第二十五話:約束
エトナへの臨時試験が行われることになったため、教頭のモーランドが急きょ、院長の暮らす尖塔の広間へと呼ばれた。試験の補佐、それに公正に行われた試験であることを保証する役目もあるのだろう。
モーランドがガルーダに乗って尖塔に到着した時、ぼろのマントを身に着けた銀髪の男がちょうど下から階段を上がってくるところだった。
アスクは止まり木のひとつに腰を下ろすと、溜息混じりにこう呟いた。
「……ここの院長は、いつも生徒の保護者を部屋から叩きだすのか?」
「……公平な試験実施のため、受験生の他には、院長と教頭の私だけが入学試験の際の立会人として規則で決められていますので。試験が終わり次第お呼びしますから、ここで待っていてください。……それでも不服ならば、後で院長に伝えますが?」
「……冗談さ。あんた方の院長様はドラゴンの力も加わって、とんでもなく強そうだからな。苦情でも言ったら殺されそうだ──ま、俺は死なない体だけどな」
にやりと笑うアスクを見て、モーランドは巨人たちの話を思い出した。
(彼らから通管ベル機で知らせを受けた時は耳を疑いましたが……この男は本当に、院長と同じ力──ドラゴンの力を持っているようですね。そうでないと、院長が自らの“体質”のことを他人に漏らすはずがありませんもの……)
ガルーダの背から降りると、モーランドは颯爽とした足取りで階下の院長室へと向かった。その途中、アスクの横を通り過ぎる。
その一瞬、モーランドは男から何かを感じた──そう、尊敬する院長に似た気配を。
それを何故だか認めたくなくて、モーランドは階段を下りながら心の中でこう言ってやった。
(……院長と同じ力を持っているからといって、あなたが連れてきたあの少女に対して試験が甘くなると思ったら大間違いです!)
自信を持っていたモーランドだったが、院長室に入ってすぐに、その自信が粉々に砕けることになった。
「ジール院長、お待たせしました」
「突然、お呼びしてすみません。こちらはエトナ。今から彼女に臨時試験を実施することになりました。適格試験を行いますので、いつものように立ち会いをお願いします」
ジールの声には当然のような響きがあったが、モーランドは聞き逃さなかった。
(いきなり最終考査……ですか)
「……第一、第二考査の筆記と実技の試験は実施しないのですか?」
念のため、質問する。念には念を入れるのも立会人としての重要な役目だ。
ジールははっきりと答えた。
「実施しません。今回は特例です」
それを聞いた瞬間、モーランドの顔がショックで引き攣る。しかし、院長の手前、何事も無かったかのようにすぐに冷静さを取り戻した。
(特例……。院長が『特例』を許すなどこれまであっただろうか……?)
いや、モーランドの覚えている限りではない。ジールはいつでも公平を愛し、モーランドもそんな院長を敬っている。
院長が贔屓している──モーランドは院長にどこか異変を感じながらも、渋々、試験への立ち会いをすることにした。
ジールはゆっくりと寝椅子から立ち上がると、エトナのいる方──広間のちょうど真ん中あたりに歩み寄る。気怠そうな雰囲気が、ジールをより妖しく、美しく見せている。
「エトナよ、これから適格試験を始めます」
「はっ、はい!」
エトナは背筋を伸ばして、ジールの顔を見上げた。『試験』を受けるのは生まれて初めて──のような気がする──なので、エトナが緊張してしまうのも無理はない。
がちがちになっているエトナを見て、ジールは少しだけ声を柔らかくした。
「深呼吸をして、体の力を抜きなさい。あなたはそこに立っているだけでいいのですよ」
エトナは頷くと、何度か深呼吸をする。ようやく落ち着いてきたようだ、ジールの目を真っ直ぐ見られるまでになった。
その時、エトナは気付いた。長い睫毛──その髪と同じで金色だ──に縁どられた瞳の奥に、何か懐かしいものを。
(やっぱり……院長先生の瞳はアスクのとよく似てる。ドラゴンと目が合ったときみたいに、背中が少しぞっとして……どこか悲しそうで)
