第十三話:水晶占い師アビア
エトナを一人残して小屋を出たアスクは、夕陽があまりにも眩しくて目を細めた。
(もう夕刻か……。急がないとな)
アスクが今から用事のある場所は、夜は営業していない。早く向かわなければ──と歩き出した時、アスクは背中で落ち着きなく動いているものに気が付いた。
「……ああ、こいつのことをすっかり忘れてたな」
アスクは背負っていた道具袋を地面に下ろすと、中からモルを出してやった。この付近は人気がないので、モルを外に出しても平気だろう。
モルもずっと息苦しい袋の中に閉じ込められて、我慢の限界だったようだ。久々に地面に降り立つと、四肢を踏ん張って伸びをした。
「おまえの主人はこの小屋の中にいる。おまえには俺がここに戻ってくる間、エトナの守護者の役目をしてもらうぞ」
「な~~?」
モルはアスクを見上げて一言鳴くと、タッタッタッと小屋の入口へと向かった。もちろんエトナに撫でてもらうためだ。我慢して袋の中で息を潜めていたのだから、エトナにはいつも以上に褒めてもらわなければモルの気が済まない。
しかし、モルは小屋の入口の前でピタリと止まった。小屋の中に大好きなエトナがいるのが見えるのに、駆け寄ることができなくてもどかしいといった様子だ。モルは入口の前で右往左往しているばかりで、決して中に入ろうとしない。
アスクはそれを見て、人に懐いてもさすが猫又だな、と思った。
「おまえも本能的に分かるんだな……遠い遠い昔、おまえの先祖の額に、その傷を付けたドラゴンの存在が」
額にある焔型の模様は、猫又の特徴的なシンボルだ。これは太古、一匹の猫又がチェスドラゴンに襲いかかった時の逸話と関係がある。猫又の身の程をわきまえない行動に怒ったドラゴンは、その猫又に罰を与えた。罰とは、額に焔型の傷を残すことだった。しかも、その猫又一代で済む話ではない。猫又の一族が金輪際、ドラゴンに歯向かわないよう、その猫又の子孫代々にわたって額に焔模様が残るように呪いをかけたのだ。
一部の神話学者くらいしか知らないような言い伝えだが、アスクはこれを知っていた。というのも、これまでの一人旅の間に、チェスドラゴンに関わる情報なら何でも収集していたからだ。
「きゅーーん……」
モルは困ったような声を出して、アスクを見上げる。モルとしては、本能が長居してはいけないと警告しているこの場所に残りたくなかった。普段はアスクに対してつれない態度をとるのだが、今は頼れる人間がアスクしかいない。アスクについて行きたいモルだったが、アスクはモルの気持ちを知ってか知らずか、こう言い残した。
「エトナをよろしく頼むぞ」
アスクが去っていく後ろ姿を、モルは恨めしそうに眺めた。
エトナと共に通ってきた道を今は一人で往くアスク。先ほどまでは賑わっていた大通りも、今は店じまいをの支度を始めている店がちらほら見られる。人の行き来も少し少なくなったようで、道を歩きやすい。
目的の場所に向かう途中、アスクは大通りの建物に宿屋を見つけて思った。
(宿屋か……。いつまたラパスの隠密集団の襲撃に遭うか分からないラパスの地で、宿屋を利用するのは気が進まないが……このところ野宿続きだからな。エトナは何も言わないが、慣れない旅に疲れを感じているだろう。……後で、宿の部屋を取りに行くか)
それから、アスクは大通り沿いにひっそりと佇むひとつの店の前で立ち止まった。店というほど立派なものではなく、組立式の店構えは少し押しただけで崩れてしまいそうだ。さらには薄汚れた灰色の布で店全体を覆っているため、ひどくみすぼらしく見える。
(ふっ、アビアのやつめ。相変わらず、客を選ぶ商売をやってるんだな)
薄汚れた暖簾を押しながら、アスクはにやっと笑った。その暖簾には五芒星──五芒星は魔法や呪術を表す──がひとつ、描かれている。
