[結論]
私、鏑木杏奈にとって、この家は『大切なヒトにとっての大切な場所』でしかない。
それが、最初の考察の壁だ。
この家には、私の知らない彼が住んでいた。
とはいえ、ここで彼が過ごしたのはあくまで半生だ。残りの半分を、彼は私と過ごした。
子供を育てて、一人前にして、社会人としてもやり遂げて、あとは緩やかな余生に何を求めるか。
日向に咲く植物みたいに穏やかな人生でもいい。目まぐるしい社会生活で無視せざるを得なかった自己実現欲求に改めて向き合うのでもいい。聞けば、今の世代は30代よりも下なら当たり前のようにSNSで顔を出すんだとか。私たちが青春を過ごした時代とは一変したこの社会でなら、叶えられる夢の種類も叶え方もきっとずっと多い。
私は、別に彼にまだゾッコンってわけじゃないけど、恋人の頃の愛は隣人としての敬愛に代わって今もある。彼が何かをしたいならそれを応援したいと思う。つまり私は、彼の隣にいて彼を支えてきた「もう半生の方の人生」に誇りを持っている。
だから、壁がある。
彼はこのクローゼットの内側に何を隠していたんだろう? この手紙を書いた誰かは、彼の何に謝っていて、彼は何に対して感謝すべきなんだろうか。
そう。
壁。壁だ。
例えば、愛人がいたなら? この街に彼が残したその女性が、思い出の品を売ってしまうことで関係も清算したつもりでいたなら? この推理には違和感もあるけれど、でもゼロじゃない。
例えば、犯罪に手を染めていたのなら? だからこの手紙には主語がない。何に謝って何に感謝すべきかを残していないのは、それを残すこと自体にリスクがあったから?
例えば。例えば。例えば……。
こういう壁だ。答えを確認しないとずっと内側から湧いてくる泥である。半生を共に過ごした彼に私は、未だにこの程度の『正体不明』が姿を現した程度で不信感を感じている。
だけど、
……『隣人』に、秘密があるなんて当たり前のことでは?
私だって――
「……、……」
春に向けて、私は窓から身を乗り出す。
そして、それを口に咥えて火をつける。手慣れた感覚と、ずっしりとした呼吸感。
吸って吐くと、煙は空に舞い上がる。
私にだって、秘密はある。
その一つがこれだ。別に隠してるって迄じゃないんだけど、私は娘を身ごもって以来タバコをやめていた。だけど実は、最近はたまーに吸ってるのだ。しかも電子のスタイリッシュなヤツじゃなくて紙の方。
彼も喫煙者なので、きっと匂いでバレたりとかはしていない。
もともとは、彼が私と一緒にタバコをやめたのを後になってやっぱり吸いたいとか言い始めて、それでちょっとした喧嘩になったことが秘密にしている理由である。あれだけ上から怒った手前「やっぱり私も~」なんて言えるわけもない。……ついでに言うと、なんだか彼の前でタバコを吸うのが恥ずかしくなってたってのもある。こっちは、どうしてそう思うのか分からないけど。
でも、とにかく私の秘密の一つ目がこれ。当然これだけじゃない。彼と添い遂げてもう20年になるところなわけで、秘密なんてもう数え切れない。
……そういうのが、彼にもあっただけなのだ。
彼ももしかしたら、私からふとタバコの匂いがすると気付いた日があったかもしれない。そしたらもしかしたら、私が隠れて吸ってる可能性じゃなくて不倫の可能性の方を疑ったかもしれない。でも、事実として彼は今日までに私に何も言ってきてない。
これが、きっと秘訣なのだ。
恋人同士と呼ぶには萎びてしまった私たちが一緒にいるには、『隣人』としての敬愛と一線が必要だ。相手を信頼する自分を誇れるうちは、疑問は疑問のままでいい。無視することをカッコいいと思える間は。
きっと、私と彼の偉大なる先輩たちも、そうしてこの家を守り抜いたのだ。
人生を全うして、私たちが『両親』になるのを見届けて、その最後まできれいに保ってきたこの家には余人が手を出して整理する余地なんてない。私と彼もまた、そういう余生を過ごすべきだ。
家主不在の家屋は確かに寂しげだけど、
……そういうモノなのだ。この空っぽの家は、あの偉大な夫婦が最後まで颯爽として生きた証である。
「…。」
遠く、春の向こうに彼の兆しを感じた。
それで私は、煙草を最後に一度吸って、携帯灰皿の中に隠し込む。
問題は『封筒』をどうするかだけど、
……やはり、秘密は暴くか気付かずにいるかに限るだろう。