3.現在(一日目) 下
あいつらの胃はブラックホールも飲み込めるぐらいだから、と言ったのは翔太だが、確かにそうだと星太は思った。
水風船をやった後、星太は「じゅんばん守れないのはいい大人じゃない」というルールに従ってりんご飴を選び、翼も千鶴も平然と一本たいらげた。今度は翔太も買っていたが、次の二件、二人がたこ焼きとチョコバナナにかぶりついていても、まだ食べ終わっていなかった。翔太が持つべき胃の容量を、後に生まれたはずの二人がほとんど持っていってしまっているように思えた。
翼と千鶴が旺盛なのは食欲だけでなく、好奇心も人一倍だった。自分も少し前はこんな具合だったのかもしれないが、それにしたって二人の勢いはすごかった。この町に住んでいると言ったら、目を輝かせて質問攻めの威力を上げた。
あそこには何があるの、あの辺にはどうやって行くの、おもしろい場所とか不思議な噂とか、ない?
何をするにつけても翔太が一番の二人だったが、その次にはちゃんと星太を振り返ってくれる。話しかけてくれる。
おかげで、最初は尾行のようなことをしていた後ろめたさもあったが、すぐに気楽に話せるようになった。だからこそ、翔太は止めたがそうやって質問攻めにされるのも全く嫌ではなかった(翔太と何処で友達になったのかと聞かれた時は、彼が嘘八百の出会いをまことしやかに話してくれた)。
三人は、親の帰省で祖父の家に来ているのだと言った。
さらに祭りの会場である神社の境内をのんびりと歩き、休むのによさそうなベンチがあったので、四人並んで腰掛けてラムネを飲んだ。星太の頬の奥がびりびりとなったのは、炭酸のせいだけではなく、こうやって誰かと一緒に遊ぶ楽しさを噛み締めたせいかもしれなかった。
一気に飲み終え中のビー玉を取り出そうと試行錯誤する翼と千鶴を横目に、星太は翔太をつついた。
「ん?」
「――あの人、さっきからしょうたのこと気にしてるみたいだけど」
星太の目線を追って翔太が顔を向ける。斜向かいの露店の前に集まる、四人の女の子。高校生と思しき浴衣姿の彼女達の中で一人、控えめにちらちらとこちらを伺っている人がいた。翔太と目が合って、恥ずかしそうにぱっとそらしてしまう。あ、と翔太が声を上げた。
「しょーちゃんどしたのー?」
翔太の膝の上に乗っかる千鶴の向こうで、翼が二人の見ている方に気がついた。
「あ、こないだの人じゃん」
「この間?」
間の翔太と千鶴の陰から顔を出し、星太はたずねた。
「うん。おれとちーが迷子になった時、助けてくれた人だ」
相変わらず、翔太は固まって目をぱちくりさせている。やれやれと、翼が大人ぶって肩をすくめた。
「しょーぐん、ナンパしてこいよ」
「え……は?」
「高校生にもなって女っ気がないのもねえ。かおだってわるくないんだからって、かーさん言ってた」
「え、いや、別に僕はそんな……」
「でも、気になるんでしょ?」
思わず口をはさむと、びっくりしたように翔太がこちらを向いた。その顔は傍目に見て分かるほど赤くなっていて、見ている星太の方が恥ずかしくなるぐらいだった。
「むこうだって話したそうにしてるし、誘ってこればいいじゃん」
「……でも」
「ブライトキーック!」
アニメか何かの技なのか、翼が翔太の背中を思いっきり蹴った。予想以上に威力があったようで、翔太はベンチからずり落ちそうになり、背中を押さえて痛みに耐えていたが、まだ決心がつかないのかおずおずと星太の方を見た。はやく、と腕を押しやると、やがて観念したように立ち上がって歩いていった。
「ナーイス、せーた!」
千鶴を翔太のいた位置に押し込み、つめた翼がハイタッチを要求してきた。小気味よい音と共に手を合わせた後、翼は水風船をつき始めた。
「しょーぐん、めちゃくちゃ頭いいんだぜ。しろやまみなみ、ってゆー、すっごい学校行ってて」
白山南なら、星太でも知っているこの地方で一番の超進学校だ。
「なんでもできるのに、たまにぶきよーなんだよ。ほら、さっきの水ふうせんとか」
確かに、小さい子供が二つ三つ吊り上げる中、翔太は明らかに要領を得ていない様子で、一個目すらろくにとれていなかった。
「だから、ちーたちがめんどうみてあげなきゃいけないの」