一方、モーランドはジールとエトナの立つ場所から少し離れた所に立ちながら、少し余裕の出てきた受験生を品定めしていた。
(見たところ、あの少女から魔法の力を全く感じませんが……まあ、いいでしょう。今から見極めればいいのですから。この少女が少しでもこの学院にふさわしくないと分かったら、院長もさすがに入学をお認めになるはずがないでしょうし)
モーランドが口の端を曲げたちょうどその時、広間の中央で適格試験が始まった。
「では、あなたの頭の中に入り込みます。何も考えず……頭の中を空にしてください」
ジールは右手を伸ばすと、二本の指でエトナの額に触れた。
──その瞬間、エトナの意識が遠のいていった……。
*****
「……──ナ、エトナ!」
「えっ?」
名前を呼ばれて、エトナは辺りを見渡した。前方にアスクが立っていて、こちらを見ている。そして、その横には見覚えのある黒髪の若い男女がいる。
「スタン! ミネート!」
エトナは目を擦った。だが、二人の姿は消えない。とりあえず夢ではないようだ。
「二人とも、どうしてここに!? でもよかった……無事だったんだね! 本当に心配してたんだから……!」
目を潤ませながら、カルスタムとミネートに駆け寄り、手を取る。二人の手の感触はしっかりと伝わってくる。どうやら幻でもないらしい。
その時、白い毛玉がエトナの胸に飛び乗ってきた。大きな瞳でエトナを見つめるのは──三尾を持つ猫又の子供だった。
「なーーーーお!」
「モル! モルも無事だったんだ……」
エトナはモルをぎゅっと抱きしめる。この温もりも嘘じゃない。
「エトナってば、どうしたんだよ。寝ぼけてるのか? あ、そっか。俺たち、昨日も遅くまでカードゲームしてたもんなあ。姉貴は途中でダウンしたけど」
「あなたたち、まさか私が寝た後もずっと遊んでいたの? カルスタム、あなたが寝不足になるのは勝手だけれど、エトナちゃんを巻き込むのはやめなさい」
ミネートがたしなめると、カルスタムは「へーへー」といい加減な返事をしてごまかしている。
(……カードゲーム?)
エトナは、はてなと考えた。身に覚えのないことが起こっている気がするが、よくよく考えてみると、そんなことがあったような気もする。
「……ま、いっか! こうやって、みんなとまた旅ができてるんだし!」
そう、一度は離れ離れになってしまった仲間が戻ってきて、また一緒に旅を続けることができているのだ。細かいことなど、どうだっていい。
エトナが顔をほころばせていると、アスクが咳払いをした。
「……エトナ、目は覚めたか? ようやく念願の地に着いたんだからな。気を引き締めていこうぜ」
「はあ……念願の地……」
エトナはアスクの指す方向を見た。自分たちの目の前には、大きな湖が広がっている。アスクの言う「念願の地」とは、この湖のことを指しているのだろう。
(あれ? こんな湖、ついさっきまであったっけ……?)
いつの間に、湖が現れたのだろう……。エトナがぽかんと口を開けていると、ミネートが上ずった声で呟き始めた。
「幻の秘宝を求めて三か月ですものね……。さあ、行きましょう。探してきた秘宝はこの湖の水中にあるはずです」
エトナ以外の者が皆、次々と湖の中に飛び込んでいく。モルだけは湖から離れた所に避難している。大きな水溜りが怖いらしい。
エトナが水際でおろおろとしているのを見て、湖の中央に向かって泳いでいたアスクが怪訝そうに訊ねる。
「エトナ? 来ないのか?」
「はは~ん……もしかして、カナヅチかよ?」
カルスタムが意地悪そうな顔でそう言ったので、エトナは意を決して湖に飛び込んだ。水面から顔を出し、頭をぶるぶると振って水を落としてから、カルスタムに向かって舌を出した。
「わたしだって泳げるよ! ……泳いだことないけど」
エトナに水泳の経験はないが、思った以上に泳ぐことができる。それがエトナを得意気にさせた。
(もしかして、わたし……泳ぎの天才かも!)
