを履き、腰に巻いた太い革ベルトに短剣をさした昔堅気の衣装をまとい、フォルクローレの歌声を競いあっていた。
その日から、エリアスはいなくなった。
両親が四頭立ての馬車で、広場の教会の前に子供たちを迎えに来たとき、エリアスがどこにいるのか知る者はいなかった。両親はすぐに警察や召し使いたち、それから一族の者らを呼び寄せた。
赤い夕日が沈みつつある中を、数十人の男たちがカンテラを持って、人でごった返す祭りの広場から屋敷までの道を探しまわった。だが、誰ひとり、エリアスの姿を見つけることはできなかった。真っ暗になった広場に集まった人々が、ガレアーノの一族が裕福だということは、近隣の町にも知れわたっているのだから、エリアスは金目当てに誘拐されたのでは、と口にし始めた。泣きじゃくっていた母親は、それを聞いて卒倒した。父親は、もしそうならば、息子を取り戻すためなら、全財産を渡してもいいと思った。
しかし、、何日たっても脅迫状が届くことは無く、誰からも金の要求は無かった。町の警察は、もしかすると、家出の可能性もあるのでは、と考え始めた。なに不自由無く育った者であっても、ふと家を出たくなることだってあるのではないか?と。
警察は、汽車や馬車駅をはじめ、町の人々に、それこそひとりも残さず尋ねて歩いた。しかし、フェスタのパレードのあとに、トパーズのような青い目をした少年を見た、と名乗り出る者はいなかった。
父親や一族の者、警察官、町の人々、エリアスに子供に親切にしてもらった親たち、教師、皆がどんなに探しても、淡い金色の髪のひとすじも見つける事はできなかった。
弟のミゲルも、兄の姿を探し続けた。学校が終わると、兄から貰った自転車で近くの丘や空き家を、週末になると隣町まで走りまわった。母親が痩せこけていくミゲルの姿を見て、埃で薄汚れたシャツとズボンを着たまま抱きしめた。
「あなたにまで何かあったら、もうマードレは、明日まで生きてはいられないのよ」
父親は国中の新聞に広告を出し、人を雇い、息子の行方を探した。母親はインディオの占い師を呼び寄せ、息子の居場所を占わせた。しかし結果は、はかばかしくなかった。雇った男達は国中を探したが何の成果も得られず、占い祖の老婆は、「エリアス坊っちゃんは、どこか遠い場所にいます」と、曖昧なことしか言わなかった。母親は別の占い師を探してきたが、願いが叶うことは無かった。
一年が経った。エリアスはまだ見つかってはいなかった。季節は夏になり、またフェスタの日が巡ってきた。しかし、ガレアーノ家にフェスタに参加する気力は無かった。母親はエリアスがいなくなって以来、家に閉じ籠り、聖母マリアに毎日祈りを捧げていた。
しかし父親は、フェスタの日が近づくと、男を何人も雇った。フェスタが始まると、その男達を連れて広場に出かけた。
あの日、フェスタを見に遠くからも大勢の人々が集まっていた。その人々が、また今年も祭りに参加しに来るだろう。その中に、エリアスの姿を見た者がいるかもしれない、そう考えたのだ。
はたして、男のひとりが、30キロ余り離れたところに住んでいるというインディオの女を連れてきた。女は、色鮮やかだが、古びてほつれた民族衣装を着ていた。パンパの北にある小さな貧しい村に住み、たまに妹が住んでいるこの町に、フェスタを見物がてらに訊ねてくるのだと言った。
「へぇ、確かに、去年のフェスタの最後の日の日曜日に、青い衣装を着た金髪の坊っちゃんが、広場の教会の裏にいるのを見ましたよ」
女は痩せこけた褐色の腕を振って、それ以上を思い出すためには、何か食べさせて欲しい、と願い出た。父親はその女を家に連れてきた。
晩餐会用の食卓に女を座らせ、その向かいに両親とミゲルが座った。料理人がテーブルいっぱいの料理を運んできて、女の周りには給仕召し使いが立ち、壁際には雇われた男達が並んだ。
「へぇ、その坊っちゃんは1人じゃありませんでしたよ。坊っちゃんの前には男がいましたんで。あれはインディオですよ、旦那樣。いいえ、見覚えの無い男です。あたしと同じグアラニー族の人間じゃあありません。衣装が違うんです。ケランデイ族でもない。なんだか変わった衣装を着ていました。あれはたぶん、ここいらあたりじゃあなく、もっと高地にいる部族でしょうよ。杖を持っていましたから。もしかしたら、アルゼンチンじゃなくて、別の国のインディオかもしれませんよ。さぁ、歳はわからないですけど、そんなに若くはなかったです。日焼けして、鷲鼻でね。そいつは坊っちゃんの前にひざまづいて、何か言っている様子でしたよ。いんや、脅しているとか、物乞いしている様子じゃなかった。何か、メッセージでも伝えているみたいな感じでしたね。坊っちゃんに怖がっている様子は無かったですよ。ごく穏やかな顔をしていました。だから、あたしは、その男はあの坊っちゃんの知り合いなのかと思ったんです。あたしが見たのはこれだけです。フェスタ見物に行く前に、妹の家に行かなきゃいけなかったですからね」
