10
私は夜の闇を切り裂いて燃え盛る炎を、ぼうっと眺めていた。先程の一件のせいで睡魔は遠く何処かへ行ってしまった。逃れられぬ疲労だけが重く圧し掛かり、私は炎の揺らめきに思考の波を委ねていた。暫くそうしていると、ユースは私に契約の対価を支払うように迫ってきた。
私は疲労から曖昧な思考のまま、頷いて、腰に提げた短剣を抜き放った。炎の揺らめきを刀身が反射して、橙の光を放っている。そして、私は、その刀身の煌めきに尻込みして躊躇った。先の戦いのせいなのか、あるいは、肉体の未熟さが精神にまで影響を与えているのか。刃物を使って己の身体をほんの少し傷付けるだけのことが、私には酷くに恐ろしいことに思えた。
稲妻に撃たれ、黒ずんだに灰なった人間。腕を吹き飛ばされ、血風を撒き散らしながら倒れる人間。恐怖に顔を歪ませながら身体を端から徐々に塵へと変えた人間。先程までの惨劇の光景が、恐ろしくなかったかと言えば、嘘になる。けれど。死と傷に慣れていなかったわけでは決してない。
軍人の戦傷を。病人の腫瘍を。時に刃と火で治療してきたのだ。肉を切り、骨を断ち、内臓を縫い合わせて。
だというのに。
「もしかして、怖いの?」
私は憤慨したが、何も言い返すことは出来なかった。私は何も言わずに、短剣をユースに手渡した。ユースは哀れんだ表情で、私の震える手を見た。
「ごめんなさいね、怖がらせたかしら? 確かに、あまり綺麗な殺し方ではなかったわ。それは、私の領分ではないから」
「……。綺麗であれ、醜くあれ、死は死だ。そこに優劣も善悪もない。彼らが死んだのは…」
「……なあに?」
「……いや、何でもない」
「そう? でもね、ヘレーネ。貴方が不要な後悔を抱いているのなら言っておくけれど、あれらはどうせそのうち、死んでいたわよ。自分の行いに責任が負えない者は、皆、世界を怨みながら死ぬしかないの。自分の行いを顧みるだけの度量がないんだもの。誠実な知性は、誰も恨まないし、何も後悔しない。何故なら、常に自分の行いに、無限の責任を負うものだから」
「そうか。そうだな。そうかもしれない。そして、私は……後悔してばかりだ。何故なら、私は、弱く、誠実ではないからな」
ユースはそれ以上は、何も言わなかった。代わりに、私の服の袖を捲ると、右の手で私の視界を覆った。不意に訪れた暗黒に、私はたじろいで、身を捩ったが、腰に手を回されて、捕らえられてしまった。
「ほら、暴れないで。大丈夫だから」
薄く冷たい鉄の感触が手首に当たる。私の意志に反して、身体が怯えたように僅かに跳ねる。
「切るわよ、動かないで」
ゆっくりと、刃が肌の上を滑り、皮が裂かれ、血が滲む感覚がある。
「んっ……!?」
短剣が勢いよく滑り、刃が深く肌に入り込む。血が溢れ、滴り、腕を伝う。湿った、温かな感触が傷口に押し当てられ、傷口をなぞられる。私は身体が熱を覚えるのを感じ、身捩った。ユースの腕に力が籠り、私を強く捕らえる。私は彼女から逃れる気などなかったが、その強い抱擁は私を安堵させた。
「……うん。もう大丈夫よ」
視界が解放され、恐る恐る手首に視線を向けると、そこには既に傷はなかった。
「……」
私はユースの手から短剣を受け取り鞘に収めると、足早に距離を取った。
「ヘレーネ? 貴方……」
「……なんでもない。こっちを見るな」
「ふうん。重症ね。……そのままでいいから聞きなさい。森に住む長耳の妖精たちは、肉体と精神を切り離す術を持っていて、それによって数百年の時を気を病むことなく生きることが出来るの」
「……何の話だ」
