【アンジェリカ】
生きていることがただ憂鬱。
どうしたら今日一日を乗り過ごせるのか、それだけを考える日々。
まだ十歳の私が、王子とのお茶会のために王宮に向かう馬車の中、父は言った。
「礼儀正しく、笑顔でいろ。それだけでいい」
親子仲はまるで良くない。着飾った私を父は不機嫌そうに一瞥した。
無作法なんてしたこともないのに。
「私には重いのです」
「決まったことだ」
「婚約もですが、ドレスも」
「……ドレス?」
父はジロジロと私を見つめて「そんなに宝石を付けているからだろう」と言った。
苦しい下着と重いドレスを纏い、長い時間を過ごすことは私には苦痛でしかないのに。何度言っても伝わらない。
「私には無理です。一人で立ち続けることも出来ないのです」
「なんだそれは」
「体が弱いのだと思います」
「医師には何人にも見せただろう。誰よりも健康だとしか言われない。恵まれた容姿と健康を持っていてなにが不満なんだ」
「不満はありません。本当なのです……」
「いい加減にしろ!いいか、なにも難しいことを強要していない。笑って過ごすだけでいいんだ、お前にだってそれくらいのことが出来るだろう?」
「……」
父は黙り込んでしまい、何も伝えられない私も口を噤んだ。それが私たち親子の日常だった。
きっと父が正しいのだろう。私はただ笑って居ればいいと言われているだけだ。なのにそれすら私にはたやすいことじゃない。どうして私はこんなにも疲れやすいのだろう。私はあたりまえのことが何も出来ない。
第一王子も私と似ていると思う。
最低限の礼儀は尽くしてくれているけれど、私と居ても楽しそうじゃないし、この時間が早く終われば良いと思っている。
味の感じられないお茶を飲み終わると、お互いに張り付けた笑顔でお茶会を終わらせる。
たったそれだけのことで私には精一杯だった。
もう倒れそうに疲れている。
「顔色が悪いですよ」
「大丈夫……」
廊下を歩いていると、我が家から付いて来てくれた侍女が私に言った。
この侍女は私の体調の悪さに唯一気が付いてくれる人だから、誰よりも信頼していた。
立ちすくんでいる私たちに声が掛けられた。
「どうしましたか?」
廊下を歩いて来た騎士の一人が声を掛けてくれた。
背が高く逞しい体つきの、シルバーブロンドの髪とアイスブルーの瞳の騎士だった。
「お嬢様が体調が悪くて」
「救護室へ案内します」
彼は形式的な礼を取ってから「こちらです」と言った。
(綺麗な人だわ……)
誰かにそんなことを思ったこともなかったのに、吸い込まれるようにその瞳を覗き込んでしまった。
「顔色が優れないようですね」
「大丈夫です。いつものことなのです」
彼は少し不思議そうな顔をしながらも歩き出そうとして、唐突に立ち止まった。
「大丈夫ですか!?」
私がしゃがみ込んでしまったからだ。
「あ……っ」
眩暈がして立って居られない。今日は朝から体調が良くなかった。だけどそんなのいつものことだった。誰に言っても信じてもらえない。もう限界なのに、立っていられないのに、死んでしまいそうに辛いのに、怠けているのだとしか思われない。
「もうやだ……っ」
きっと私はあっという間に死んでしまうのだ。人より弱い体に生まれて、限界がすぐに来てしまうのに、誰にも分かってもらえなくて、酷使した体を早死させて死んでしまうだけなのだ。
悲しい。
十年後に生きている気もしない。せいぜい数年くらいしか生きられない気がする。なのに誰にも分かってもらえない。
ボロボロと泣いてしまうと、「これを」とハンカチが差し出され、「立てますか?」と聞かれる。
首を振ると「救護室にお運びします」と騎士が私を抱き上げた。
浮遊感とともに、がっしりと体を抑える男性の体を感じた。
そんな経験は初めてだった。
目の前に綺麗な顔をした騎士の顔がある。真面目な顔つきから、なんの他意もないことが伝わってくる。
不快感は少しもなかった。
(……温かいわ)
生きることは、辛くて苦しくて、冷たいことばかりだったのに。
(触れているところから、体が温まっていくみたい……)
そうして徐々に体全体が温かい何かに包まれていくみたい……。
何かしらこれ?
幸せとか、喜びとか、上手く言葉に出来ないけれど、私の中にとても嬉しい感情が広がっていく。
(この人は誰なのかしら?)
通った鼻筋の上のアイスブルーの瞳は鋭く、とても賢そうに見える。
めったに見ないくらい美形な人。貴族なのかしら。
でもきっと聡明で優しくて心の清らかな恋人がいるのよきっと。私みたいななんにも出来ない子じゃなくて。
でも……。それでも。
(私、この人が良いわ)
どんな人かも知らないのに。
だって今私、生まれて来て初めて、生きてて良かったって思ってるんだもの。
どきどきして、体が熱い。
毎日生きているだけでやっと。ただ普通に生きるだけで泣きたいほど辛い日々だったのに。
(私……この人に会うために、今まで生きてたんだわ)
そんなことを考えてからクスリと笑ってしまう。
思い込みが激しい怖い女みたい。
私には決められている結婚がある。
誰かを好きになっても結ばれることなんてない。
なのに、この人が良いと思ってしまった。
「……大丈夫ですか?」
泣き続ける私に困ったように彼が言った。
きっと私はいろいろな意味で全く大丈夫ではないと思うわ、そう思いながらも、少しだけ笑顔で答えた。
「あなたの名前を教えて」
それはきっと彼には迷惑になる、私の最初の台詞。
その彼がしばらくして魔王討伐隊の一員として出立したと知った。
魔王、という世界を脅かす存在は聞いたことがあったけれど、そんなものと戦えるほど彼は強かったのか。
私も彼と戦えるほど強かったら良かったのに。
実は私はとても強い戦士の生まれ変わりなのだ。
本当の私は彼と肩を並べられるほど強くて、一緒に魔王を倒して、国の英雄になるのだ。
そうしたらもう、義務の婚姻を強制されることもないし、彼と結ばれることも出来る。
自由に、健康な体で、好きなように生きて行くことが出来るのだ。
……そんなことを考えて、やっぱり笑ってしまう。
私の心はそんなにも追い込まれているのかしら。
決して叶うことのない妄想で、心を慰めようとしているのだから。
ああ、だけど、そんな物語みたいな現実があったら本当に良かったのに。
神様。
生まれ変わっても叶うこともないような途方もないような夢だけど……それでも。
どうか死ぬまでの、短い間だけでも……心の中で夢見ることだけは許してください。