そうして、エトナたち四人は水面を静かに泳ぎ、湖の中央までやって来た。真下を見ると、黒いものが水中で揺らめいている。湖の底に何かあるようだ。どうやら、それが「幻の秘宝」らしい。
「さて、潜るか……。ここからが本番だ」
アスクが深呼吸をして、水中に潜ろうとした時だった。四人は湖の向こうにあるものが出現したのを目にして、その場で固まるしかなかった。
──湖の水面から、大きな海獣が長い首を揺らしながら現れたのだ。四人が浮かぶ場所からは少し離れた所ではあるが、相手は水の生き物だ。こちらへ来るのに数十秒もかからないだろう。秘宝を狙って住処に侵入してきた盗人たちを排除するつもりのようだ。
「げげっ! あれってまさか……噂で聞いてた、湖の主ってやつじゃね?」
カルスタムはこちらにやって来る巨大な珍獣を、口の端を引き攣らせながら見ている。そして、他三人も。
そんな一大事の中、新たな一大事が起こった。
「わっはっはっは! わざわざ後れを取って、やって来た甲斐があったというものだ」
泳いできた岸の方角から、大きな声が降りかかる。エトナたちがそちらの方向を振り向くと、いつの間に現れたのだろうか、盗賊風の恰好をした男たちの集団が岸の上からこちらを見ているではないか。
その中の一人、親分らしき男が勝ち誇った顔で喋っている。
「おまえたちがそのバケモノを引き付けてくれるとはな! おかげで、俺たちの仕事がやりやすくなった。おい、おめえら。今のうちにお宝をいただこうとしようぜ」
「イエッサー!」
親分の声掛けで、盗賊の一味が次々と湖の中に飛び込む。エトナたちのいる湖中央へわらわらと泳いでくる男たちを見て、アスクが舌打ちをした。
「ちっ、この忙しい時に……。鬱陶しい奴らだぜ」
前には盗賊の一味、後ろには湖の主。ゆっくりしている暇はないらしい。アスクは盗賊に秘宝を横取りされないように、一足先に潜ろうと深呼吸を始めた。
だが、親分の言葉がアスクの動きを止める。
「おおっと! 動くんじゃねえぜ? このチビがどうなってもいいっていうんなら、話は別だがなあ」
にやにやと笑うその顔の横に掲げられたのは、一匹の猫又の子供──モルだった。モルは親分に捕まってしまったらしい。もがいて脱出しようとしているが、親分に三尾を掴まれ、逆さ吊りにされているため、為す術がないようだ。
「モル!!」
エトナは岸へと泳ぎ戻りたい衝動に駆られた。だが、親分の言葉を思い出して、唇を噛んでその場に留まる。
「そうだ。そのまま大人しくしていれば、おまえたちに害を加えることはないと約束しよう。まあ、それは俺たちに限った話だがな。そのバケモノに関しては知らねえなあ──」
親分がそう言ったちょうどその時、湖の主がアスクたちのすぐ前までやって来たところだった。その動きに合わせて、湖の水面が大きく揺れる。アスクたちは大きな波に呑まれないようにするだけで必死だ。
このままでは、いけない──。
アスクたちがそう思った時、最初に叫んだのはカルスタムだった。
「おい、エトナ! おまえの魔法で、この湖の主サマを退治してくれよ! おまえのチョー強い魔法なら、そのくらい簡単だろ!?」
「なに言ってるの、スタン! わたし、魔法なんか使えな──……」
そこまで言いかけたが、エトナはふと思った。
(あれ? わたしこそ、何を言ってるの? わたしはジール魔法学院を見事卒業して、院長先生を感心させるほどの魔法使いになったじゃないの!)
