02
オレが幼稚園生の頃、関西で起きた連続殺人事件のせいで集団登校になった。親から聞いたその話を、思い出さずにはいられなかった。
見慣れたはずの通学路には先生や保護者が時々立っていて、歩く生徒達を心配そうに見ている。そんな異様な光景の中、登校班はここまで来た。
学校から近い場所なので色々な班が合流して、普段ならワイワイと賑やかになる。だが、今日は完全に静まり返っていて、まるで葬式の列が行進しているようだ。見回りの保護者や先生に、誰もあいさつすらしない。
六年生が列の前後を担当しているので、オレは一番前を任されていた。こんな状態で学校へ行くことは怖いけど、一番前を任されたという責任があるので、自分を奮い立たせながら歩いている。
いつもならこの辺りで、下級生が他の班の子と話して列が乱れてしまう。毎回注意しているので癖で振り向いてしまった。
もちろん列は乱れていない。思った通りみんな沈んでいて、よく後ろから下級生を注意している冬美も、みんなと同じように暗い顔をしている。
冬美のことは、赤いランドセルを使っている髪が長い男子だと思っているけれど、今だけはか弱い女子に見えてしまった。
そのまま何事もなく学校の敷地内に入ったが、そこにも先生や保護者が見回りで配置されている。事件が学校で起きたためか、通学路よりも数が多かった。
いつもなら敷地内に入った時に列は自然と解散するが、今日に限ってはどの班もそのまま進む。昇降口の前でやっとバラバラになり、それぞれの学年の下駄箱に向かった。
先生や保護者が学校の外をきっちりと見張っているため、校舎の中に大人はいないようだ。
昇降口はいつも以上にうるさい。通学中に押さえつけられていいたものが、溢れ出したかのように誰もが話し始めている。上履きに履き替える時、オレも例外ではなく冬美に話しかけた。
「この二日間、何してた?」
冬美も話したかったのだろう。登校している時にあった、か弱い女子みたいな雰囲気はなくなり、いつもの明るく元気な様子で言った。
「外には出られないから家で漫画読んでたよ」
「だよな。オレはゲームしてた」
火曜日に事件が起きたせいで、水木と二日間お休みになってしまったのだ。
ニュースになり、警察も動いているみたいだが、犯人はまだ捕まっていない。
昇降口では事件について大きな声で話している生徒もいるが、そんな話は聞きたくない。事件に関する単語が耳に入ってきて、本当に気が滅入る。
冬美と一言二言交わしたが、もうこれ以上は何を話したら良いのかわからなくなった。話しかけたのは自分なのに情けない。無言のまま廊下を歩くと、冬美は何も言わずに隣を歩いてくれた。
廊下も相変わらずうるさいが、オレと冬美だけは静かだ。だが、しばらく歩いていると冬美から話しかけてきた。
「そうだ思い出した。貸した漫画早く返してよ!」
頭がぼやけていたせいで、一瞬だけなんのことかわからなかったが、すぐに思い出してハッとした。
「あ! すまん! 忘れてた!」
「はぁ? 忘れてた? 最初の方にあった伏線を確認したいからさっさと返せよ!」
「大丈夫、絶対に返すから!」
「まったく。返すの本当に遅いんだから」
気が付くといつもの二人のようになっていて、そのまま会話が続いた。冬美は自分も怖いはずなのに、オレを元気づけようとしてくれたのだろう。
なんだかんだ言って冬美は優しい奴だ。文句を言いつつも色々な物を貸してくれるし、とにかく面倒見が良い。
面と向かってお礼を言うのが恥ずかしいので、心の中でありがとうと言った。
冬美と一緒に教室へ入る。
室内も廊下と同じようにガヤガヤとしていた。いつもと変わらないような気もするけど、やはり空気が重苦しい。
