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プロローグ

 昔、友人である絵描きに言われた言葉がある。手品師のようなハットと、なんだか不吉そうなステッキをいつも持っているやつだった。

「きみ、芸術家が仕事なんてつまらないことをしてはいけないよ。そんなことに時間と魂をつぎ込むのなら、一枚でも多くの絵を描き、一曲でも多くの曲をつくり、一篇でも多くの詩を書くべきだ」

 僕の人生に於いて、この言葉ほど脳裏に刻まれた言葉は無い。翌日僕はさっそく仕事を辞めたし、鳴りやまない電話は解約し、様々な契約違反を告げる手紙から逃げるために引っ越しもした。本当のことを言うと、戸籍なんかも燃やしてしまいたかったのだけれど、そこまでは出来ない。つまり、そこまでが僕の領分。



 

 僕は残った金でまず、ギターを買った。これまで何本もの楽器を手にしてきたけれど、そのとき手にしたギターは格が違う。それは値段や産地、使っている木材といった表面的なことではない。僕にとって、この時手にしたフェンダーメキシコのストラトキャスターは、まさにブラッキーだった。


 


 僕が仕事を辞めて楽器を手にしたことを絵描きに伝えると、彼はすぐに僕の新居にやってきた。大きな川の近くにある、木造の、トイレも風呂も無いアパートだ。

 部屋の中は裸電球の黄色に照らされ、ノスタルジックに演出されている。もっとも、その演出は家主の意向に沿ってはいないけれど。

 真夏の暑い夜で、僕も彼もシャツを汗で張り付けていた。

「きみ、きみ。仕事を辞めたんだって? 英断だ。正解だ」

 彼はそう言うと、きれいに剃られた頭を撫でた。

「ずっと前からそうするべきだったんだ。仕事なんてあんなもの……ろくなものじゃない。朝の決まった時間に決まった場所に行かなければならないなんて、馬鹿げているよ。僕らは気が向いたら海に行き、気持ちが塞いだら山に行く自由を持っている。しかし仕事というのは、それをことごとく奪っていく」

 彼が持参した洋酒を注いだコップが二つ。それは生温く、喉を焼きながら身体の中に落ちていった。

「僕も清々した気分さ。でも、さしあたって問題が出てきた」

 僕がそう言うと、彼は立派にたくわえた髭を撫でた。

「なんだ、どうした? こんなにめでたいというのに、何の問題がある?」

「お金だよ。僕は貯金もないし、仕事もしていない。ここの家賃だってタダみたいなものだけれど、もちろんタダじゃない」

「金だと? そんなものに困るほうがどうかしている」

 僕が困惑の視線を送ると、彼は顔を上気させて身を乗り出した。

「いいか、金なんてのは人間がつくりだしたローカルルールだ。あんなもの、ただの紙切れじゃないか。それをみんな大事に追っかけている。僅かな賃金のために長時間働き、そのせいで自らの可能性を潰している。まったく愚かだ」

「しかし……金がなけりゃ何もできんぜ。雨風を防ぐこともできないし、僕は錆びたギターの弦を代えることもできやしない」

 彼はふふっと笑った。

「まあそう悲観的になるな。金は人間のローカルルールだと言っただろう? つまり、これはゲームなのだ。効率的に、時間や労力をかけずに金を稼ぐ。そして、残りの時間を自分の人生のために使う。これこそが、近代的な人間のあるべき姿だ」

「それは、どういう?」

「仕事を紹介しよう」

「え?」

「とても割の良い仕事だ。働くのはほんの数分。それで、きみは新品の弦でも機材でも、なんでも好きなものを買える」

「お前は、絵でそんなに稼いでいるのか?」

 僕がそう聞くと、彼は大げさにのけぞって大笑いした。

「わたしはきみのことが好きだが、時たまそうやって抜けた発言をするね。まあ、それもチャーミングなところだが。いいか、絵や音楽や芝居なんてものは、本来であれば商売に向かない。あんなもの、あっても腹の足しにもならないからな」

「そうだけれど……」

「しかし、心と人生の足しにはなる。いいか、我々は『芸術家』という会社に就職するのではない」

「それは何となくわかる。僕たち芸術家は、いわばひとりひとりが社長だ。平社員なんかじゃない。自分の作品を自分で売る、自営業だ」

 しかし、彼は大きく節くれだった指を二度、顔の前で振った。

「それも、少し違う。我々は『芸術家』という人生を全うするんだ」

「人生?」

「そうだ。金を目的にしていては、何もできない。そうだろう? 隣に住む主婦が何を欲しているのか、サラリーマンが好む夏場のスーツの素材は何か。それを考えて商品にするのが、商売だ。しかし我々はそんなことに興味があるか? そんなこと、今日の献立よりもどうでもいいことだ」

「どういうことだよ」

 僕は少々焦れていた。この友人は、とても頭が切れる代わりに、会話に要領を得ない。切れ味が良いけれど、持ち手部分が無いナイフのようなものなのだ。

「いいか、我々がすべきことは、頭の活動を止めてしまっている全ての人間に刺激を与えることだ。わたしたちの頭の中にある音や風景や言葉を具現化して、凡人に叩きつけてやるのさ。マーケティングなんぞ、する必要は無い」

「しかし……」

「画家が死体の絵を描きたいと思えば描けばいいし、音楽家が不協和音だけのコンサートをしてもいい。詩人が白紙の紙を書店に並べても良いのだ。問題は、それを目にした人間が何を思うのかだ。きっと、九割以上の人間はこう思うだろう、『頭がおかしい』とね。しかし、そいつは自分だけはマトモだと信じている。わたしからすれば、そのほうがよっぽどどうかしている。君は残りの一割というわけだ」

 そう言うと、彼はコップの酒を一気に飲み干した。

 彼の言う芸術論は大したものだと思うけれど、金が無い事にはなにもできない。今日のパンすら買えないし、明日の朝に飲むコーヒーすら用意できない。

「まぁ、心配するな」

 彼はにやりと口角を上げ、手品師のようなハットをかぶった。そしておもむろに立ち上がり、僕を見下ろしてこう言った。

「仕事を紹介すると言っただろう。誰でもできる仕事だが、誰にでも任せることはできない。きみだから任せるんだ」

 すっかり酔いが回ってぼうっとする僕は、口を動かすことができなかった。

「ところで……君は今いくつだったっけ?」と彼が聞いた。

「二十三だ。お前と同じだろ」と僕は答えた。

「そうだったな……それなら、良しだ」

「どうして?」

「この仕事は、合間の一服と終わりの一杯が格別だからさ」

 そう言い残して、彼は僕の安アパートから去っていった。


 数日後、郵便受けに小包が入っていた。消印も何も無い、直接投げ込まれたものだ。

 開けると、一通のメモと、見慣れない黒いものが入っていた。

『これからのきみの仕事道具、それは黒いギターと、この黒い銃だ』

 

 こうして、僕は殺し屋になった。

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