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第二話:エトナ

 

 *****


 平穏の町が、今や「炎と惨劇の町」となってしまったリースト。この町から無事脱出した青年は、リーストの隣村ニストに向かって歩を進めていた。腕の中には、顔も服も煤と血で汚れた少女がまるで死んでいるかのように眠っている。

 青年はこの少女とドラゴンのことを考えながら平原を抜け、森に入っていく。

(この少女とチェスドラゴンには、一体どんな関係があるんだ……?)

 しかし、その問いに対する答えが浮かんでくる事もなく、進歩のない自問自答が繰り返されるだけであった。

(チェスドラゴンはすべての生き物の頂点にいる種族……。人間に馴れるはずがない。しかもこんな幼い少女に……)

 それ以前に、ドラゴンは滅多に人間の前に姿を現すことがない。故に、リーストの町に姿を現し、さらには町を滅ぼしていったあのドラゴンの行動が青年には理解できなかった。

 その瞬間、青年の頭にある考えが浮かんだ。

(……何か、ドラゴンにはあの町を攻撃しないといけない理由があった……?)

「まさか、な」

 青年は独白した。

 リーストの民たちはドラゴンを敬いこそすれ、何か危害を加えるようなことは絶対にないと言っていいくらいだ。リーストは敬虔なドラゴン信者が暮らす町として昔から知られている。彼らは信仰を生活の中に取り入れ、静かに慎ましく生きる者であり、ドラゴンを信仰している他の街や集落と取り立てて異なる点はない。

 では、何故リーストの町は滅ぼされたのか。

 自分の知らないところで何かが起こっている。ドラゴンを追う青年はそう感じた。


 そうして隣村に着いたのは夜が更け、村民たちが寝静まってからだった。


 *****


 ニストは、他の街々へ出荷するために近くの森で木材を切り倒す木こりたちの集落である。一日の仕事を終えた村民たちは、家族の待つ家にまっすぐ帰る者もいれば、村唯一の娯楽場である酒場で一杯ひっかけていく者もいた。


「ほらほら、お兄さんたち、明日も朝早いんでしょ。そろそろ家に帰りなさい」

 酒場の女店主アリリスは、閉店間際まで酒場に残った数人の中年男たちに声を掛けた。

「そんなこと言わないでよ、アリリスちゃん。ひん曲がったカミさんの顔を拝むより、あんたの可愛い顔を朝まで見ていたいんだよ~」

 腰まであるウェーブのかかった艷やかな黒髪とスレンダーな躯が魅力的な三十代半ばのアリリスは、村の男たちのちょっとしたアイドルである。

「はいはい、後でそのカミさんに怒られるのは私なんだからね。帰った帰った!」

 そんなことを言いながらアリリスは男たちを椅子から立たせると、出口まで誘導した。

「また明日来るからね~~」

 呂律の回らない口調でそんなことを言いながら、客の男たちはそれぞれの家路についていった。

「暗いんだから足元に気をつけるのよ!」

 酒場の入口から去りゆく客たちの背中に一言声をかけると、アリリスは今日も一日の仕事が終わったことにホッとため息をついた。

 そして、残っている片付けをしようと店の中に戻ろうとしたとき、酒場の横の茂みから何やら物音が聞こえた。がさがさと草を揺らす音だ。

(な……何?)

 聞こえたのが一度だけなら気のせいで済ませられるかもしれない。だが、残念なことに、草の後ろには確実に動く“何か”がいる。

 徐々に近づいてくるその音に、アリリスはおののいた。静かな夜の村に響き渡る音は一層不気味だ。

 アリリスは手近にあった酒瓶を手に取り、グっと構えた。それはもちろん、万が一の場合はこれで殴りかかるためだ。しかし、アリリスの勇気ある行動は無駄となった。

「ガサ」っという音と共に茂みから姿を現したのが───一人の銀髪の男だったからだ。

 アリリスはその男の姿を見るやいなや、安堵のため息をついた。手汗をかいて握りしめていた酒瓶を持つ手も思わず緩んだ。

「もう! びっくりしたじゃない。声くらい掛けなさいよ、アスク!」

 アスクと呼ばれた銀髪の青年は、人差し指を口に当て「静かに」と示した。

 アリリスはその時、アスクの腕の中のまだ幼い少女──死人のような、青ざめた顔をしている──に気が付いた。

 さらに、アスクがこの少女をマントで隠すように抱えていることや、人の目を避けるように現れたことについての意味に気付いた。彼のその行動から、アリリスは今自分に求められている事を俊敏に察知した。