エトナが考え込んでいる隙に、アスクが別の提案をした。
「いや! 秘宝の方が優先だ。魔法は盗賊どもにぶっ放せ! ずっと探してきた秘宝をあいつらに奪われては、これまでの苦労が水の泡になるぞ!」
確かにそれもそうだ……とエトナが思っていると、最後にミネートがこう叫ぶ。
「モルの命がかかっているのよ! 先にあの盗賊のかしらを倒して、モルを助けなきゃ!」
ミネートの言うことも、もっともだ。今やモルは親分の手の中で、か細く鳴いている。
エトナは三つの提案のうち、どれを選択するか決めかねていた。カルスタム、アスク、ミネートの主張はそれぞれ、間違っていない。どれも正しいのだ。
──自分の命か。人質の命か。はたまた、秘宝か。
(どれ? わたしは何を選んだらいいの?)
だが、迷っている時間などない。
悩んだ末に、エトナが下した決断は……。
*****
「目覚めなさい、エトナよ」
美しい声が聞こえて、エトナは目を開いた。
そこは見覚えのある広間だった。
「あ、あれ、ここは……。そうだ、みんなは……!?」
エトナは慌てて辺りを見渡したが、その大広間にいたのは離れた所で目を丸くしているモーランドと、目の前で妖しく微笑むジールだけだ。そこでようやく、エトナは自分が入学するための臨時試験を受けていたことに気が付いた。
「適格試験は無事、終わりました。もう楽にしていいですよ」
ジールはそう告げると、伸ばしていた腕を下ろした。それから、寝椅子の方へとゆっくりと戻っていき、元のようにクッションの上に体を横たえる。
「今のは……夢、だったの……?」
エトナはまだ信じられないといった顔で、自分の両手のひらを見つめた。
あれが夢だったのなら、カルスタムやミネート、モルがそこにいたのも理解できる。それに、夜更けにカードゲームをしていたことや、秘宝を目指して旅をしていたこと、水泳の達人のように泳げたこと……といったよく分からない状況も。
とはいえ、夢と考えるにはあまりにもリアルな感覚が残っている。
ジールは、先ほどよりもさらに気怠そうな様子ながらも、丁寧に説明をした。
「夢……とは少し違います。私がある力で働きかけ、あなたの脳を騙し、目の前の出来事がさも現実であるかのように対処させたのです。その中で、何かについて決断を迫られましたね? 強力な魔法を手に入れたとしたら、あなたはどの選択肢を選び、どのような行動を取るのか……。その反応を見るのが、この適格試験の心髄。ゆえに、あなたの脳内イメージを可視化し、私とモーランドで見させてもらいました」
モーランドが驚いている顔をしているのは、そういう理由からのようだ。エトナの下した決断が予想外だったらしい。
「……ってことは……みんなが、スタンもミネートもモルも、みんなの姿は全部ウソだったってこと?」
離れ離れになってしまった仲間たちに会えた嬉しさの分だけ、エトナの心は落ち込んだ。試験だとは言え、そんな幻を見せたジールを若干恨めしく感じる。
だが、もう過ぎてしまったことだ。今は試験の結果を知りたくて、エトナはジールの顔を見た。
「あなたの入学を許可するかどうか──。適格試験を実施し、私は決めました」
ジールは次の言葉で、合否を単刀直入に述べた。
「エトナ、あなたに我がジール魔法学院への入学を許可します。教頭も異存はありませんね?」
モーランドはただ一度、頷いた。この試験によって、エトナが少しでも入学に値しない人物だと判明したならば、モーランドはすかさず反論したことだろう。だが、あの光景を見せつけられてしまっては、ぐうの音も出ない。
「入学……できるの? 本当!?」
エトナは嬉しくて、思わずその場で飛び上がる。興奮で息を弾ませながら、少し恥ずかしそうにジールに訊ねた。
「ねえ、わたしはあの時、どれを選んだの? 自分で選んだはずなのに、何も覚えてなくって……」
「そのことですが……受験生には教えられない決まりになっているのです。そもそも適格試験は、その者のありのままの姿──つまり、本性を見るもの。その結果次第では、自らの内の自覚していない部分を知ることで、その後の人格に影響を与えてしまう恐れがあります。それが、良い方向に向かおうとも悪い方向に向かおうとも。──ですから、適格試験は本人が意識していないところで行われなければいけないのです。ただ一つ教えられることは、どの選択肢を選んだから正しい正しくない、ということではないのです」
