第1話 「魔王が倒されても、俺の腹は満たされないという話」
「ああ、しんどい」
腹が減った。腹が減って、指一本動かす気になれない。二三日前から、もうずっと、何も食べていない。ここ数日は、とにかくエネルギーの消費を抑えるため、オンボロベッドの上で天井を見ることに専念していた。でも、もう限界だ。何かを食べなければ。
カビっぽい布団をはねのけ、窓の外を見る。太陽の光がサンサンと降り注ぎ、街ゆく人々の生活を照らしている。
遊び、走り回る子供達の笑顔
肉屋の前で、噂話に花咲かせる妙齢の女性たちの談笑
花屋の前で、これから始まる恋に思いはせる若い男と女
この窓の外の風景は、まさに幸せそのものの光景だった。魔王も魔物もいなくなった平和な世界は、なんと眩しい光を放っているのだろうか。こんなにも、明るく幸せな世界の中で……ああ、俺には仕事もないし、金もない。カビ臭い宿屋で、布団に包まって、いじけているだけ。なんという、惨めだ。
ゆっくり体を起こした。ベッドから、降りるとミシミシと木の床が軋む。空腹でおぼつかない足をひきづりながら、枠にヒビの入った鏡の前に立つ。鏡の中の自分は、痩せこけた髭面。酷い顔をしていた。
さあ、久しぶりに外に出よう。それならば、こんな姿でいられるわけがない。
秘蔵の、甲殻魔獣の泡(小瓶銀貨3枚)でヒゲを剃る、
奥の手で用意していた、祝福を受けたアーツ山脈の水(大瓶銀貨5枚)で、ボサボサになった髪の毛を、しっかりと整え、
古の、妖精の涙で(小瓶銀貨10枚)お肌をツヤツヤに、
鏡に写った、自身の姿を、改めて見返す。少し頬がこけたようだが、それでも、目鼻立ちくっきり、顔は美しく整っている。
肌にはシミも、あばたの1つもなく、
髪の毛は、天を突き、太陽の光を受けて黒々と光輝いている。
手足は針金のように細い、ビューティフルでスレンダーな体型。
チャーミングポイントは、蛇のような、切れ上がったシャーブな瞳、
「ふっ、この俺に残されたのは、この美しさだけというわけか」
鏡の中の俺に、一発ポーズをとってから、
クローゼットを開く、ズラリと整然と並んだ、全く同じ赤色の軍服、そのうちの一着を手にとる。軍の払い下げだが、派手なデザインで結構気に入っている。
宿屋の食堂には、俺以外には誰もいない。窓もないので、昼間にもかかわらず日の光がない。カビ臭いし、机や椅子もボロボロ、一番はじの机なんて足が一本くさってるし。壁は、軽く拭っただけでごっそりホコリが手につく。辛気臭いし、汚い最低の宿屋だ。こんな汚い宿屋で食事を摂りたくないが、他にツケで食わせてもらえそうなところもないので仕方がない。
「あいよ、メシだ」
辛気臭い顔をしたオヤジが、ノソノソとスープを持って来た。オヤジは、机の上のホコリを拭い、湯気の立つスープ皿を、机にそっと置く。
俺は、スープの中を覗きこんでため息をついた。キャベジの芯が申し訳程度に浮かんでいる緑色に濁ったスープ……
「おい、オヤジ。勘弁しろよ……」
「金も払わないで、メシを食わせてやろうっつてんのに、文句言うなよ」
「……あとできっちり徴収するくせによ。ゴミで捨てくるようなクズ野菜煮込んで、スープでございっつって金取るのか? 良い商売してんなー、まったく」
「いやなら食わなくていいぜ?」
「馬鹿、食うに決まってるだろ」
ヘドロのようなスープを、無理やり腹に流し込んだあと、いつもの南西側大鐘楼の屋根の上にやってきた。何をするでもなく、ボーっと眼下の街を眺める。 "ヒュー"とそばを通り抜ける強い風が、肌に心地が良い。ここは、魔王がいた時からの俺のお気に入りの場所。大鐘楼の上から見る景色は良い。ここからはミーツァ・ズの街と外の様子が一望できる。