それまでずっと黙りこくっていた千鶴が小さく言った。彼女は頬を膨らませ、いかにも不満げだった。
「ちー」
「わかってるもん。ちーはあんまりあのひとすきじゃないけど、しょーちゃんがたのしいならいいんだもん」
そうか、と思って、星太はつい千鶴の頭をぽんぽんと撫でた。ヤキモチを焼いているんだ。クラスメートの女子が騒ぐ「コイバナ」よりもずっと、この子の方が一生懸命で本気に思えた。
翼は水風船で遊ぶのをやめた。緑の球体の上を流れる模様を凝視して、唇を噛む。
「なのに、しょーぐんがんばってるのに……今日だって、やっと……」
「つばさ?」
顔を覗き込もうとした時だった。
「あの……えっと」
翔太の声がして三人は一斉に顔を上げた。少し緊張気味の翔太の後ろに、同じように肩の力が抜けていない少女が立っていた。
先ほどまでの「お兄ちゃん」然とした鷹揚さは、今はたたんでジーパンのポケットにでも入れているのかもしれないな、と星太は思った。
「この人も一緒に……回ってもいいかな。ええと」
「な、七里ちかです。ごめんね、せっかくのところに割り込んじゃって」
「おい」
翼がベンチから飛び降りて、ずかずかとちかの前まで歩み出た。
「しょーぐんのこと、いじめたりしないよな」
「しょーぐん?」
「あ、それ僕のあだ名。いつからかそうなってた」
翔太が苦笑し、ちかは一瞬きょとんとした後でふわりと笑った。
「似合わない感じがいいね。うん、いじめたりしないよ」
「ならよし! オレ翼。……にあわないってさ、しょーぐん」
困ったように笑う翔太。星太は自分も自己紹介して、千鶴の方を振り返った。
「ちーちゃん」
「……ちー」
翼と一緒に呼んでみても、彼女はうつむいて両手を握りしめたままだ。千鶴の心情も理解できる星太としては、どうにも動きづらいところだった。すると、横を誰かが通り過ぎた。
「千鶴。……よいしょ、っと」
「!? しょーちゃんっ」
ベンチの前にしゃがみ込んだ翔太が、そのまま千鶴を肩車した。千鶴は最初びっくりしていたものの、すぐにきゃあきゃあと嬉しそうに騒ぎ始めた。
「ちょっと重くなったね、千鶴」
「おんなのこにはやさしくしなきゃいけないって、しょーちゃんゆった」
「あれ? ほめ言葉のつもりだったんだけど」
千鶴の小さい手に髪をぎゅっと引っ張られた何ともおかしな頭のまま、翔太はちかの隣にもどってきた。千鶴ははっとしたようにまた下を向くが、ちかは微笑んだまま少し腰を折って千鶴を見上げた。
「わたしの友達にもね、ちづるちゃんっているんだ。でも、その子はもうこうやって肩車してもらえないかなあ」
ぱっと千鶴が顔を上げた。
「そうなの! ちーだけなんだよ、しょーちゃんにかたぐるましてもらえるの!」
嬉しそうにちかに話す。どうやらもう心配はなさそうだ。大人ってすごい、と星太は感心した。
「翼も乗る?」
「いい。だってしょーぐん、バランスわるくて怖いんだもん」
「じゃあ、星太は?」
「え?」
自分に話題がふられると思っていなかったので、心底驚いた。ぼんやりと、そう言って笑う翔太の上の千鶴を見て、自分の身長を考えて、ようやく言われていることが理解できた。慌てて手を振る。
「いい、いい! そんなとこから落っこちたらシャレになんないし」
「男の子たちはひどいなあ。そんなに僕のバランス感覚疑わなくても」
「ちづるちゃん、そこ怖い?」
「んー、ちょっとぐらぐらするけどそれがたのしい!」
「そう言ってるよ?」
「千鶴まで……」
がっくりと落ち込みながらも、それならばと翔太は軽く跳ねたりした。千鶴は悲鳴なのか笑い声なのか分からない声を上げる。翼も翔太を揺すったりして、一方のちかは千鶴が落ちないかとはらはらしつつも、笑っていた。
星太はそんなやりとりを見ながら、一瞬でも問われたことを考えてしまったことを恥ずかしく思っていた。小四にもなって誰かに肩車なんて。組体操じゃあるまいし。
でも。
最初はためらっていたが、思い切って翔太のそばに行って、翼の反対側から翔太を押した。
「あー! せーちゃんがつーちゃんのみかたしたー」
「ちづるちゃん、絶対に手放しちゃだめだよ!」
「ちょっと待って待って! これ以上揺らされると本気で千鶴が危ないっていうか髪が、いたたた」