ジールの説明を受けて、エトナは分かったような分からないような顔をした。
「う~ん……。院長先生の言うことは難しくて、よく分からないけど……とにかく教えてって訊いちゃダメなんだよね。……分かった! もう訊かないよ」
そんなエトナを見て、ジールは微かに微笑んだ。
「聞き分けのよい子ですね。さあ、アスクを呼んできなさい。彼にも試験結果の報告と、入学に際しての連絡事項を説明しなければなりませんから」
「うん、分かった!」
エトナはくるりと体の向きを変えると、上へと続く階段を上っていった。
エトナの姿が見えなくなってから、それまでずっと無言だったモーランドが口を開いた。その顔には、訝しさと恐怖が浮かんでいる。
「院長……。今まで様々な受験生の適格試験を見てきましたが……あんなものは見たことがありません。あの少女は一体、何者なのですか……?」
「ふふふ……。エトナは“ドラゴンマスター”らしいですよ」
「“ドラゴンマスター”?」
「そうです。ドラゴンと心を通わし、私のような者からドラゴンの力を取り出す……。アスクや私のように、いえ、それ以上に特殊な存在です」
(あの少女がどんな魔法使いに育つのか……。面白くなってきました)
ジールは面白そうに笑っている。
モーランドはそんな院長を訝しそうに眺めていたが、やがて諦めたように溜息をついた。院長を尊敬しているが、たまに何を考えているのか分からないことがある。
代わりに、先ほどの光景を思い出した。エトナの適格試験で現れた、この先一生、忘れそうにもない光景だ。
モーランドが、広間の真ん中でジールと向かい合ったまま意識を失うエトナを見ていたときだ。エトナの頭の中の映像がジールの魔法によって投影され、まるで広間で今起こっているかのように、大きく映し出された。
追い求めてきた秘宝まで目前というところで、海獣や盗賊に襲われたエトナと仲間。仲間たちはエトナに、彼女の強大な魔法を何に使うべきか、それぞれ提案をした。たいていの受験生ならば、そのどれか一つを選び、実行するのだが、エトナは違った。
──あの少女は全ての選択肢を選んだのだ。
たとえ全てを選んだとしても、それを成し遂げることはできない。というのも、院長の力で、「自分には選択肢ひとつだけを成し遂げるだけの力を持っている」とその受験生に思い込ませているからだ。
それにも関わらず、エトナは全てを自らの魔法で叶えた。自分に襲いかかってくる海獣の頭を焼き、仲間を捕えている男の腕を吹き飛ばし、秘宝を狙う盗賊たちを溺れさせた。一瞬のうちに。
エトナはジールにかけられた制御を打ち破り、「全てを叶える魔法の力が自分にはある」と心得て、実際にそうしてしまったのだ。
モーランドを驚かせたのは、それだけではない。エトナが魔法を繰り出す瞬間、その体から異様な魔力が放たれたのだ。
──人間のものでも、チェスドラゴンのものでもない魔力。
その魔力に触れてみて、モーランドは気味が悪くなった。
エトナの脳内イメージは所詮、イメージ。現実のものではないというのに、だ。
(確かにあの少女から、ぞっとするほどの力を感じました……。院長の言う通り、彼女に入学する資格はあるようですが、これからはエトナという少女を、少し気を付けて見ていかなければならないようですね……)
これも、尊敬する院長のため、そしてジール魔法学院のためだ。
モーランドはそう心に固く誓うと、ジールの下した試験結果を記録するため、懐に入れておいた台帳の入学許可者欄に「エトナ」と記した。
エトナが入学試験に合格したとジールから聞かされた時、アスクは安堵したのと同時に、「やはりそうか」と思った。エトナがラパスの魔法使いの放った魔法を打ち消したことは、やはり幻ではなかったのだ。
それに、アビアの占いがどうして「ジール魔法学院」を示したのか、今改めて気づいた。魔法の素質を持っているエトナを良い魔法使いに育ててくれる場所だから、だけではない。ジール魔法学院がエトナを安全に預けておくには最適な場所だったからだ。