そんな教室の中で、よく一緒に遊ぶ男子達四人がまとまって話していた。一人はなぜかオレの席に座っていて、他の三人はオレの机を囲むように椅子を置いて座っていた。誰一人として自分の椅子に座っていないのだ。
オレの椅子に座っている奴が、気が付いて話しかけてきた。
「河野、おはよう!」
「おはようじゃねぇよ。オレの席だぞ?」
「細かいことはいいから早くこっち来いよ」
オレの椅子に座っている奴が図々しくふざけたことを言うと、周りの三人が笑った。
「言われなくても行くよ。オレの席だし」
教室の一番後ろに並んだ扉がないロッカーにランドセルを入れると、自分の席まで急いだ。
「とりあえず、どけ。オレの席だ」
「仕方ねぇなぁ」
何が仕方ないのかよくわからないが、友達が席を立ってくれたので、まずは座った。少し前まで人が座っていたので、変に温かくて気持ち悪い。
席から追い出した友達は特に椅子を持ってくるわけでもなく立ったままだ。そのまま、五人での会話が始まった。
最初はゲームやアニメの話をしていたが、段々と事件の話題へと変わっていく。事件の話になると口が急に重くなったかのように、何も言えなくなってしまった。
オレ以外の四人が口々に喋る。
「本当に異常だよな。皆殺しだからね」
「一匹残らず殺されるなんてね……」
「ウサギは一羽じゃないか?」
「今はどっちでもいいって。そんなことよりさ、動物の後は人間が殺されるって話を聞いたんだ。もしかしたら、殺人事件が起きるかもしれないよ」
「うわぁ……怖い」
確かに人間が殺されることも怖い。でも、それ以前に飼育小屋のウサギが殺されてしまったことが辛かった。
どうして罪のないウサギ達がこんな目にあうのか。
恐怖だけでなく怒りや悲しみなど様々な感情が混ざり合い、もう声すら出せなかった。
「大きい声じゃ言えないけど……ちょっとヤバい噂話を聞いたんだ」
立っている友達が少し小さな声で言うと、オレの机に近づいて前屈みになった。他の三人も椅子をオレの机に近づけて身を乗り出す。内緒話をするフォーメーションが完成すると、立っている友達はさらに小さい声で言った。
「魔女が時々ウサギ小屋の前に立っているのを、何人も見た人がいるんだよ。だから、あいつが犯人……」
笹野さんがウサギを殺すなんてことは、絶対にありえない。普通に話す時と同じボリュームで、思い切り言ってしまった。
「くだらねぇこと言ってんじゃねぇよ。バカか」
言葉を遮られたのが嫌だったのか、立っている友達は少しムッとしているようだ。
「いやいや。どう考えたって怪しいし、やりそうだろ」
チャイムが鳴って、先生が教室に入ってきた。みんな一瞬で静かになり、自分の席に座る。良いタイミングだ。これ以上、笹野さんの悪口を聞かなくて済むし、喧嘩にもならない。
それから緊急全校朝礼が行われて、校長先生が二つのことを禁止した以外は、いつものような日常が始まった。
校長先生は、ウサギの事件について話すことを禁止した。傷ついたり怖がったりする生徒のためらしい。
その後、誰も事件の話をしなくなった。
普段は言うことを聞かない生徒も、校長先生が言ったとおりにしていて、まるで事件のことなど忘れてしまったようだ。それもそれで気味が悪い恐怖を感じる。
何者かによって命が奪われたとしても、みんないつかは忘れてしまう。そんな冷たくて嫌な体験をした気になってしまった。
笹野さんのことは何度も頭によぎり、その度に胸がズキズキ痛んだ。誰よりもウサギが殺されて傷ついているはずなのに、裏では変な噂のせいで犯人扱いまでされている。その事実が何度も心を針のように刺した。
