第一話:少女とドラゴン
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────アルト・チェスキー・ティータ・ドラゴン。
ある時代のある場所に、ドラゴン種族が生きていた。
人類がドラゴン種族を確認してから何百年の歳月が流れ、その歴史の中で人々は幾度となくドラゴンを捕獲しようと奮闘してきた。しかし、ドラゴンを捕らえることは無論、近づくことさえ人間には不可能であった。
というのも、ドラゴンが人智を超えた頭脳とあらゆる生命の頂点に立つ絶大な力を持っていたためであった。
このため、生態不明なドラゴンは人々の間で謎多き神秘的な存在となっていった。
滅多に人間の前に姿を現さないドラゴンをたまたま目撃した幸運な人々は、ドラゴンという存在は全知全能なのではないかとさえ思った。次第に、人間たちはドラゴンを敬い畏怖するようになった。
人々は尊敬の念をこめてアルト・チェスキー・ティータ・ドラゴンとその名を付け、日常の中では「チェスドラゴン」と簡略化して呼び親しんだ。その名の由来として、人々の言葉でアルトは「最も高い」、チェスキーは「高貴な」、そしてティータは「不老不死の」という意味を表している。
人々がそう名付けたのには理由があった。
────人間がドラゴンの血肉を食すると不老不死の力を手に入れることができる。
これは先祖代々伝えられてきた伝承である……。
この物語は、人間がチェスドラゴンという種族を神として崇拝するようになって久しくなった頃の人々の話である。
見渡す限りの一面に広がる大地。
その大草原に強い風が吹き付ける……。
しかし、この風は決して自然が作り出す風ではなかった。それでは何が作り出した風かというと────。
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大草原が広がるその大地に、一つの小さな町があった。
この町は人口が五百人程度の小規模な集落で、リーストの町といった。
人々の暮らしの場である民家、それに露店が立ち並ぶ市場には人々が生活を営む姿が見られ、そんな様子は他の町となんら変わりはない。
しかし、リーストの町が余所の町と明らかに異なる点──それは、町の中心部にそびえるドラゴンの礼拝堂であった。
礼拝堂は町の中で一番高い建物で、頂部には大小一つずつの尖塔が空に向かって伸びていた。礼拝堂の正面扉から中に入ると、石造りの床と壁に囲まれたホールによって迎えられる。ホールを真っ直ぐ突き進んだ所には、一つの巨大な銅像がひっそりと佇んでいる──チェスドラゴンの像だ。床から天井まで十数メートルはあるだろうか、この銅像の上で手を伸ばせばなんとか天井に手が届くのではないかと思うほどにそれは大きい。
チェスドラゴンの銅像を見てまず目を引くのは、頭部だ。ドラゴンの偉大さを誇示する二本の鋭く尖った角、口腔には一度食いついたら離さない牙が付いている。
背中には、頭部の二本の角の間から尾──地面に着いている尾は、なんと体長の約二分の一を占めている──の先までを豊かなたてがみが走っている。まるで炎が踊っているかのようだ。そして、その巨体を大空へ飛び立たせるためのずっしりとした一対の翼が、今にも飛び立ちそうに大きく広げられている。
すらりと伸びた四本の脚は美しいと同時に、それぞれに付いている鋭い鉤爪が恐怖を呼び起こす。全身は鱗に覆われており、鱗の一枚一枚が人間のこぶし大である。
そして最後に、ドラゴンの体で何よりも特徴的なのは、見るものを凍てつかせるその両眼だ。チェスドラゴンの眼はこの世の如何なる生物でさえ圧倒し怯えさせる。そんな鋭さを持っているのだ。
このように、まるで生きているかのように精微な銅像は、ドラゴンを見たことのある先祖によって作られたのであろう。これは町民のドラゴンへの信仰の中心となっている。
実際に、人々は毎夕礼拝堂に入れ代わり立ち代わり訪れては、ドラゴンの銅像の前で祈りを捧げる。
熱心に祈る人々は、怪我や病気にかかることもなくその日を無事に過ごせたことを、衣食住に満たされていることを、チェスドラゴンに感謝するのだ。そして明朝には、普段と変わりなくその日を無事に過ごせることを祈るために再び訪れるのだろう。
また、町民の冠婚葬祭などの儀式もこの礼拝堂で行われる。例えば、婚礼の儀式で新郎新婦はチェスドラゴンの名の元に愛を誓い、葬儀では死にゆく人の魂はチェスドラゴンの御前に還っていくと諭される。
このように、リーストの町民にとってドラゴンへの信仰は生活の中に深く根ざしていた。
