9.六日目(夕方)
*六日目(夕方)*
「――星太っ」
星太が翼と千鶴と水鉄砲で遊んでいると、翔太が走ってきた。
「しょうた。どうしたの?」
「ちょっと」
ぐいと腕を掴まれたかと思うと、翔太は何処かへ向かい始めた。
「え、なに、どこ行くの」
「――っ、じゃあ、ちょっとあっちで星太とキャッチボールしてくるから!」
「キャッチボール……?」
「わ、わたしちづるちゃん達と遊んでるね!」
手を振られたちかがうなずいたのが見えたけれど、うつむきがちでよく表情は分からなかった。
状況は理解できていなかったが、翔太とキャッチボールをできるのがうれしくて、星太は引っ張られるがまま神社の境内を離れた。
翔太が連れて来たのは、神社のかなり裏にある、広めの空き地だった。遮るものがなく、しずみかけた西日が紫と橙の筆で草を塗っていた。
「前、翼達と一緒に教えてもらった場所」
振り返ると、走るようにして来たからか、翔太は肩で息をし、座り込んで空を仰いでいた。
「どこかおもしろいところないのかーって……うわあ、やる前からこんなんじゃだめだな」
翔太はふーっと息を吐き出した。
ここの、草を掻き分けて歩く時の音が、星太は好きだった。その音を聞きながら端まで行き、隣に座る。
「ちかさんと何かあった?」
「っ、そうだ……! 星太どうしよう僕もうどうすればいいのかさっぱり……! ああいう空気になっちゃったらどうすればいいの!? 冗談でも言ってごまかせばいいのか!?」
「つまり、いい雰囲気になったのに告白もできずに逃げてきちゃったんだ」
「な、別にこ、告白とかそういう……」
両手の中に顔をうずめてうわああとか言っている。じゃあちかさんもおんなじような感じだったんだろうな、と星太は思った。
それにしても、小学四年生相手に恋愛相談のようなことをするのってどうなんだろうか。よっぽど恋愛に疎いのか。この調子では、ちかを誘った最初から、下心みたいなものなんてこれっぽっちもなかったのだろう。
「……それに、祭りが終わっちゃったらどうしようもないし」
「え?」
星太が聞き返そうとした時、翔太がいきなり立ち上がった。
「とりあえず! やらない?」
グローブをひらひらと振って、もう一つを星太に放る。真新しく少し小さめのそれをはめ、感触を確かめた。
出店のおもちゃ屋で買ったんだ、と翔太が言った。距離をとるため向こう側へ歩きながら、ボールを軽く放ってはキャッチするのを繰り返していた。
久しぶりだと思いながら星太は少し腕を回した。だいぶ離れた位置で立ち止まった翔太が、大声で言う。
「実は僕、あんまりキャッチボールってやったことないんだ。だから、楽しみにしてたんだよね」
オレンジ色に染まった笑顔を見た時、胸がぐっとつまる思いがした。こっちも負けないぐらい楽しみにしてたんだと、馬鹿みたいに張り合いたくなるような気がした。
でもそれを伝えるには距離が遠すぎたし、照れて上手く言えなさそうだったので、代わりに大きく手を振った。
「来い、しょうた!」
翔太が構える。星太はもう何度目かになるキャッチャーの姿勢をとりながら、胸の高鳴りは押さえられずにいた。
投げる。しっかりと受け止める体勢を作る。ボールが、届く。既に派手に擦り切れた安物のグローブの中に、小気味よい音を立ててボールがおさまった。衝撃で、ぐらりと体が後ろに傾く。
翔太が片足を地面に下ろすと、草がかさりと鳴った。と思うと、膝に手を当てて再びぜいぜい言い出した。
「うわ、だめだ……体力のなさが露呈する……」
「どこが低学年レベルなんだよ! 上手いよ!」
星太はまた何度目になるか分からない台詞を言って、翔太に駆け寄った。
まずは軽いキャッチボールから。そう言って始めたのだが、翔太本人が下手だと言う割には普通にできたので、ピッチングをやろうと提案したのだった。最初は星太が投げていたが、途中から翔太にもやれと強要し、仕方なく彼が投げ始め――
上手かった。今まで野球部に所属していなかったのが信じられないほどだった。小学校低学年レベルだなんて、野球そのものに失礼というものだ。
「せ……星太こそ、フォーム綺麗だし球速いよ……げほ……さ、さすがお父さん仕込みだね……」
「しょうた、なんで野球部入らないの? 絶対エースとれるよ!」
「……無理だよ」
「そんなことない! 体力さえなんとかすれば、確実にレギュラー入りだよ」
「……星太はさ、人のこと、よく見てるよね」
突然変わった話題についていけず、星太は握った両こぶしに興奮の名残を残したまま翔太を見た。
翔太はその場に腰を下ろして、星太を見返した。
「星太みたいな奴が友達にいたら……部活とか……やってたかもなあ。今星太と同じ学校で友達やってる奴がうらやましいよ」
「――いないよ」
つい言葉がこぼれた。