というのも、この魔法学院は並みの人間には侵入できない構造になっている。例え侵入されたとしても、ドラゴンの力を持つジール院長ならばエトナを守ってくれるだろう。
広間に呼ばれたアスクは、エトナの今後のことを院長と教頭から説明を受けた。
まず一つ目は、ジール魔法学院では全寮制を敷いていること。ジール魔法学院の生徒となった者は皆、学舎に併設してある寮での生活を義務付けられている。
二つ目はそれに関係することで、全寮制のため、生徒は卒業するまでは気軽にジール魔法学院の外には出られないことだ。外出を許されるのは、年に一度の帰郷期間か、緊急の用事がある場合だけだ。もちろん外からやって来た者も、学院の中の生徒に会うことはできない決まりになっている。
最後は、卒業するまでに最低五年はかかることだ。言い換えれば、優秀な者は五年で卒業できるが、そうでない者はさらなる年月をこの学院で過ごすことになる。
「……あなたに伝えておかなければならないことは、このくらいでしょうか。何か、質問はありますか?」
ジールにそう訊ねられ、アスクは少し考えてから口を開いた。
「そういえば、入学料や学費はいくらだ?」
もし必要ならば、何とかして用意するつもりだった。アスクの所持金は決して多くない。だが、必要ならば、いくらでも手に入れる方法はある。
アスクが良からぬことを考えていると、ジールが瞳を閉じながら答えた。上下の長い睫毛がひとつに重なる。
「ジール魔法学院では、入学から卒業まで、お金は一切必要ありません。この学院は私の個人的な資産で運営できますから」
「個人的な資産……か。羨ましいとでも言うべきなんだろうな」
アスクは肩をすくめた。羨ましいと思っていないことはアスクの顔を見れば一目瞭然だが、ジールはそれを見て面白そうに笑う。
「通常の人間より長く生きる私たちにとって、金の価値は確かに小さくなりがちです。しかし……要は、使い道ですよ。私の場合、潜在能力を秘めた者を発掘し、優れた魔法使いに育てる……。私の夢を叶えるための手段となっているのですから」
「院長様の考えがどうであれ、そのおかげで誰かの金が紛失せずによくなったことに違いはないな」
ジールの話が一段落したとみて、横に待機していたモーランドが口を開く。
「それでは、この者たちを一階までお送りします」
「少し待ってください。……アスクよ、近くに」
ジールがアスクに向かって手招きをする。アスクは寝椅子に近づいていき、院長と何やらひそひそ話を始めた。
それを見て、モーランドが怪訝そうに眉をひそめたが、エトナには二人が何を話しているかが分かった。きっと、ジールはアスクに研究の手伝いを頼んでいるのだろう。ジールは研究のことを『普通』の人間には知られてはいけないと言っていたから、モーランドに聞こえないように配慮しているのだ。
話が済んだのだろう。アスクはジールの顔を見て頷くと、元の場所へと戻ってきた。
「……では、今度こそお送りしてきます。失礼します、院長」
モーランドはジールに挨拶をすると、上の階で待機しているガルーダの元へと向かう。アスクがその後に続き、エトナも足を動かそうとした。だが、エトナはふと足を止め、ジールの方を振り向いた。
(生徒と会うのは入学試験のときだけって言ってたし……もう院長先生に会えないのかな……)
寂しさを感じながらジールを見ていると、何を思ったのか、ジールが顔に微笑を──それは美しい微笑を浮かべた。
エトナはどきっとしながらも、軽く挨拶をすると、慌ててアスクの背中を追いかけた。
二回目でも、やはりガルーダの背中に乗り心地には慣れない。そう思いながら、エトナは玄関ホールに降り立った。
モーランドは最後にガルーダから飛び降りたアスクにこう告げた。
「それでは、アスクどの。ここでお別れです。エトナは我が魔法学院で責任を持ってお預かりしますから、ご心配なく。──さあ、エトナ。別れの挨拶をするなら今の内ですよ」
モーランドに促されて、アスクとの別れが近づいていることにエトナは気が付いた。
何だか不思議な感じがする。リーストで助け出され、共に旅をした約一か月間。アスクとはずっと一緒だったのに、これからはそう簡単に会うことが叶わないのだ。
(……でも、別れを悲しむんじゃない。次に会える時を楽しみに待つ。そうだよね、アスク?)