「ラングを……呼ぶ?」


 *****


 あの鋭い眼光に捉えられたとき、どうしようもない気分に襲われる自分がいた。

 あの時、顔見知りだった町の者たちは目の前で粉々に吹き飛ばされ、生まれ育った町並は炎を上げて──

 その時である。ドラゴンに射すくめられたのは。


 ──こわかった? にげだしたかった?

 それだけじゃない。あなたの眼を見たとき、なぜか悲しさも伝わってきたんだ──


 ドラゴンの目を不意に覗き込んだとき、少女はそう感じた。

 そして、ドラゴンはその眼を通して、少女にこう訴えた……。


『────────』


 *****


「はっ」

 少女は両目を開いた。木の天井が目に入る。

(……わたしは……?)

 寝汗で顔も体もぐっしょりだ。ゆっくりと上半身を起こしてみる。どうやら、どこかの部屋のベッドに寝かせられているらしい。服も自前のワンピースではなく、ベージュ色の寝巻きを着せられている。

 わずかに眩暈を感じた少女は、ベッドに手をついて踏ん張った。──とその時、自分の手元に何かが無いことに小さく悲鳴を上げた。

「テディは!?」

 慌てて周りを見渡すと、自分のすぐ横に“それ”はあった。枕の傍にちょこんと置かれているのは、クマの縫いぐるみだ。

「よかった……」

 少女はその縫いぐるみをそっと手に取ると、宝物のように大事に胸に抱いた。


 ……  ……  ……  ……  


 大切なテディを抱いて安心したのか、隣の部屋からの話し声が少女の耳に入ってきた。

「……?」

(向こうから人の声がする)

 少女がそちらの方に目を遣ると、こちらの部屋と隣の部屋がカーテンだけで仕切られている。少女が寝かされている部屋は薄暗かったので、灯りがついている向こうの様子が影となって浮き上がってきていた──どうやら数人の大人がいるようだ。

 少女はしばらくそちらの方を眺めると、意を決したようにテディを抱きしめ、ゆっくりとベッドから抜け出した。ひんやりとした床の感触が、裸足の足には気持ちいい。

 そして、カーテンの方へ足音を立てないようにそろそろと近づいた。声が鮮明になっていくにつれて、少女の心臓はドクドクと高鳴っていく。


「……なんだって!?」

 大声を出したのは、中肉中背の、近頃頭に白髪が混じり始めた独身の中年男ラングである。村民の目を逃れるようにして現れたアスクが連れてきた「謎の少女」を診てもらうために、アリリスが彼の家から急遽呼んできたのだ。

 ラングはこの村に住む闇医者で、村の人間はアリリスを除いて彼が闇医者であることを知らない。普段は普通の村男として、木こりとして生活しているのだ。ただ、今回のように“顧客”からのご用命があったときはこうしてアリリスの酒場に赴き、その治療にあたるのだ。そのため、医療道具一切はここ酒場の2階──アリリスの自宅である──に隠し置いている。

「……コホン、失礼。声が大きかったな」

 ラングは自慢の口髭をさすりながら、動揺を抑えた。

「でも……驚いたわ。たった半日前にリーストが滅ぼされたなんて。しかもドラゴンによって……?」

 アリリスも気持ちを抑えるために、酒を小さなグラスに注いだ。

「それで……あなたが連れてきた、あの女の子はどういうワケがあるの? ただのリーストの生き残り患者だったら、わざわざ闇医者に診せに来ないで正規の医者に診せるわよね?」

 銀髪の青年アスクとラングに酒の入ったグラスをそれぞれ渡すと、アリリスは自分のグラスに口をつけた。

「アリリスの言う通りだよ、アスク。君はリーストで何を見たんだい?」

 ラングもアリリスに同調した。

 二人の視線が集中したアスクは、半日前のことを詳細に思い出しながら口を開いた。

「ドラゴンについての情報が何か入っていないか、アリリスの酒場を訪ねにこの村に向かっている途中だった……。その時だ、遠くからドラゴンがリーストの方に向かって飛んでいくのが見えたんだ。そうして、俺は奴の後を追った。リーストに着いた時、町はすでに火の海だった。そして──」