「おれ、今の学校に友達いないよ」
ふと、母親の顔が浮かんだ。あのね、星太――
「……学校で暴れでもしたの?」
翔太が穏やかな声で問いかけた。言っていることは冗談でも、口調は優しかった。話を聞かせて、相談に乗るからと、言われているようだった。
下を向き、ゆっくりと、ボールを握る。
「転校生だからだよ」
別に、いじめられているとかそういうんじゃない。よくある話。でも当事者にとっては、それでは済まされない話。
何がということはなかった。ただ自分たちとは少し違うというだけで、後からやって来た異分子というだけで、話題が違ったり遊びを知らなかったりするだけで。
「都会人って言われて、避けられる」
……特別な事は、何一つしていないというのに。
どうすればいいのか分からなかった。結局何をしたって、何を言ったって変わらない。せめて何もしない方が、何も言わない方がと思って、更に殻は厚くなる。前の学校の友達を思って、余計に心が冷たくなる。
――きっかけが、あっただけだった。
一人で迎えた夏休みのある日、母親の買い物を手伝った帰り道のことだった。大きな車が停まった家の前を通りすがった。たまにだけ通る道にある普通の一軒家に、母が目を留めた。
そしてこう言った。「まーくん、帰ってきてるんだ」
次の瞬間、家の中から人が出てきた。高校生ぐらいの少年と、自分より年下のような男の子と女の子。その父親らしき人。車から荷物を下ろす彼らを、二人で見ていた。母が言った。「あのね、星太。大事な友達が、ここにいるのよ」
それだけだった。きっかけは、それだけだった。
なんとなく気になっていた。小学校の祭りに行くのは気まずくて、ふらりと出かけた神社の祭りで、三人を見かけた。話しかけようとか考えていた訳じゃない。ただ、母さんが大事な友達だと言った人の子供を、なんとなく見ていたかっただけだった。
翔太が声をかけてくれるまでは。
「……小学校の時、僕も友達いなかったよ」
小さな声に、星太は顔を上げた。翔太がグローブをもてあそんでいた。
「……嘘だ。だってしょうたは……」
「勉強、ばっかりしてたからね、僕」
翔太が顔をゆがめて笑う。星太の知らない何かでもって自分を笑っている。嘲っている。
「相手にされなくて当然、っていえばそうなんだけど。多分みんな、どう扱っていいか分からなかったんじゃないかな」
彼の目が、どこか遠くを見つめていた。星太には分からないどこかを。星太は、両足に力をこめて立っていることしかできなかった。
「でも、中学に入って、学年が変わって、クラス替えをしていくうちに、僕のことを分かってくれる奴もでてきた。一緒に外行こうって、誘ってくれる奴も」
決して近いとは言えない距離で、翔太は星太に語りかけた。ある程度大きな声のはずなのに、水を染みこませていくように、穏やかに響く声だった。
翔太が、星太をまっすぐに見る。
「焦るのは、だめだよ」
踏みしめた足が、少しぐらついた。
諦めたはずだった。急いているつもりはなかった。それでも、焦るという言葉にとりつかれているような自分がいた。
星太は手を強く握り締めてみたが、すぐにへなへなと力が抜けるのが自分でも分かった。
「焦れば焦るだけ、傷つくのは自分だから。……大丈夫。今はどうしていいか分からなくても、辛いだけでも、時間がどうにかしてくれる」
目の奥を突く熱さを、唇を噛んでこらえる。同時に、いつも体の真ん中を通っていたような無機質で鋭い棒が、全てぐにゃりと曲がった気がした。
なんだ、それだけだったんだ。
いつか大丈夫になる、って、自分じゃない声で、聞きたかっただけなんだ。
「僕を信じてよ、星太」
うなずく。ゆっくりと。
改めて実感する。翔太は、自分がまだ知らない六年を生きてきたのだ。自分がまだ生まれていなかった頃から、この世界を踏みしめて息を吸ってきた。当たり前のことが、ひどく大きな差に思える。
憧れや目標なんて大それたものではない。そう位置づけるには、まだ自分は経験が浅すぎる。だから、ただ漠然と、最初に声をかけてくれた日の重みを意識した。
「まあ、僕だって焦りやすい人間だし、人に言われたからってすぐに落ち着くこともできないけど」
声のトーンが少し軽くなり、翔太はグローブを開いたり閉じたりを繰り返していた。
星太は、先ほどの翔太の慌てぶりを思い出した。――ありがとうなどという言葉で締めくくるほどの素直さや大胆さはなかったので、いつものようにからかうことを代わりとした。
「恋愛オンチ」
「……小学四年生に言われてるのに言い返せない僕って……」
ため息をついてから、苦笑する。橙は薄い藍色に溶かされて、空の端に名残を置き去りにしているばかりだった。もうちょっとだけ、やっていこう。そう言って、翔太はグローブを手に立ち上がった。