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「馬鹿な……」
思わず、声が漏れた。扉が、綺麗さっぱり消え去っていた。まるで、始めからそこには何もなかったかのように。私はかつて扉があったはずの場所に縋るように触れ、叩き、喚いた。然し、やはりそこにはただ石の壁があるだけだった。
私は錯乱する頭を理性の鎖で縛り上げ、窓枠に嵌め込まれた硝子を叩き割ることにした。然し、どれだけ力を込めて殴りつけようと、硝子の板が砕けることはなかった。剣で殴ろうと、椅子を投げつけようと、まるで時が凍り付いたかのように、不易であった。
「……」
私には魔術や神秘の深い教養があるわけではない。私が魔術について知っているのは、古き言葉を調べる際に不可分的に知らざる得ない知識のみである。故に詳しくは知らないが、【人を食らう館】というのは、物語の題材としては有り触れており、魔術師達は、そういった古き物語から着想を得るものだ。
星の女神の信徒達、盲の巫女達は、顔面の双眼とは別に、本質を見通す神秘の瞳、第三の目を持っていたという。彼女達はその瞳によってあらゆる罪を量る者であり、同時に無慈悲なる断罪者であった。硝子樹の大森林はかつて星の巫女である彼女達が隠れ住んでいたとされる場所なのだ。
彼女達に纏わる話は、星の女神に対する信仰の少なさに反して、とても多い。太陽と月の二大神格への信仰が普遍的なものになった後、星の信徒である彼女達は、他の土着の信仰と綯交ぜにされ、ある種の差別的な扱いを受けた。曰く、星の巫女は多眼の化け物であり、罪人を食らうのだという。彼女達は罪人を自らの館に誘い込むと、その罪業を量り、正義の天秤を傾けたものを食らうのだと。
この館が、事実として星の巫女達の館であるかは分からないが、神秘とは、人々の情念である。そのような噂が流れた結果、それが或る種の魔術的な力を引き起こしたのかもしれない。
私が犯した罪については言うまでもない。窃盗は罪である。例え、それが廃屋に捨て置かれたものだとしても。
私は先程見付けた短剣を握り締めた。未知の霊的な存在を相手にするには、余りにも貧弱な武器であるが、その刃の煌めきは私の心を多少は安らかにした。鉄は魔を祓うとされる。魔術的な見解においては、ただの迷信であるとされるが、この時ばかりは、その効果を信ずる他になかった。
私は出口を求めて館を再探索することにした。だがやはり一階の部屋に目ぼしいものはなかった。或いは、空腹から意識が朦朧としていたが為に、重要な何かを見落としていたという可能性もある。だがいずれにしても、私の魔術的な素養では見付けたところでどうしたという話なのだが。
私に必要なのは隠された真実ではなく、直接的な救済である。
私はまだ探索をしていない二階へ向かうことにした。大広間から螺旋状の階段を登り(私はこの手の幅の広く吹き抜けた階段が好きではない。つまり高所であることを強調するような)上階へと至る。通路の最初の部屋に入ると、私は僅かばかりの悦びを得た。
机の上には、瑞々しい果物が積まれていた。赤く艶やかな果実は、自らを食すように私を誘っている。
正直なことを言えば、私は耐え難い空腹に苛まれていた。無論、このような館に置かれた得体の知れない果物を口にするなど、正気ではないと分かっていたが、何も食さなければ、後数日の内に私は歩くことさえ出来なくなるに違いなかった。
硝子の果実を食すことは出来ないのだから、例え、毒であろうとも、目の前の果実を齧らぬ選択などあろうか。
僅かばかりの躊躇いの後、私は赤い果実に齧りついた。果実は甘く熟しており、渋みはなかった。異様な苦みなどもなく、毒のような異物は含まれていないように思えたが、これは単に私がそう思いたいだけかもしれない。いずれにしても、すぐさまどうにかなるということはないだろう。私は果物を一つ二つ鞄に放り投げると探索を再開した。
