生き方
中3男子が書いたものなので優しい目て見てもらえると幸いです。
「人には人の生き方がある。」誰かがそう言った。そんなの当たり前だとかなんとかかんとか言っても事実なのだ。現に私もそう思う。生き方というのは多種多様である。自堕落な生活を送る人、きっちりまめな生活を送る人、中途半端に生きる人、人に迷惑をかける人、かけない人といったようにここで表せられないほどに人の生き方はある。だからと言って自由に生きすぎるのが駄目だ。とも私は言わないかもしれない。つまり生き方とはそう簡単に自分でも他人でも変えることのできない人の本質なのかもしれない。
生き方と言っても生活だけではない。私はそう思う。例えば、生きた証*を残したい人。生きた形*を残したい人。何かに従って生きたい人。もし、○○の様に生きたいと思う人。何故生きるのかと探す人。生きてさえいればいいと考える人。
※ここでいう生きた証は何かしらの功績を修めたり、歴史に名をのこすこと。形は絵画や文学、芸術を修めた人を指す。
正直上で挙げたように色んな考えの人が居る。でも私が思う個人的な生きかたというのは名が残らなくても、骨も何も残らなくても誰の中だけでもいいから自分が一瞬でも存在していたいう記憶があればいいかもと思っている。微かにでも残っていればいい。それがいい記憶でも悪い記憶でもはたまた中途半端な記憶でもいい残っていたならば。つまりそれは、いつの間にか相手、そして自分すらも気づかない内に記憶や印象という目に見えない自己表現という何かを作り出し、自己表現がてきているのだから。だから私は生きる事と記憶に残る事、自己表現をする事の3つのことは全て線か何か分からないがきっと切っても切り離せない繋がっていることだと思う。だって上で挙げたように生きたという事は記憶に残って何らかの事で自己表現をしているから。
つまりこつなるのだ。
人と合う(知らない人でも)→勝手に一瞬でも記憶に載る→(どんな人かは具体的に分からないが)自己表現が自動でできているから。
私は人の生き方には色々あるが自分が存在したということがあれば簡素なものではあるが、生きた証になり得ると思うし誰がなんと言おうとこれが"私"が"私自身"の生き方だったといいたいから。
他にも最初に挙げた様に生活もその一部といえるだろう。甘い密を吸う奴もいれば苦渋、固唾を飲む奴とその人間を観察する事でその人の本質、性格生き方が見えてくるのではないでしょうか。
いかがてしたか。想像していたのと違う可能性が
あると思いますが最後まで見てくださりありがとうございます。