 アスクはそこで、崩れ落ちた礼拝堂を背景に一匹と一人が向き合っている光景を思い浮かべた。

 ドラゴンと人間が心を通わすことがあるはずがないと、彼の意識はこの光景を認めるのを拒んでいた。しかし、それは自分自身が実際に見たものだった。

「──そして、破壊行動に徹していたドラゴンが、あの少女の前でおとなしく、いつもの穏やかな性格に戻っていたんだ」

「あの女の子が……!? チェスドラゴンを静める力でも持っているのか!?」

 ラングは驚きのあまり、飲みかけのグラスを落とすところであった。アリリスも、アスクの方に身を乗り出して迫った。

「でも、どうしてあの女の子が? あの子、リーストの子でしょう? 私には普通の子に見えるわ」

「それは分からない。他に生き証人はいないんだからな。……ただ、少なくとも人間の姿かたちをした化物ではなさそうだ。自分がドラゴンにどのような影響を及ぼすかを知らなかっただけでな」

 ──なぜなら、ドラゴンと相対しているときに少女が取った反応は一般人のそれと同じだったから。ドラゴンの眼を覗いた者は皆、心を恐怖に囚われるのだ。アスク自身もそうだった。

「そういうことか……だから私のところに……」

 ラングは何かを思いつめたかのように考え込むやいなや、ぐいっとグラスの酒を一気に呷った。そして口を開いた。

「確かにあの子を普通の医者に連れて行っていたら、今頃大変なことになっていたぞ」

「どういうこと?」

 アリリスがラングに尋ねた。

「わからないか、アリリス。人類がチェスドラゴンを発見してからこの何百年、ドラゴンの存在はいつの世も謎多きものだった。今の世の中、ドラゴン信仰を国教としている国が多くなってきているし、ドラゴン信者の中にも過激派が生まれてきている。もしドラゴンを静める力を持つ者が存在すると分かれば、あの少女を巡る争奪戦があらゆる国で勃発するだろう」

 ラングの説明にアリリスも事の大きさが分かってきたようだ。

「なるほどね……ドラゴン信仰国のお偉い様方はあの子を神サマみたいに崇めて『監禁』するだろうし、イカレたドラゴン研究者たちには実験材料にされるだろうってとこね」


(あの人たちは何を話しているの?)

 少女はカーテン越しに聞こえてくる会話を、壁に隠れながら聞いていた。

 その質問に答えるまでもなく、自分のことについて話しているのだと少女自身気づいていた。

(……リースト? ドラゴン?)

 少女は気絶する直前の出来事をぼんやりと思い出した。しかし、思い出そうとすると頭がガンガンと痛み出す。──思い出せない、いや思い出したくないのだろう。それを思い出すことを体が拒否していた。

 ただ、大人たちが話している「チェスドラゴン」という言葉を聞いた時、なぜか体が硬直した。

 そして、大人たちの会話が、自分が戦争を引き起こす存在であることや、今後自分がどのような身に置かれるのかに及んだ時である。少女には具体的にそれがどういうことか解らなかったが、なにか怖いことであることは想像できた。

 少女は思わず後ろに足を一歩引いた。すると、何かに蹴躓いてしまった。ガタンと盛大な音が鳴る。


「……!」

 それまで話していた大人たちは、一斉に視線を交わした。

(聞かれていた……?)

 ラングがスッと動いて、少女を寝かしておいた隣室とこちらの部屋を仕切るカーテンを開いた。すると、例の少女が呆然とした様子で立ち尽くしている──クマの縫いぐるみをギュッと抱きながら。