「今の貴方は、肉体と精神の均衡が崩れているのよ。通常、肉体の急激な変化というのは、精神的な苦痛を伴うものだから。肉体は魂の鋳型なんだもの」
そんなことは、分かっている。魂というものは。精神とは。肉体から独立した神聖な不可侵――などでは決してない。寧ろ、肉体に支配されていると言っても良い。我々は塵から生まれ、霊を吹き込まれたのであって、間違ってもその逆ではない。
人は皆、大概の場合、己の形に合った自身を演じるものだ。望もうと、望まざろうと。無意識であれ、意識的にであれ。
「死や痛みに過敏になっているのも、その身体のせい。だから、そんなに気にしなくてもいいわ。だって、今の貴方は、ええ、幼く、健気で、純真な乙女なんですもの。私の配慮が足りなかったわ」
私を慰めようとしているのか。或いは、煽ろうとしているのか。私は笑った。どちらでも構わない。
「胸がこんなにも苦しいのも、この身体のせいか」
「ええ」
「刃の煌めきが、火の揺らめきが、夜空の暗黒が、存在の死滅が、こんなにも恐ろしいのも」
「ええ、そうよ。だから、安心して、今日はもう寝なさい。私の可愛い星屑」
*
夜が明けて、朝日と共に目を覚ました私は、ユースの身体を寝台として眠っていたことに気付き、急いで退けようとした。然し、先に目を覚ましていたユースの腕が私の胴を締め付けたことで、脱出は叶わなかった。
「おはよう、ヘレーネ」
「……おはよう、ユース」
私は、朝が嫌いである。正確に言えば、眠りから覚める、あの億劫さが。頭の内側に靄が掛かり、思考を妨げている。瞼が鉛のように重く、私は、再び眠りに着いてしまいそうになった。ユースは私の頬を引っ張ってみたり、首筋に息を吹きかけてみたり、反応の鈍い私を面白がっていたが、それでも私を覚醒させるには至らなかった。だが、その後に直ぐに、私は後悔して、出来る限り速やかに起床することを心掛けようと誓った。眠気から意識朦朧としていた私を目覚めさせようとして、躍起になったユースの暴走は、二度と御免被りたかった。
私達は身なりを整えると、再び歩き出した。荷物は全てユースが持っている。これは勿論、私の提案ではなかった。私は自身の尊厳と自身の肉体的な限界を天秤に掛けて、尊厳を投げ捨てた。
そんな屈辱的な選択をしたにも関わらず、結局は、最終的にユースが泣き言を言う私を背負って歩くという結末になった。ユースは、丸めた毛布と葡萄酒の瓶を腰に縛り付け、鞄を二つ肩にかけ、その上で私を背負うという、僧侶の新しい修行か何かかと見紛う有様だったが、特に苦労している様子はなかった。然し、瓶が揺れて腰に当ったり、甲高い音が鳴るのが煩わしいようで、時折苛立たしげにしていた。瓶は錬金術師の特有の技法で製造されており、強度の面では安心だったが、魔術的構造のせいで、瓶同士が触れると、特有の不快な音を鳴らした。
私は何とはなしに、ユースの艶やかで美しい髪に触れたくなり、そっと触った。彼女が硝子の棺に横たわっていた時からずっと、触れたかったのだ。気分が害するだろうかとも思ったが。私だけ触られっぱなしでは不公平だと思い直した。それに、ユースは気にもしないだろうと思った。だが、意外なことに、ユースは少し驚いたように足を止めた。
「どうした」
「なんでもないわ。もっと触って?」
ユースは、私が身体に触れることを少なくとも嫌がってはいないようだった。精霊は霊的な交感により力を得るとされるが、物理的な接触でも何かしらの力を得ているのだろう。そうであれ、それが私を害することがないのは、彼女自身の誓約により明白だった。
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