以前、アスクが言っていた言葉を思い出す。だからこそ、エトナはアスクに近づいた時、泣き顔ではなく笑顔を向けた。
「アスク……しばらく会えなくなるね」
「頑張って勉強するんだぞ」
「うん……わたし、いっぱい魔法を覚えてこの学校を卒業したら、またアスクと一緒に旅をするから! アスクが嫌だって言っても、絶っっ対についていくしね」
「やれやれ……おまえの頑固もここで何とかしてほしいものだがな」
「わたしが頑固って言うなら、アスクなんかもっと頑固だよ」
アスクとエトナは互いににやりと笑い合う。
「じゃあな。俺は行くぞ」
「あっ、アスク待って!」
アスクが正面玄関の方に足を向けた時、エトナは声を上げた。頼みごとをするのを忘れていたのだ。
「あのね、お願いがあるの。もし旅の途中でドラゴニアの里──オリエットを見つけられたら、スタンとミネート、それにモルがどうなってるか、こっそり調べてほしいの……。もちろんアスクが危なくない範囲でいいんだけど……ダメかな?」
アスクはエトナの目を見た。その目は本気で切願している。
「……分かった分かった。ついでの場合は、探っといてやる」
アスクは溜息をつきながらも、手をひらひらと振った。わざわざ逃げ出してきたオリエットに再び近づくのは愚かな行為かもしれないが、アスクもカルスタムたちのその後が気にならないと言えば嘘になる。
正面玄関へと歩いていくアスク。
エトナはその後ろ姿を見て、心なしか不安になった。この放浪の旅人がエトナの前に姿を現すことは二度とない──そんな考えが頭をよぎったからだ。
だから、その背中に向かって、エトナは声を張り上げた。
「五年後、迎えに来てね! 約束だよ!」
アスクは答える代わりに、後ろ手に手を振る。そして振り返ることもなく、そのまま正面玄関を出て行った。
最後までアスクを見送っている暇などない。これから忙しい毎日が待っているのだから。
エトナはモーランドの方へ戻りながら、独り言のように呟いた。
「ほら、別れるときもダダをこねなかったでしょ? それなのにアスクったら、いつもいつもわたしを子供扱いするんだから」
俯いた顔から、雫がぽたぽたと落ちる。エトナの頭の中に浮かんでいるのは、かつてアスクに子供だとからかわれたときのことだ。
一度思い出してしまうと、アスクとの旅の思い出──楽しかったことも、大変だったことも──が次々と浮かんでは消えていく。それが余計にエトナを悲しくさせた。
──別れを悲しむんじゃない。次に会える時を楽しみに待つんだ──
「でもね、アスク……。やっぱり、別れは悲しいんだよ……」
エトナはそれだけ呟くと、袖で顔を拭い、これから待ち受けるものを真っ直ぐと見据えた。
―― 一部 完 ――
これにて第一部、終わりとなります。
読みにくい点が多々あったかと思いますが、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
「あれ? 続きは?」と思った方にお知らせです。
アスクたちの旅はまだまだ終わりじゃありません。
筆者の充電期間としてしばらくお休みいただいた後、第二部を描き始めたいと思います。
それまでに一体どのくらいの時間がかかるか分かりませんが、第二部再開の際はまたお付き合い願えることを祈っています。
なお、第二部が始まるまでは「完結」設定とさせていただきます。