結論から言うと脱出の助けになるものは何一つとして見当たらなかった。書庫と思われる部屋では、確かに私は浅はかな興奮を抱き、夢中になって貴重な書物の内容を頭の中に刻み込むことに必死になったが、館から出られないのであればそれも無意味なものである。
私は、私が抱いている恐怖に気が付くと、笑いだしたい気持ちになった。私は、館の化け物に喰われる恐怖よりも、館に閉じ込められたことの方に恐怖を抱いているのだ。外に出たとしても、硝子樹の大森林を抜けることなど出来る筈もないというのに。
私は私の奇妙な錯誤に妙な気分と自信を得た。館にどのようなものが住んでいようとも、何も恐れることはないように思えた。
私は古き神の言葉で封じられた扉の前に立ち、どうにかこの堅牢な封印を解放できないものかと考えていた。この館の中で、私が入っていない扉は、これだけである。この館にどのような神秘が隠されているにしろ、或いは単なる化け物の住処であるにしろ、脱出の手がかりがあるとすればこの部屋に違いない。
扉に刻まれている、古き神の言葉は、魔術的構文によって書かれている。この手の構文において重要なのは、願望規定詞と事象規定詞と呼ばれる楔の二音であり、この扉に刻まれている文字で言うのならば、願望規定詞は【創造】であり、事象規定詞は【鎖ざす】である。
願望規定は魔術の大本となる願いであり、事象規定はその願いの為にどのような奇跡を引き起こすかの規定である。
さて。私が魔術師であったならば、魔術的な意味を解読し封印を解き放つことが出来たかもしれないが、生憎私は魔術師ではない。
そこで、私は扉に刻まれている文字を損なわせることで、扉に掛かっている封印を解けないものかと考えた。私は短剣を握り締めて、文字列を眺める。
この文字列を、強いて訳するのならば、【■■を創造することによって■■を封印する】であろうか。当然、削り取るのであれば、封印の文字だろう。私は短剣を扉に当てた――瞬間、扉を開けようとした時と同じ嫌悪感が体中を駆け巡った。私は明らかにこの蛮行が自殺行為だと瞬時に理解した。
然し、他に方法はない。逡巡の後、私は、【封印】の文字ではなく、意味も知らぬ【■■】の文字を削ることにした。短剣に力を籠めると、吐気を催すような強烈な嫌悪感と忌避感が身体を襲った。甲高い奇妙な鳴き声のようなものが脳内を響き渡る。手が震え、思ったように力が入らなかった。私は、一旦、刃を離し、そして大きく振りかぶって、叩き付けた。
衝撃で手が痺れ、思わず短剣を取り落とした。金属音が鳴り、続いて、硝子が砕けるような破砕音が鳴り響いた。封印が破られたのだと分かったが、同時に、封印の強度に疑問が湧いてくる。些か簡単すぎるのではないか。如何なるものが封じられているにしろ、物理的な損傷によって、簡単に封印が破れるのであれば、風化によって何れ封印は解けてしまう。
だが、その疑問は直ぐに、間違いだと気が付いた。私は、取り落とした短剣が淡い緑色の火を纏っているのを見た。短剣は唯の鉄の刃ではなかったのだ。風の神、その眷属に由来する緑色の火はあらゆる束縛と閉塞を断ち切る、自由の力であるという。
恐らく、此れは、貴人が用いた守り刀だったのだろう。
私は、短剣を拾い上げると、鞘に仕舞い腰に下げた。貴重な品だ。そして、霊的な守りになるだろう。
――愚か者
だが、ふと。
耳元で何かが囁いた。風のような囁きは、幼い少女のもののように聞こえた。私は、困惑し、辺りを見渡したが、人の気配は見付からなかった。
――早く部屋に入りなさい。死にたくないのならば
背後で何かが、蠢くような気配を感じた私は、殆ど本能的に扉を開き、中に駆け込んだ。