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1.「現在」

 情けない顔だったと思う。

 小さな手を握り締めて、べそべそ泣きながら、それでも、言いたかった言葉がある。



  *「現在」*


「それじゃ、いってくるねぇ」

「しゃてき終わっちゃうだろー。早く行こーぜー!」

「あ、うん。……十時までには帰るから」

「はい、いってらっしゃい」

 息子たちを送り出して、俺は一つ息をついた。

 コップの半分程まで氷を入れ、麦茶を勢いよく注ぐ。飛び散った水滴をふいたふきんを台所に持っていくと、昼に食べたまま放りっぱなしの冷麦の袋が目に入った(男が作れる夏の昼飯といったら、これぐらいしかない)。それを片付けてから、コップを持って縁側に行った。

 庭に置いたサンダルの上に足を下ろし、一口飲む。八月の暑さから生き返ったような心地の裏、冷たい痛みが歯を刺激した。

 嫌だな、噂に聞く知覚過敏だろうか。虫歯だったら困るし、妻にうるさく言われる前に、帰ったらすぐ歯医者の予約を入れよう。

「こんにちは」

 仕事との兼ね合いを考えていた時、声が聞こえてきた。顔を上げると、門の向こう側に女性が立っていた。俺は腰を浮かせた。

「すみません、インターホン気付かなかったみたいで……ああ、父なら今少し出かけ」

「驚いた」

 彼女は言葉を遮り、門を開けた。

「全然変わってないのね。……私よ。あの夏祭り以来、かしらね」

 俺はその姿に目を見開いた。



「好みまで完璧。麦茶じゃなくて薄めの緑茶ね。わざわざ煎れてくれたの?」

 彼女の横にグラスを置き、少し離れて座る。心の距離とは、よく言ったもんだ。

「たまたま、冷蔵庫にあったんだ」

 嘘を吐く。茶の好みを覚えていたのが気まずい。そして普通に出してしまった自分が情けない。

「驚いた」

 彼女は繰り返した。

「俺も驚いたよ」

 ため息まじりに返すと、くすりと優雅に笑う。

「私のことなんか、とっくに忘れてると思ったのに」

「忘れるわけない。……君のしたことを忘れることなんか、できない」

 気持ち睨むように彼女を見たが、彼女はグラスの縁を何とはなしに撫でるばかりでこちらを見ようともしなかった。

 そう年は違わなかったはずだが、彼女は異常なほど若く見えた。それが昔の出来事を暗示しているようで、思わずぞっとした。

「そんな警戒しないで。私はもう何もしないわよ」

 はっとして視線を彼女の顔から引き剥がす。

「帰省してきてるって聞いてね、ちょっと世間話でもしに来ただけだから」

 ぱた、とグラスの汗が床に落ちた。

 世間話。もう三十年ほど前の話、たった「一夏」を一緒に過ごしただけ。しかもあんな別れ方をした二人の間に、どんな話があるというのだろう。

 ぱた、ぱた。続けて何滴もこぼれ落ちる。

「なあ――」

 電話が鳴った。一言断って、小走りで中に上がる。彼女の視線を背中に感じた。

 相手は親父の友人で、町内会についての言伝をたまわった。謝りながら縁側に戻ると、彼女が微笑んで待っていた。

「ごちそうさま」

 グラスは空になっていた。

「そろそろ帰るわ。久々に会えて楽しかった」

「あ、ああ」

 なんだか拍子抜けした。いきなり現れていきなり帰る。そのつかみどころのなさがまた、悲しいような切ないような。

 だが、彼女には俺を訪れたもっと確固とした理由があるように見えた。つまらない取り繕いの裏にある、その真意を晒さずに彼女は帰ってしまうのだろうか――……

 また電話が鳴った。

 親父め、やたらあっちこっち首つっこみやがって。後ろ髪ひかれるような妙な気持ちを断ち切って彼女に挨拶する。じゃあ、みたいな。「また」は、ない。きっと。ああ、こちらもずいぶんと淡泊な別れの言葉だ。

「――私ね」

 畳を踏んだ時、小さな声が聞こえた気がした。いや、あくまで気がしただけで、きっとそれは空耳で――そう、思いたがっている自分がいた。

 どうして。俺は、これを聞きたかったんじゃないのか。なのに、同じ言葉がうるさいほど頭の中で爆ぜる。

 聞いてはいけない、続きを。

「私ね、子供がいるの」

 足を止める。

 俺にだって子供がいるのだから、彼女にもいたって何ら不思議はないはずなのに、胸を圧迫するような違和感。

 これ以上、聞いては、

「……遺伝、って、どれくらいのものまでするのかしらね」

 ざああと風が吹く。庭の木や植え込みを揺らす。涼しいはずの風は、ただ背中にかいた汗を冷やすだけで。電話は鳴り続けている。

 遺伝。親の髪質とか、目の形とか、肌の色とか、仕草とか、考え方とか、頭脳や身体の能力とか。

 能力。

 はっとして振り返った。彼女は庭に立って、笑みを浮かべていた。それはとても美しく……寒気を覚えるほどだった。

 電話が鳴りやんだ。

『……ピーという発信音の後にメッセージをどうぞ』

「まさ、か……」

『――あー、もしもしノリさん? 池谷です。この前の山登りなんだけどさぁ――』

「今、夏祭りに行ってるの。……楽しんでると、いいんだけど」


 ――じゃあ、ずーっとお祭りしよっか。そしたら、お別れしなくていいもんね!


 彼女の意図するところが分かって、全身に戦慄とでも言うべき震えが走った。縁側のスリッパに足を突っ込む。彼女を置き去りにして庭を横切り、門を乱暴に開けた。

 はやく、早くしないと、あいつらが。

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