暖簾の中はとても狭かった。机代わりにしている大きめの木箱が一つに、木箱を挟んで小さな樽が一つずつある。どれもこの町のどこかの店から拝借してきたらしい。
樽のひとつに座っている者がいる。老人だ。ローブをまとい、机の上で水晶玉に手をかざしている。アスクが声をかけないで待っていると、やがて老人はゆっくりと水晶からアスクへと視線を移した。
「……久しいな、アスク。あんたがここに来ることは、この水晶に見えていたさ」
「さっき、通りがかった時にこの店に気付いてな。ここで出会ったのも何かの縁だろうと思ってね、こうやって久しぶりに会いに来たんだ。その齢になってもまだ町を渡り歩いては水晶占いをやってるんだな、アビア」
アスクはもう一つの樽に座ると、老人──アビアという名らしい──に笑いかけた。
「これは天職だと思ってるからね。墓場までこの相棒を持っていく羽目になりそうだよ」
アビアも皺だらけの顔をクシャっと曲げて笑うと、目の前の水晶を愛しそうに触れた。
「それにしても、相変わらず客を選ぶ占い屋をしてるのか? こんな貧相な占い屋、アビアの腕を知っているか、余程の物好きくらいしか客が来ないぞ」
「それでいいんだよ。僕は自分の占いに自信と誇りを持っているからね。占いなら何でもいいと思うような客は、こっちから願い下げだね」
「……それに、その、年齢に全くそぐわない喋り方も相変わらずだな。まさか、いつもそんな喋り方で客を相手にしてるのか?」
「バカだな、アスクは。あんただって、人のことを言えないくせにさ。普段はもちろん、老人らしい口調をしてるよ。僕ももう九十歳を超えたからね。……でも、若い時分からの旧友が数十年ぶりに会いに来てくれたんだ。あの頃に戻ったような気分を味わいたいと思って何が悪い?」
「……その言葉、本来ならありがたいと思うべきなんだろうな」
アスクはにやっと笑ったが、同時に一瞬だけ寂しそうな表情をした。もうそんな年月が経ってしまったのか、とでも言いたげな顔だ。
「さて、こうやって僕に会いに来たのはただ昔話をするためじゃないよね。僕に何かを占ってほしい。そうだろ?」
「そうだよ。アビアの占いは昔からよく当たったからな、何かに迷ったときの道標にちょうどいい」
「そういえば、アスクは昔からひょっこり現れては何かにつけて僕に占わせてたよね……タダで。僕の齢から考えるとアスクと会えるのがこれで最後になるかもしれないし、今までのツケを、今耳を揃えて払ってもらいたいところだけど」
「はは、忘れてもらっちゃ困る。パーティーを組んでいた頃、非力な占い師の命を散々助けてやったのは誰だ? それにパーティー解消後も、借金取りや占いに不満を持った客に追われるおまえを何度か救ってやった覚えがあるんだがな。つまり、俺たちは持ちつ持たれつという訳だ」
「……そう言うと思ったよ」
諦めの溜息をつくアビアを見て、アスクは面白そうに口を曲げた。この老人は昔からこんな調子だ。変わっていないものがあることはいいものだな、とアスクは思った。
「それで今回占ってほしいことなんだが」
アスクが本題に入ろうと口を開いた途端、アビアが手の平を上げた。喋るな、ということだろう。
「言わなくていい。分かってるよ、アスクが訊きたいことは……」
アビアは一度目を閉じた。九十を超えた老人のものとは思えないほど澄んだ瞳が閉じられると、やっと年相応に老いた人間に見える。
「今一緒に旅をしている娘のことに関してだよね」
アスクは重々しく頷く。アビアはそれを見てから、自分の推量を述べた。
「先日、この町に来るためにラパス国の関所を通った時だ。そこにラパス国王の勅命を記した看板があった……『リーストの生き残りの少女を生け捕りにし、少女を連れ去った謀反人の男を討ち取った者に多分な褒美を与える』とね。あの看板に書かれた二人は、アスクたちのことだよね? 本当、穏やかじゃないね」