日頃から話していれば、何か声をかけることができたかもしれない。でもペットショップが最初で最後で、あれから一度も会話をしていない。今更もう無理だろう。笹野さんのことをチラッと見て、すぐに目を逸らすことしかできなかった。
事件がまた現れたのは、昼休みになってからだ。
給食の時間が終わり、先生は教室を出て行った。いつもならみんな校庭で遊ぶが、今日はそれができない。校長先生が全校朝礼で外遊びを禁止したのだ。高学年の先生達が外を見回りしているので、こっそり校庭に行くことも出来ない。
みんなそれぞれの仲良しグループで机をつけて給食を食べていたので、そのまま話し始めて教室はとても賑やかだ。
朝はちょっと嫌な感じになってしまったけれど、今朝のことは気にせずに、オレ達もくだらない話をしながら笑い合う。
それでも吸い寄せられるように、オレ達の机と真反対の窓際に目を向けてしまった。まるで孤島のようになっている席に、黒服の笹野さんは何もせずに座っている。鼻や顎のラインは綺麗なのに、長いまつ毛の目は今日もだるそうだ。
笹野さんはこの事件のせいで本当に辛いはずだ。今、何を考えているのだろうか。
笹野さんについて悩み尽くしてしまったけれど、なんだか悩んでいたい自分がいる。
その時、金原が笹野さんの机に近づいてきた。
学年で一番背が高くて一番重いその身体から、殺気が溢れ出ている。笹野さんが座っている席のすぐ横に止まり、金原は教室が静まり返るくらい大きな声で言った。
「おい、魔女! ウサギ殺したの、おまえだろ!」
笹野さんは金原の方を向く。怠そうだった目を大きく見開くとすぐに下を向いた。細い身体が小刻みに震え始める。
これはまずい。止めなければ。
金原は正義感が強くて良い奴だが、それが悪い方向に出ている。変な噂を信じているに違いない。
オレは急いで席を立ったが、金原はドスが効いた声でさらに言った。
「目ぇ合わせて自白しやがれ! てめぇがウサギ小屋にいたの、俺も見たことあるぞ! 殺そうと思って見てたんだろ!」
金原は声変わりしているので、怖い先生と同じような気迫がある。それに負けないような大声を出しながら、走って金原に近づいた。
「何やってんだよ、金原! やめろよ!」
金原の鋭い目がオレに向けられた。男子のオレでも殺されるのではと思うほど怖い。笹野さんは、女子だからもっと怖いだろう。近づくと問答無用で殴られそうなので、殴れないギリギリの距離でオレが止まると、金原は唸るように言った。
「怪しい奴を問い詰めて何が悪いんだよ。こんなやべぇことしそうな奴、学校に魔女しかいないよなぁ」
「少し落ち着けって。証拠もないのに疑うなよ」
「だったら、魔女がやってねぇ証拠あるのかよ? あの気持ち悪さが証拠なんだよ!」
やっていない証拠はある。ペットショップでの出来事だ。本当は動物好きだとわかってくれたら、きっと金原も納得する。
だが、笹野さんがあの時に言った言葉が、オレの口に蓋をした。
『今日、私とここで会ったこと、誰にも言わないでほしいの』
ダメだ。言えない。
黙り込んでいると金原は笹野さんを向いて言った。
「こいつ何も言わないよな? 言い返さないのもやってる証拠だろ? 普通は言い返すだろ!」
「それは、おまえのことが怖い……」
言い終わらないうちに、別の男子が大袈裟な声で言った。
「僕も魔女が怪しいと思いまーす」
他の男子達も笹野さんに対する疑いや、もはや全く関係ない悪口を言い始めた。
「服が黒いのは血を誤魔化すためじゃねぇの?」
「このウサギ殺しが!」
「学校来るな! キモいんだよ!」
「おまえが死ねよ。魔女!」
笹野さんはとにかく男子から嫌われていたので、みんな言いたい放題だ。完全に歯止めが効かなくなっている。