その信仰心を人々の前には姿を現さないドラゴンに知らせるために、人々は「ドラゴン祭」なる三日三晩続く盛大な催しものが一年に一度開く。
この日もドラゴン祭の最終日であった────。
いつもと変わらない様子でその年の祭りも終盤に差しかかった頃、町の者はこぞって礼拝堂の前の広場に集まった。
礼拝堂の前には百人規模の人だかりができ、皆で何かを囲んで興味深そうに見ている。大人数で囲むので、出遅れた者は後ろの方で溜まるしかなく、ほとんどそれを見ることができない。何とかして見られないものかと、もどかしそうに人垣の間からベストポジションを覗き探している者もいる。
「おおーーっ」
何か起こったのだろうか、それまで静かに見守っていた人々が歓声をあげた。ざわめきたった。
老若男女、皆が口々にその光景を神のなせる業だと言い、最後にこれはすべてチェスドラゴンの力によるものだと締めくくった。
────この時、リーストの町に強い風が吹き付けた……。
まるで嵐がきたのかと思うほどの烈風。
屋外で開かれる宴のために用意されていた料理の入った皿やグラス、酒瓶が軽々と吹き飛んでいく。粉々に砕ける音と、物と物がぶつかり合う音が辺りに響いた。
人々は急な突風に驚いて、一斉に空を見上げた。その時、人々は更なる驚愕を感じるしかなかった。
人々が目にしたのは────自分たちが崇拝してやまないチェスドラゴンだったからだ。
固まっている町民たちの真上で、一匹のチェスドラゴンが停空飛行をしている。礼拝堂の銅像に違わぬ、ずっしりとした翼で。
一回の羽ばたきごとに真下にいる人々は突風に見舞われた。軽い女子供は吹き飛ばされ、物や家屋の壁に叩きつけられ、大の男でももはや直立して立っていることはままならない。
リーストの町では、その目でチェスドラゴンを見たことのある者はもう百年以上もいなかった。だからこそドラゴンの突然の来訪は、自分たちの熱心な信仰がドラゴンに届いたのでは、と町人を喜ばせたであろう──もしこのままドラゴンが大人しく去ったのであれば。
しかし、チェスドラゴンは人々が予想もしない行動に出た。
その巨大な口が開かれると同時に、灼熱の炎を吐き出したのだ。
ドラゴンの体内で圧縮された爆発的な熱エネルギーが、リーストの町に襲いかかる。
広場に集まっていた人々はひとたまりもなかった。炎が生んだ爆風で体が粉々に吹き飛ばされる。その次の瞬間には、町中の家々も次々に音を立てて崩れていき、炎に舐められていく。
こうしてドラゴン祭で賑わっていたリーストは、一瞬にして惨劇の町になったのだった。
「な……なぜなのだ?」
「なぜチェスドラゴン様は、我々を滅ぼそうとなさるのか……?」
チェスドラゴンという種族は本来温厚な性格のはずで、理由なく人々に危害を加えたことなど人間の歴史上一度もない────それを知っていたリーストの人々は消え失せる意識の中で、なぜ自分たちがドラゴンに滅ぼされようとしているのかが理解できずにいた。ドラゴンに何か不利益なことを与えているどころか、彼らを神として崇め、その信仰心を忘れずに生きてきたはずなのに……。
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人々の信仰心も虚しく炎によって全てが焼き尽くされようとしているなか、二本の足でしっかりと歩くひとつの人影があった。
それは、銀髪の青年だった。
彼の髪は炎に照らされてギラギラと輝き、年は二十歳よりかは少し若く見える。いつでも抜けるように手に握られている細長の剣と、着古してボロボロになった格好が、旅慣れていることを示していた。
青年は辺りを警戒しながら、しかしこの町の惨状に怯えることなく、真っ直ぐと町の中へと歩を進めていく。
不意に立ち止まると、町の中心部──今は激しく燃え盛っている礼拝堂──を鋭い眼光で見据えた。
「確かに感じる……奴の気配が……‼」
青年がそう言い放った瞬間。
礼拝堂の陰から、炎を吐き出しながら巨大な尾で礼拝堂の尖塔をなぎ倒す深緑色の巨体が現れた。青年が探してやまなかったチェスドラゴンだ。
「向こうか!」
青年は礼拝堂に向かって走り出した。
半壊した礼拝堂にたどり着いた青年は、チェスドラゴンの姿を探した。つい先ほどまで狂ったように暴れていたドラゴンの姿がないのだ。青年の心に焦燥感が生まれ始めた。
「どこに行った……!」
(──もう少しというところでドラゴンを追いつくことができたのに)
青年はたまたまこの町の近くを通りかかった時にドラゴンが飛来するのを目撃した。なんという偶然だろうか! 今までいくらドラゴンの情報を求めながら旅を続けてきても、実物のドラゴンにお目にかかることは滅多に無かったのに。