一番大きくそびえ立ち、強烈に主張しているのは、中央部の王族が住む王宮、
街全体を横断する形で流れるレテ川を挟み、
東側には、綺羅びやかな光を放つ、貴族用の高級住宅街、
西側には、多くの市民の活気あふれる、一般市民用商店街と住宅街、
そして、それら全てを囲う"大城壁"と、
大城壁の内側に沿うような形で存在する、スラム、貧民街。
城壁の外に見えるのは、牧場の羊の群れ、風にそよぐ森や川、遥か遠くには神々の住まう山、アーツ山脈。
こうして、全てを見下ろしていると、自分がこれら全てを統べる神になったような気分になって気分がいい。まるで、よくできたミニチュアを見下ろしているようだ。
……しかし、困った。びっくりするほど金も仕事もない……この半年で金借りれそうなヤツには、片っ端から借りてきて、もうあいつら顔も見てくれないしな……
八年前に魔王と魔物が現れて、半年前に勇者が倒されるまでの期間、いわゆる"魔王戦役"と呼ばれていた、あの時は用心棒、運び屋なんだって適当にやって、ガンガン儲けられた。俺も”常勝無敗のザバン”なんてもてはやされて調子にのっていたな……魔王が倒されて、そりゃあ皆幸せなんだろうが……正直俺はあの時の方が良かったかな……
「あー、ザバンじゃない、キャハハ」
もの思いにふけっていたら、突然後ろから声をかけられた。この大鐘楼は兵士以外立ち入り禁止なはずなんだが。背中に目をやると、艶めかしい女の足が高台の縁から覗いていた。この位置からでは足しか見えないが、何かの実が爆ぜたようなアノ笑い声、風にのって漂う強い酒の匂いで、アレが誰だかわかった。
「なんだ、ルーツェか。近づくな、しっし」
縁の奥から、ひょっこりと顔を出したのは、ブロンドの細身の女"ルーツェ"。彼女は、ヒラヒラとたなびくスカートに足をとられながら、よろよろと屋根に降りてくる。……落ちそうだが大丈夫なんだろうか、あの酔っぱらいは。
「なによー、機嫌悪そうだから、気晴らしさせてあげようかなって思ったのにさー、キャハ」
厚ぼったい唇をなぜながら、ルーツェは俺を見下ろす。彼女のヘラヘラと緩んだ顔は酒で上気し、うっすら赤く染まっていた。……肩口で切りそろえられた髪の毛から覗くほっそりとしたうなじ、風でめくれ上がったスカートから見える太もも、だらしなく開けられた胸元。若干気をそそられないでもないが……今はそれどころではない。
「俺は、忙しいんだよ。いいから、どっか行け」
「? あー……キャハハ、なーんだ。無一文か。つまんねえの。いい加減働けよー。服も買い換えろ、昨日も同じ服だったろ」
「うるせえ、今は仕事がないの。あと服はちゃんと毎日着替えてるよ! 同じ服何着も持ってんだよ!」
ふとルーツェのヤツが、懐から刻みタバコを出し、無言で俺の目の前に突き出してきた。無視していたら、グイグイ服にタバコを押し付けてくる。仕方がなく、指先からの術法"トーラ"で火をつけてやった。マッチ位自分で買え。
「仕事変えれば? 飲み屋でもやんなよ、あたし毎日行くからさ。あ、そもそも店作る金なんか、ないのかー。キャハハハ」
ルーツェが一層甲高く笑うのに合わせて、イヤリングがチリチリと鳴る。この女は、顔と体だけは本当に良いんだが、性格と頭がすこぶる悪く、横にいると本当にイラつく。
「……あー、そうだ。アンタに用事があったんだった。実はあんた向きの仕事があってさー」
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