その男の子の特徴は覚えているかね、と父親が震える声でインディオの女に尋ねた。女は周りを囲む男達の視線に気が付き、少し怯えた様子になって言った。
「へぇ、髪は大陽の光みたいな金色で、何より、あの目ですよ。目が、山の上の湖に光が射したみたいな青色で、あんな目の色は見たことがありません。マリア樣の使いの天使が、天から降りてきたのかと思ったぐらいです。だからあたしゃ、急いでいたのに、ぱっと目がそっちにいっちまったんです」
翌日から、父親はアルゼンチン以外の、インディオが住む南米中の高地に男達を行かせた。中には危険な内陸やアンデスへの旅を嫌がって、旅の費用だけ受け取って逃げてしまう者もいた。父親は、また新聞に広告を出しては新しい男を雇った。莫大な費用がかかった。両親は別荘を売って、牛も羊も牧場も売って、費用をまかなった。しかし、何年たっても、エリアスの行方は、まったく、気配さえ掴むことは無かった。
ミゲルが兄のいなくなった年齢を越えた頃、母親が亡くなった。ミゲルは母親の死の間際の言葉を固く守り、勉学に励んだ。ブエノスアイレス大学へ進み、父親が亡くなったあとに父の貿易会社を継いだ。ミゲルは必死で経営を学び、死物狂いで働いた。兄を探す費用を稼ぎ続けなければならないし、兄が戻ってきた時のために、屋敷を手放すわけにはいかない。
貿易会社は少しづつ大きくなり、父の代の頃よりも利益を出した。ミゲルは牧場を買い戻し、農牧協会の協会員になった。
週末になると、どこまでも続くパンパを馬で駆け、周辺の村々を巡った。強烈な日射しが降りそそぐ日にも、黄色い草原の彼方でゆらめく蜃気楼に、じっと目を凝らした。ミゲルは兄を探し続けた。
ミゲルが30歳になったある日、ふと、十数年ぶりに兄の部屋に入ってみた。兄の部屋は、いなくなった時のままにしてあった。天体望遠鏡も、勉強道具も、服も、なにもかも。
兄のベッドに腰掛けたとき、疲れが溜まっていたのか、急に眠気が襲ってきた。そのまま兄のベッドで横になって眠り込んだ。それからミゲルは、夢をみた。
夢の中は、明け方なのか、夕方なのか、あたりは薄暗かった。それがだんだんと明るくなって、あたりは白い霧、霧なのか雲なのか、白い靄に包まれた。
靄の中に兄がいた。兄はいなくなった時のまま、12歳の頃のままの姿だった。淡い金色の髪に、あの透き通った青い目。
しかし、着ているのは見たことが無い服だった。両親があつらえてくれた、きらびやかな衣装でも、シルクのシャツや襟の付いた上着でもない。インディオの衣装なのか、アラビアの遊牧民の衣装なのか、アジアの山岳民族の衣装なのか、よくわからない、布を体に巻き付けたような、奇妙な、旅人のような格好をして座っていた。頭にも、ゆるく布を巻いている。
ミゲルはしばらく声も出なかった。
兄は、昔と変わらない顔で微笑んでいた。
「エリアス兄さん、どこにいたんだよ」
ミゲルは必死で声を絞り出した。
「兄さん、こんなところで何をしているんだ」
兄は弟のほうを、あの穏やかな目で見ながら、ゆっくりと言った。
「待っているんだ」
懐かしいエリアスの声だった。柔らかな、あの声だった。
ミゲルは手を伸ばし、兄の奇妙な衣装を掴もうとした。しかし、兄に近寄ることができない。伸ばしたはずの指はエリアスには届かず、空を掴むだけだった。
「何を待っているって?兄さん、誰を待っているの?」
「僕にもわからない。でも、それが来たら、行かなければならないんだ」
「エリアス兄さん、兄さんはまだ子供だ。どこにも行く必要は無いんだ」
兄は穏やかに微笑んでいる。
「決まっていることなんだ」
いつの間にか、兄は立ち上がっていた。
「エリアス兄さん!」
ミゲルは、なおも兄の衣装を掴もうと、死物狂いで手を伸ばし、叫んだ。
「エリアス兄さん、行かないで!行かないで!行かないで!行かないで!行かないで・・・・・・・・」
あたりはまた薄暗くなり、そして夕闇に包まれるように、急速に暗くなった。
12歳の兄の姿は消えていた。
目が覚めたとき、兄のベッドの上で、ミゲルは歯を食いしばって泣いていた。
黎明の微かな光が部屋に射し込み、あたりは静寂に包まれていた。
ミゲルは、二度と戻らない兄を想って、声をあげて泣いた。
2016.8.1