「やあ、起きていたんだね。どうだい、加減は?」

 ラングは心配な様子で少女に話しかけた。しかし返事はない。少女はただ不安そうな目で大人たちを見ている。

「わたし……」

 少女はやっと口を開いた。

「こわいの……」

 その言葉を聞いたとき、アリリスが少女の前に出てきてひざまずいた。

「ごめんね……怖い思いさせちゃったよね。大丈夫、私たちであなたを守るから。誰にも渡さないからね」

 アリリスが少女の肩に両手を回して優しく抱き寄せた。アリリスの温かくて柔らかい胸の中で安心したのか、少女の目の中の不安が少しずつ消えていく。

 少女が落ち着いた頃を見計らって、ラングが声を掛けた。

「ここはニストという村の酒場だ。このお姉さんの家だから安心しなさい」

 ここでアリリスが「アリリスよ。よろしくね」と少女に微笑みかけた。

「私の名はラングといって、一応医者をやっている。君がリーストの町で倒れていたのをこのお兄さん……アスクが助けてくれたんだよ」

 ラングが後ろに立つアスクを指す。少女はアスクを仰ぎ見た。

(このお兄さん……)

 少女はアスクの姿に見覚えがあった。あの時あの場所で、自分以外に唯一生き残っていた人間だったからだ。

「助けて」とこの男に声を掛けようとしたところまでは覚えている。自分が今ここにいるということは、この男が助け出してくれたのだろう。礼を言わなければ、と少女は思った……が。

 目が合っただけで表情さえ変えないアスクに、少女は少し戸惑った。それを見ていたアリリスがすかさずフォローを入れる。

「アスク! こんな小さな子にその態度は無いでしょ? ごめんねぇ、このお兄さん無愛想なの」

「……ところで、君の名前を教えてもらってもいいかい?」

 ラングが尋ねると、少女は目を点にしてしばらく固まった。

「なまえ……? わたしの……なまえ……?」

 少女のそんな様子を見ていたラングは冷静に他の質問に映った。

「じゃあ、歳は? お父さんお母さんの名前は? 他に覚えていること何でもいいから、おじさんに教えてくれるかい?」

 少女はしばらく考え込んでから、申し訳なさそうに口を開いた。

「わたし、今九歳です……でも……ごめんなさい、それしかわからないの……」

 アスクとアリリスはそれを聞いて呆然となった。

「アスク……悪い知らせだ。この子は記憶障害を持っているようだ」

(……何だと?)

 この少女からドラゴンに近づく情報が得られる。それを期待していたアスクにとって、それは信じたくない事実であった。焦ったアスクはラングに詰め寄る。

「ラング、早くこの子の記憶を戻す治療をしてくれ」

「無茶を言ってくれるなよ、アスク。記憶喪失というのは精神的要因、つまり、あまりに衝撃的な出来事から自分の心を守るために起こることがあるんだよ。この子の場合はリーストの町での出来事がそうさせたんだろうね。────何かきっかけがあれば記憶が戻ることもあるだろうが……無理をすればこの子の精神を壊すことになりかねない。まあ、自然に戻るのを待つしかないだろうね」

(そんな……)

 アスクはラングの言葉を聞いて愕然とした。──ドラゴンまでもう一歩というところで足踏みしなければいけないとは!

 横で聞いていたアリリスも、必死に食い下がった。

「ちょっと待ってよ、この子の名前も分からないの? せめて名前だけは……この子の名前で呼んであげたいのに……」

 そういえば……と、ラングは思い出したように少女の腕の中の縫いぐるみを見遣った。小さい頃からずっと持ち歩いてきたのだろうか、生地が擦り切れ傷んでいる。破れたところを丁寧に直しているのか、あちこちが継ぎ接ぎだらけだ。

(アスクが連れてきた時も大事そうに握りしめていたな……)

 ラングは少女に尋ねた。

「そのクマの縫いぐるみ……少しだけ見せてもらってもいいかい?」

 アスクとアリリスは、ラングが何をするのか見当もつかずに見守っている。少女も初めは戸惑っていたが、ラングと手元の縫いぐるみを交互に見てからラングにそっと差し出した。