だからこそ、ドラゴンを探し求める旅に出ていた青年は突然現れたチャンスに望みをかけた。すぐにドラゴンの後を追ってこの町にやって来たのだ。簡単に諦められるはずがない。
その時、わずかだが、青年が今立っている礼拝堂正面の反対側──裏庭の方だ──から物音が聞こえた。
「…………!」
青年は考えるよりも先に、体が動いていた。礼拝堂の正面から、ドラゴンによって地に崩し落とされた尖塔のすぐ横を通って、礼拝堂の裏に出た。
ここは本来、庭師によって端正に整えられた素晴らしい花園だったに違いない。しかし今はもうその姿はない。花々は燃え散り、木々は地に倒れている。
この凄惨な場所で、青年はついにチェスドラゴンと相対することができた。
青年はドラゴンを見て、驚愕した。
つい先ほどまで暴れていたドラゴンが、今は地面に伏してじっと大人しくしているのだ────一人の、幼い少女の面前で。その姿はまるで、少女に平伏しているか、少女と内緒話でもしているかのようだ。
──とにかく、ドラゴンの狂気は収まり、普段の温厚な様子に戻っていた。
青年は、ドラゴンと鼻先で向き合っている少女を見た。
白いワンピースを着たその少女は、細かく震えながら──巨大なドラゴンを前にしては、十歳ほどの少女では当たり前のことだが──地面にへたり込んでいる。腰が抜けて立てない様子だ。
この異様な光景を目の当たりにして、青年は自分が正気かどうかを疑った。
(俺は……夢でも見ているのか……?)
ドラゴンは人をむやみに攻撃することはないが、警戒心を持たずに人に近づくことも決してないのだ。それが今、人間、しかもまだ小さな少女の前で、大人しくうずくまっている。青年には、異様だと表現する以外に言葉が思いつかなかった。
そうしているうちに、ドラゴンは青年に気付いたようにチラリと視線を送った。
──そう、それは一瞬のことであった。だが、その視線を浴びた瞬間、青年の背筋に悪寒が走った。いや、まるで石化の呪いをかけられたかのように体中が硬直したと言った方が正しいだろう。実際には数秒のことだったが、青年には数時間にも感じられるほどだった。
次の瞬間、周りに散乱していた町の破片が烈風で吹き飛んだ。ドラゴンが翼を広げて飛び立ったのだ。ドラゴンはしばらく少女の方に目を遣ると、その後は何事も無かったかのように大空の彼方へ飛び去っていった。
──そして嵐のような烈風が止んだ。
「──────っっ!」
ドラゴンがいなくなってから、青年はようやく呼吸をすることができた。それと同時に、身体の強ばりも解けた。息も絶えだえに、その場に崩れ落ちる。
(やはり本家の睨みは違うな)
町は滅ぼされ、自らは視線に射られ、決して笑っていられる状況ではないのに、青年の口角が嬉しそうににっと上がった。
(今までは追い詰めても追い詰めても行方をくらまされるばかりだったが……)
青年は、いまだ震えている少女を見遣った。
(今回は重要な手がかりを手にすることができた)
青年がそんなことを思っていると、背中を向けて座り込んでいた少女がゆっくりとこちらを振り向いた。両側頭部を白いリボンで結われた黒髪のおかっぱが、震えのせいで小刻みに揺れている。
少女はまだ恐怖が抜けきらないようで、クマらしき縫いぐるみを胸の前でギュッと抱いている。血や煤で汚れた顔には、周囲の熱気によって蒸発した涙の跡が残っていた。
怯えきった大きな瞳で青年を捉えた少女は、ただ一言呟いた。
「……た……すけて……」
そう言うなり、少女は前のめりに崩れ落ちる。
「!」
青年はまだ上手く力の入らない体を無理矢理起こして、少女の元に駆け寄った。
「……おい!」
声を掛けたが返事はない。青年はその場に座り、少女を抱き起こしてみた。
少女の胸が緩やかな一定のリズムで動いている。ただ気絶しているだけのようだ。ドラゴンがいなくなり、今まで張り詰めていた緊張が緩んだのだろう。
少女が無事なのを確認して、青年は安堵のため息をついた。
(手に入れたと思ったドラゴンの手がかりに、いきなり死なれちゃあ困るからな)
だが、安心している暇はない。今もドラゴンが放った炎が町中を廻っている。ゆっくりしていては、炎に囲まれて町から出られなくなってしまう。
炎の町から脱出を試みるべく、青年はまず近くにあった園芸用の木製バケツを抱えた。中にはちょうど水がたっぷりと残っている。
青年は迷う事無く、バケツの水を頭から浴びた。目に落ちてきた銀髪を掻き上げると、眠ったままの少女をしっかりと抱きかかえた。少女に飛び火しては困るので、着ていたマントで自分の体だけでなく少女もしっかりと覆う。
そして、青年は炎の中に向かって走り出した。