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私は、遠ざかっていく馬車の音をやりきれない思いで、聞いていた。
私は私の正義に従い、無辜の人々を救った。少なくとも、幼く気弱な王や、そして、そんな哀れな王を食い物にしている貴族達よりも多くの人々を。
然し、その結果が、これか。
硝子樹の大森林は、白き女神、星々と純潔の乙女の領域であり、白き加護を持たぬ者が一度を足を踏み入れれば、二度と帰ることは叶わぬという。
言い伝えの真相は兎も角、大森林の入り口は封鎖されており、戻れば私は殺されるだろう。かといって別の方角から抜けようにも、竜の山脈がそれを阻む。私には、竜を打倒できるほどの武力などない。
ああ、或いは、そのような英雄であったなら、私がこのような仕打ちを受けることもなかったのだろうか?
私は悲嘆に暮れ、重い足取りで森の奥へと足を踏み入れた。硝子樹と呼ばれる、透き通る鉱石のような硬質の幹と枝を持つ木々は、私の足や腕を時折傷付けると、血を流させた。然し、余りにも深い悲嘆と絶望は私から痛覚を奪い、それに気付いたのは休憩の為に足を止めて、地面にしゃがみ込んだ時だった。
私は流れる血を見ながら、どこか他人事のように、病の心配をした。王都の大学で学んだことだが、流血が病の元となるのだという。
私が熱心な月と水の女神の信者であったならば、癒しの奇跡も使えたのだろうが、生憎、私は敬虔ではなく、私は如何なる神をも信仰してはいなかった。
夜になり、私は古き力ある言葉を必死に思い出そうとしていた。
かつて大学で学んだ古き神々の言葉。魔術とは異なり、その言葉そのものが力を持つが故に、正しく発声出来るのならば誰にでも扱える。神への信仰も、生まれ以っての才能も必要のない純粋な力に、私はかつて心を惹れ陶酔した。
だが、現実はそう甘くはなかった。
神々の言葉は、そもそも人間が発声できるようには創られてはいない。結局、私が習得できた言葉は一音だけであった。尤も、これは幸運な方ではある。殆どの人間は、一音すら習得出来ぬらしい。だが、私の情熱もそこで燃え尽きてしまい、修練を忘れ、習得してから一年ほどで再び正しい発声が出来なくなってしまっていた。
硝子樹は、熱に強く、決して燃えることがない。故に薪として火を起こすことさえ出来ない。硝子樹の大森林で、凍てつく夜を陵ぐことは難しい。だが、古き神々の言葉ならば、その硝子樹を燃やすことが出来るかもしれなかった。
かつて、私が習得した古き言葉は【火】である。それは、最も尊く、最も力を持つ言葉であるとされる。
私が大学で使用した際には、妖精の一族にのみ伝わる炉でしか融解出来ぬという、妖精の銀を融解させた。恐らくは硝子樹を燃やすことも可能だろう。だが、言葉は既に私を見放していた。私の怠惰が、私を言葉から突き放した。
凍てつく夜気が、私の肌を撫でる。私は凍えていた。然し、それは夜の冷たい空気故でも、彼方遠くで聞こえる背筋を震わせる獣の遠吠え故でもなく、私を此の森へと追放した人々の心の在り方故でもなかった。
私は私の心の弱さに、淀んで濡れた感情を抱いていた。いっそ怒りを抱けたのならば、楽だったのかもしれない。然し、私は私の弱さ故に、彼等の愚かさに、怒りの情を抱くことが出来ないでいた。もしも、私が、彼等の立場であったなら、同じようにしただろうと、そう分かってしまうからだ。
私は、ふと、かつて得ようとして終ぞ得ることのできなかった、力ある言葉の一節を思い出した。
不思議と、それは自然に喉を超え、口から溢れた。何か、言い難い感覚が喉に蟠る。力が身体を巡る感覚があった。或いはそれは、かつて大学で、古き力の言葉を成功させた時の感覚に似ていたかもしれない。然し、結局、私の勘違いだったのか、幾ら待っても何かが起こることはなかった。
そして私は、この凍てつく夜で、眠りに身を委ねることを諦めた。肉体を動かすことが、身体を暖める唯一の方法だった。そして何よりも、この陰鬱な気分を忘れる為の。
もしも、この硝子樹の大森林を抜けることが出来るのならば(愚かしい願望ではあるが)もし、抜けることが出来るのであれば、魔術の大国オルニアスに辿り着く筈である。
オルニアスにある魔術師達の大学には古い知り合いがいる。或いは、私を憐み助けてくれるかもしれない。何時も朗らかに笑っていた友人の顔を思い出す。聡明で美しい女性だった。太陽の加護を受けた金の髪と、蒼玉の瞳が美しい女性だった。
然し、もう結婚している歳だろう。未婚の男がいきなり訪ねては不躾だろうか。
「――」
私は、命の危機に瀕して尚くだらない礼儀を気にしている自分の愚かさを嘲った。盲目的な道徳は弱さであると知ったというのに。馬鹿は死ぬまで治らないというのは、本当らしい。
私は狂ったように言葉を矢継ぎ早に発した。どれもこれもが、かつて私に応じなかった神の言葉だ。その癖に、今となって頭の中に次々と浮かんでくる。言葉は道具に過ぎない。道徳も言葉も国家も学問も。総てが自然にあるものでなく、創られたものに過ぎないのだ。
扱えない道具になんの意味があるのだろうか。信仰などというものが、道徳などというものが、伝統などというものが、正しさを害するのならば、それを排さない社会になんの意味があるというのか。
私は、かつて縋った、そして得ることの出来なかった言葉への未練を捨て去るように謳い、そして走った。――だが、結局のところ、どう足掻いたところで、それを捨て去ることが出来ないからこそ、私は此処にいるのだ。
どれほどそうしていただろうか。地に落ちた硝子の葉が私の脚を切り裂き、幾度となく血が流れ、寒気さえしてきたころ、私は視界に、信じられないものを見た。石造りの建物が忽然と木々の合間に現れたのだ。私は血を流し過ぎて、眠りの内に夢でも見ているのかとも思ったが、皮肉なことに、傷跡から響いてくる淡い痛みがそれを否定していた。
私は歓喜して、思わず声を上げた。漸く寒々しい空気とおさらば出来ると思った。脚に負った傷と疲労からくる鈍痛が報れたのだと。然し、至極真面な思考であったのならば気づいた筈だ。誰も立ち入ることのない大森林、それも神の領域であると噂される迷いの森に、人工物があるわけないのだと。
だが私は、疲れていた。そしてうんざりしていた。何よりも、胸に酷い諦観が在中していて、それを打ち砕くような希望を熱望していた。
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