「少しだけなら……。この子の名前はテディよ。大事にしてあげてね……」

「テディだね。少し借りるよ」

 ありがとうと言って受け取ると、ラングは縫いぐるみの左腕を上げた。

「この子をベッドに寝かせた時に、縫いぐるみに何か刺繍されているのが見えたんだ」

「……あっ!」

 一緒に覗き込んでいたアリリスが驚きの声を上げた。ラングの言う通り、左腕の内側に何か文字のようなものが刺繍されていたからだ。

 しかしそれは、この世界で現在使われている文字ではないようだ。ラングにもアリリスにもそれを読むことはできなかった。

「これは……ひと昔前の文字のようだな。名前を知る手掛かりになるかと思ったが……読めなくてはどうしようもない」

 ラングとアリリスが諦めようとしたその時、三人の後ろに立っていたアスクが一言だけ呟いた。

「『エトナ』……」

「そうか、君なら読めるんだったな。……エトナか。──どうだい? この名前にピンと来ないかい?」

 ラングは少女に縫いぐるみを返しながら尋ねた。少女は受け取り、難しい顔をしながらその名前を何度か呟いた。

「エトナ……。……何かが頭のなかに引っかかっているの」

「きっと、その名前があなたの名前なのよ! お母さんがあなたの名前を刺繍してくれたんじゃない? ……何で昔の文字なのかは分からないけど。……でも、テディはあなたの大事な友達なんでしょ? ずっと大事に抱いてるし」

 名前の手がかりが掴めると、アリリスは張り切りはじめた。

「う……ん」

 アリリスの問いに少女は考え込んだ。そして、申し訳なさそうにこう答えた。

「ごめんなさい、やっぱりわからないの…………」

 質問に答えられないことに悄気てしまった少女を不憫に思ったのだろう、アリリスは再びその幼い女の子を優しく抱きしめた。

「ごめんなさい、困らせちゃったわね。謝ることないのよ」

「そうだよ。これからゆっくりと思い出していけばいいんだから」

 ラングも横から優しく声を掛けた。アスクはそんな三人を冷めた目で見下ろしているだけだ。

「でもね、テディがわたしにとってすごく……すご~く大切なものだということだけは分かるの」

 アリリスの腕の中で、少女ははっきりとした口調で話し始めた。

「だってね、あの時……気がついたら町がもえてて……まちのみんなが────」

 そこでピタリと少女の口が止まった。

「!」

 エトナの顔を見ていたアリリスとラングは、ハッとした────少女の目からとめどなく涙が溢れていたからだ。それでも少女は脳裏に浮かんでくるあの惨状を伝えようと、必死になっているようだ。しかし言葉は同じところで詰まり、続きが出てこない。

「みんなが──────」

「無理しなくていいんだよ」

 ラングが優しく声を掛けるも、少女の涙は出てくる一方であった。


「はい、熱いから気をつけてね」

 椅子に小さくなって座る少女に、アリリスが温めたミルクを手渡す。少女はカップを受け取るとアリリスに向かって少し微笑んだ。

「ありがとう……えーと……アリリスさん」

「アリリス」

 アリリスがにやっと笑って言い直すと、少女は嬉しそうにそれに倣って言い直した。

「ありがとう、アリリス!」

 リーストの町での惨事を目の当たりにし、そして自分自身の事はほとんど覚えていないという状況に、小さな子どもが直面したのだ。混乱して泣き叫び続けるのも当然といえるだろう。

 しかし、この少女は違った。ひとしきりアリリスの腕の中で泣くと、その後は自ら泣き止み、落ち着きを取り戻した。どうやら、九歳という年の割りにはしっかりしているらしい。

「どう、落ち着いた?」

 アリリスは少女の横に座りながら訊くと、少女はコクンと首を縦に振った。

 散々アリリスの胸の中で泣いたのだ、今ならもうあの時のことを伝えられそうだ。そう感じた少女は、再びあの町での出来事を語り始めた。

「あの時……町も、町のみんなも、全部……燃えていたの……。わたし、とてもびっくりしちゃって……こわくて、見てるしかなかった……」

 神妙な面持ちで語る少女を、三人の大人たちは見守っていた。

「そうしたらね、わたしの前に突然あらわれたの……あの大きくてみどり色の……」

 少女の話がドラゴンに移った時、アスクが身を乗り出して少女に問い詰めた。

「チェスドラゴンとは一体、どういう関係なんだ?」

 アスクの切羽詰った様子は、少女を戸惑わせたようだ。少女は目をパチクリとさせて、驚いた様子でアスクを見つめた。

「アスク、落ち着いて」

 ラングはアスクをなだめると、少女に続きを促した。

「その……ドラゴンがわたしの目を見たの。そうしたら、こわくて腰がぬけちゃった」

 アスクはその時の光景を思い浮かべた。まさに自分が見ていた光景だ。普通の人間ならば、恐怖の感情が湧くのが当然だ。自分でさえそうだったのだ。

 しかし、ドラゴンと相対した時の少女の感想はそれだけではなかった。

「でもね、ドラゴンから伝わってきたのはそれだけじゃなかった……なんていうか、ドラゴンはとっても悲しんでいたわ」

「悲しみ……?」

 アスクは銀色の眉をひそめた。悲しいのは滅ぼされた人間たちのほうだ。ドラゴンが一体何を悲しむのだろうか?