「それを言うなら、俺じゃなくてラパスの国王さんに言ってくれ。まったく……リーストの町は自国の領地じゃないくせにな。ラパス国がしゃしゃり出るとは俺も思ってもみなかったぜ。まあ、油断はしてなかったけどな」
「それだけ、その娘は重要な存在なんだね。ラパスがこうじゃ、アスクたちに降りかかるものが他にもありそうだ」
「……ああ。エトナ──娘の名だが──を連れた旅は、もうすぐ一ヶ月になろうとしている。追跡者や襲撃者に場所を特定されないよう常に移動するよう心がけていたんだが……これまでに二回の襲撃に遭った。肝心なのは、どちらも一歩間違えればエトナを死なせていたことだ……」
そう説明しながら、アスクは白装束のドラゴニア二人組、それにラパスの隠密集団と闘った時のことを思い出した。
金色に光る左目と全身から噴き出す烈風──
エトナの目の前でこつぜんと消えた岩──
「どちらの時も、アスクの“例”の力とエトナの謎の力にかろうじて命を救われた、ということだね」
アビアはいつの間にか水晶に手をかざし、水晶の中に何かを見ているように話す。
「そして、まだ旅を初めて一ヶ月かそこらだというのに、こうも危ない状況に遭っていては、この先の旅が不安で──エトナをずっと守っていけるかどうか頭を抱えている。そこで、どうすればこの悩み事を解決できるのか僕のもとへ相談に来た、という訳だ」
アビアは顔を上げ、にっと笑った。
「まいったよ。アビアの前では隠し事はできないな」
アスクは観念したかのように苦笑する。
「おまえの言った通りだ。リーストの事件が世に出始めた頃からこの調子じゃあ、これからも俺たちを追う者がどんどん増えていくに決まっている。──ラパス国で勅命が出たようにな。そんな状況の中で、行先を案じない方がおかしいさ」
「なるほどね……」
アビアは目を細めて、目の前で溜息をつく銀髪の男を見遣った。
「でも、どうしてエトナのことをそこまで庇うんだい? 昔、仲間だった──彼女を失ってからはずっと、人を遠ざけていたのにね。エトナをリーストから連れ出し、追っ手から守るために一緒に旅に出たのは、自分の“例”の力を解くための手がかりを得るため?」
そう問われて、アスクは心の中で自問してみた。アビアに嘘をついても、どうせ見破られる。
(……正直に話してしまおう)
アスクはひと呼吸置くと、ゆっくりと口を開いた。
「初めはそのつもりだった──チェスドラゴンのたった一つの手がかりだ、俺の願いにつながるかもしれない大事な『道具』を他の誰にも渡すものか、と思っていた。……だが、今はそれだけの存在ではなくなり始めている。自分がエトナとの会話で笑っているのに気が付いた時には、ほとほと自分に呆れ果てたくらいだよ。……あいつは他の人間とはどうも違うらしい。何かこう……あたたかいものに触れているような────」
アスクがこれほどまでに自分の心の内を話せる相手は、今の世ではアビアだけだろう。自分の弱みを人に見せることを極端に嫌うアスクが、こんなことを言葉にしたのだ。アビアは少し驚いた。やがて、顔をくしゃっと丸めて微笑む。
「そうか……そうなんだね。エトナは長い年月によって凍ってしまったあんたの心を溶かし始めてるんだ……」
目に光るものを手で拭うと、アビアは改めてアスクを見据えた。
「あんたの口からそんな言葉が聞けて嬉しいよ。──よし、僕がアスクとエトナのために一肌脱いであげるよ。もちろんタダでね」
アビアは力を込めた両手を水晶にかざしながら、何かを念じ始めた。しばらくすると、アビアは閉じていた目をうっすらと開けた。水晶の中に何かが見えたのだろう。
「──絶壁にそびえる塔と、一角獣の紋章。つまりは、『ジール魔法学院』……」
そこで言葉を区切ると、水晶から手を離して膝の上に置いた。
「──エトナはそこに行くといいよ。彼女は類まれな魔法の素質を持って生まれているから」