「おまえらもやめろよ! みんな落ち着け!」
オレの声は誰の耳にも入っていない。さらに男子の一人が席を立ち金原の後ろにつくと、他の男子達も同じように動き出した。
「ちょっと待てよ……おまえらまで……」
仲良くしている四人さえも金原側についたのだ。
男子全員が金原の後ろについて笹野さんに罵声を浴びせている。クラスで一番おとなしい男子は口を開いていないが、彼ですら金原の後ろにいた。
笹野さんはもう震えることさえ出来ず、まるで死んでしまったようだ。
誰も味方がいないことはショックだが、いつまでも絶望していられなかった。オレがどうにかしなければならない。
もうここまできたら出来ることは一つだ。中心になっている金原をボコボコにして黙らせよう。やるしかない。
覚悟を決めて距離を詰めた時だ。男子達の酷い言葉の嵐でも消せないくらいの、甲高い怒鳴り声がオレの後ろから聞こえた。
「あんた達! 静かにしなさい!」
罵声は一瞬で止んだ。オレも含めた全男子は、声が聞こえた方へと振り返る。
やはり冬美だ。冬美が鬼のような形相で男子達を睨みつけていたのだ。
「寿の言うとおりだよ。あんた達、最低だよ!」
すると今度は女子の一人が冬美の後ろについた。つられて他の女子達もつき、教室は男女で綺麗に分断されたのだ。
今度は冬美と仲が良い気の強い女子達が、男子達に罵声を浴びせる。金原もここで引かなかった。近くにある机を思い切り蹴飛ばし、雷のような声で言う。
「女は黙れ!」
オレは大きく息を吸い込む。
「黙るのはおまえだろ!」
元々殴る覚悟を決めていたので、自分でも驚くくらいの怖い声がすぐに出た。金原の後ろにいる男子達は目を逸らしたが、当の本人がそれで引くようなことはない。
「河野ぉ! てめぇ、なんのつもりだ、クソが!さっきから女の味方してんじゃねぇよ!」
「は? 女の味方とかそういう話じゃねぇだろ!金原! おまえ、頭おかしいんじゃないのか!? 笹野さんは絶対にやってない!」
「魔女が犯人だったらどうすんだよ!」
金原は意地でも笹野さんを犯人にしたいようだ。何故、ありもしない罪をそこまでして押し付けるのか理解できない。
これ以上、言い合っても無駄だ。今、殴りに行くしかない。
だが、覚悟を決めた瞬間に出来なかったせいで、変に冷静になってしまった。学校最強の金原と殴り合いの喧嘩をしても、オレに勝ち目はない。
一体、どうすればいいのだろうか。
「河野ぉ! どうするか言えよ!」
ペットショップでの笹野さんのことを、今すぐ教えてやりたい。でも、絶対に言えない。せめて、オレがどれだけ本気で笹野さんがやっていないと思っているのか、それだけはわかって欲しい。
そうだ。これならどうだ。もうこれしかない。
「笹野さんが犯人だなんて絶対にありえない。もし犯人だったら……責任とって死んでやるよ」
「はぁ? おまえマジで言ってんの?」
怒りに震えていた金原が、呆れて引いている。金原の後ろにいる男子達も似たような反応だ。冬美が何か言った気がしたが、そんなことは無視して畳み掛けるように金原を怒鳴りつける。
「マジだ! みんなの前で教室の窓から飛び降り自殺してやるよ! その代わり、もし笹野さんが犯人じゃなかったら土下座しろ! オレ達二人に、みんなの前で土下座しろ!」
さっきまでの呆れた顔と打って変わって、金原はオレを睨みつけた。
「土下座くらいしてやるよ! でも、もし魔女が犯人だったら本当に死ねよ!?」
「いいよ。死んでやるよ! 絶対に死んでやる! おまえこそ、約束忘れるな!」
当然と言えば当然だが、オレが自殺することはなかった。ウサギの事件は何のドラマ性もなく、翌日の土曜日にあっけなく終わってしまったのだ。