 とにかく、この少女は自分には無いモノを持っていることが明らかになった。普通の人間には、そしてアスク自身にも、ただ恐怖と絶望しか感じることのできないあの視線を、他の感情──悲しみ──も含んでいると言ったのだ。

「他は? どんなことでもいい、何か他に覚えていることは?」

 少しでも多くドラゴンに関する情報を得たいアスクは、少女に詰め寄る。少女は何かを思い出すようにしばらく難しい顔をしていたが、諦めて首を振った。

「あとは……ドラゴンがわたしに何かを言ってたと思うんだけど……わすれちゃったの」

「うそ! ドラゴンが喋るの?」

 アリリスは驚いてアスクを見た。アスクはそれに冷静に答えた。

「ドラゴンは、同族同士はもちろん、人間とも言葉を交わさずに意思の疎通ができるんだ。所謂、テレパシーというやつだ」

 スラスラと答えるアスクを見て、少女は驚いた。何を言っていたか覚えてはいないが、ドラゴンが自分の心の中に語りかけてくる感触は、今まで少女が味わったことのないものだったのだ。それを事も無げに答えたアスクは何やら只者ではないらしい、と少女は思った。それに、あの不思議な感覚がテレパシーというものなのかと少女は初めて知った。

 少女は続けた。

「でもね、とてもこわくて……どうしようもなかった。でも……テディを抱きしめてたら、少しだけこわくなくなったの」

 自分の腕に大事そうに抱いているクマの縫いぐるみを、アスクは見た。継ぎ接ぎだらけの布と綿でできた、ただの人形だ。

 小さい頃からこの縫いぐるみに慣れ親しんでいたのなら、恐怖心を落ち着かせる材料になるのかもしれない。しかし、ドラゴンによる恐怖は縫いぐるみごときでぬぐい去ることができるほど甘いものではない。アスク自身、ドラゴンの視線で恐怖を植え付けられたから解るのだ。

(ただの子どもの玩具にしか見えないが……何かこの縫いぐるみに秘密でも隠されているのか?)

 アスクはこのボロボロの縫いぐるみの存在を心の片隅に置いた。

「やっぱり、テディはあなたにとって大事な存在なのね。きっと小さい頃から一緒だったのよ。私も子どもの時は、兄弟みたいに一緒に育ったお人形があったもの」

 アリリスは一人頷きながら言った。どうやら女にしか分からない経験らしい。アスクとラングには理解できない話だった。

「やっぱりわたしの名前は『エトナ』なのかな……さっきから頭の中、グルグルしてるし……」

 少女は不安げな表情をしながら、テディの腕を持ち上げて刺繍されている文字を見た──少女には読むことはできないが。

 その時、アスクは平然とした顔で言った。

「おまえはエトナだよ」

 少女は顔を上げて銀髪の青年を見た。アスクはエトナを見据えて、こう言い切った。

「例え違っていても、いいんじゃないか。おまえはエトナなんだよ」

「…………うん!」

 少女はアスクにそう言い切られて嬉しそうに頷いた。自分が何者か分からないことが一番不安だったからだ。

 ほとんど“自分”というものを持っていなかった少女が、初めて「名前」という自分のモノを手に入れることができたのだ。ゼロだった持ち物が一つ増えて、嬉しくないはずがない。

 少女は自分に名前を与えてくれた男を、先ほどまでとは少し違った目で見た。少し怖い人だと思っていたが、そうではないと気付いた瞬間だった。

「エトナか……いい名だ」

「エトナ! これからよろしくね!」

 ラングとアリリスが次々に祝福してくれる。それが嬉しくて、少女はリーストで受けた心の傷を少しだけ癒すことができたのだった。


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