「ちー、しょーぐんの髪ひっこぬくなよー」
「星太はこういうとき止めてくれる子だと思ってたんだけどっていたいいたいっ」
四つの目がこちらを向いた。妙に久しぶりだ。好奇でも線引きでも哀れみでもない、ただ自分の答えを待ってくれる目。
でも、やっぱり。
「……おれ、けっこういたずら好きだよ」
こうやって輪の中に入れてもらえることが、無性に嬉しかった。
路にうねる人の波の形が変わってきた。
祭りのクライマックスである花火のために、または売り切ってしまったために、多くの店が閉まり始める。観賞に適した場所がないので、人々は出店の連なる路で見る。明かりを落とす露店もあった。
星太の少し前を、翔太とちかが歩いている。手を繋ぐ訳ではないけれど、どうでもいい話をどうでもよく話せるような余裕はなさそうな距離感。ぽつりぽつりと話し声。ちかが時折翔太を見上げる。緊張に満ちた足取り。一言話すごと、一歩進むごと、二人がお互いの心の距離を測っているのが分かる。
あんないい雰囲気なら、さっさとくっついてしまえばいいのに、と星太は思った。
「せぇーちゃああん。つーちゃんがちーのこといじめるー!」
「だってさ、せーた。ぜったいあの二人くっつくだろー? それをちーがおかしいって言うから」
「ちーちゃんはちかさんのこと好きになったんじゃなかったの?」
「ちかちゃんはいいひとだけど、しょーちゃんがけっこんするのはちーなのー」
「いや結婚までいってるわけじゃ……」
「だって、しょーぐんがあそべんの今日だけじゃん。ちかさんとはもう会えなくなっちゃうんだから、まつりが終わるまでにくっつかなきゃだめじゃん」
はっとした。
立ち止まった星太を、言い争いを続ける翼と千鶴が両側から追い抜いていく。
なんだろう、これ。
目の前に四人がいる。遠ざかっていく。つばさとちーちゃんとちかさんと――しょうた。
誘ってくれた。自分たちの後をこそこそ追っていたような星太に、一緒に遊ぼうと言ってくれた。
輪に入れてくれた。
人々の騒ぎに、酔うような気分だった。くらりくらりと、色が、音が、星太の上で旋回する。世界に、置いていかれる。
「あれ? せーちゃんは?」
みんなで出店を回って、同じものを食べて、同じ路を並んで歩いて話して。
でも。
「せーたあ? あ、いた!」
でもそれだって、ずっと続く訳じゃないんだ。
ずっと、一緒に遊べる訳じゃないんだ。
「……祭り、終わらなければいいのに」
すぐ目の前まで、翼と千鶴が戻ってきたのが分かった。千鶴が顔を覗き込んでくる。
「祭りが、ずっと続けばいいのに」
遠くで声がする。翔太が呼んでいる。ちかの下駄が速いペースで響く音がする。涙が滲みそうになる。
戻ってきて、くれるんだ。おれのために。
「そうだよな!」
耳に飛び込んできた明るい声に、星太は目を見開いた。
「まつり、ずーっとつづけばいいのにな!」
「うん! そしたら、またみんなであそべるね」
顔を上げる。眩しかった。一発目の花火が上がった。二人の顔は逆光であるはずなのに、眩しかった。自分は、こんな顔で笑ったことがあるだろうか。
「ちゃんとついてくって言ったから後ろ歩かせたのに……って、星太? どうした? 具合悪いの?」
「な、しょーぐん、ちかさん!」
「ん?」「え?」
「まつり、ずっとつづいてたらいいよな!」
何故だか彼らの答えを聞くのに臆した。二人を振り仰ぐ翼の後頭部をじっと見つめることしかできなかった。
「うん」
翔太が一歩前に出て、頭をくしゃっとかき混ぜてくれた。
「ずっと、終わらなければいいのにね」
打ち上げを合図に、星太は上を向いた。
翔太は微笑んでいた。けれどそれは翼や千鶴のように眩しくはなく、きちんと影のある顔だった。でも、笑っていた。
どうして――そんな風に笑うの? 祭りはもうすぐ、終わってしまうのに。
また花火が上がる。翔太の髪の先が、様々な色を透かす。カラン、と音がした。
「時間、とまっちゃえばいいのにね」
ちかが言った。ちょっと悲しそうな笑顔だった。
翔太が空を見上げる。翼がはしゃいでいる。千鶴の瞳の中にたくさんの光が弾ける。
星太も、光が生まれては消えていく黒い幕を見上げた。
心の底から願う。
祭りが、ずっと続けばいい。