青い鳥 〜Light and Shadow〜
僕が青い鳥を読んだのは、彼女に薦められたからだった。
青い鳥は、彼女の大切な本だった。
彼女が初めて読んだ、絵本ではない本。
わずかな挿絵だけの、あとは文字ばかりの本。
絵本を卒業した彼女が手にとった、記念すべき最初の文学。
彼女の人生において、最も特別な物語――それが、メーテルリンクの『青い鳥』だった。
そう語る彼女の表情は、とても幸せにあふれていた。
まぶしいほどに――。
そんな大切な本を、彼女は僕に貸してくれた。
読まないわけにはいかない。
僕は彼女の思いにこたえるため、がんばって読み始めた。
まさか自分が苦しむことになるなんて、そのときは考えもしなかった。
話はなんとなく知っていたつもりだった。
チルチルとミチルという兄妹が、青い鳥を探して旅に出てみたけれど、見つからなくて帰ってくる。
すると、実は家に青い鳥がいたというわけだ。
幸せは身近なところにある。
そういう教訓的な物語だったはずだ。
そういうつもりで読み始めた。
でも、原作はそんな単純な話じゃなかった。
メーテルリンクが紡いだ青い鳥という物語は、僕に嫌というほど見たくないものを見せつけた。
彼女から借りた本でなかったら、破り捨てたかもしれない。もしかしたら燃やしたかもしれない。
それくらい、僕にはつらくて、悲しくて、嫌になる話だった。
こんな話は知らない。
昔読んだ絵本は、こんな話じゃなかった。
絵本では語られることのなかった世界が、この本の中にはひしめいていた。
なぜ絵本では一切の描写がなかったのか。
きっとそれは、この物語で登場人物が語ることを、大人が子供に伝えられないからだ。
人間の罪。人間の愚かさ。人間の恐ろしさ。人間を憎む、たくさんの存在のことを――。
大人にとって不都合な部分を切り取った物語――それが、絵本版の青い鳥なのだろう。
でも、僕がつらくて読めないのはそこじゃなかった。
人の喜び。人の幸せ。
僕はそれを目にするのがつらかった。
僕には、ない。
僕は感じたことがない。与えられたことがない。
それをつきつけられるのが、苦しかった。
彼女はきっとあるのだろう。
至高の幸福を感じたことが。
愛すること。愛されること。
きっと彼女は知っているのだろう。
きっと、大多数の人たちは知っているのだろう。
だからこの物語が名作として語り継がれているのだろうから。
なら、どうして僕は知らないのだろうか。
僕は誰かに愛されたことがあっただろうか。
もし愛されていたのなら、僕はこんな僕じゃないはずだ。
僕は幸福だったことがあるだろうか。
もしあったのなら、僕はこんな苦しみを感じていないはずだ。
愛する喜び、愛される喜びは、そんなに尊いものなのだろうか。
それを持つことは、そんなに素晴らしいことなのだろうか。
持っていない僕は、どうすればいいのだろう。
僕は知らない。わからない。
きっと、この先も知ることはないだろう。
そのことを思い知らされた。
幸福のあふれる世界を目にして、苦痛を覚える自分を見つけてしまった。
圧倒的な幸福を前にして、悲しさやむなしさしか感じない自分の存在を見つけてしまった。
あたたかい世界の中に、自分の居場所はない。
幸福と自分とは、切り離された存在で――。
分かり合えない存在で――――。
自分はそこにはいない。存在できない。
そのことが、とても苦痛だった。
それを知ってしまったことが、ただただ苦しかった。
僕は青い鳥を読み続けた。
苦しさやむなしさと戦いながら読み続けた。
彼女から借りた本じゃなかったら、ナイフを突き立てて、ボロボロにしていたかもしれない。
ページを引き裂いて、撒き散らしたかもしれない。
彼女の大切な本だということが、僕の理性をギリギリで保ってくれていた。
物語は唐突に終焉を迎えた。
チルチルとミチルは、自分たちで本物の青い鳥を捕まえることはなかった。
仲間のひとりが知らないうちに、捕まえたと言ったからだ。
兄妹はその青い鳥を、ひと目たりとも確認してはいない。
そのまま強制的に家へと帰る。そして仲間たちとの別れ。エンディング――――。
やっと読み終わった。
安堵と憔悴のため息をつき、僕は彼女に本を返した。
どうだった? 当然彼女は聞いてきた。
僕は猫が良かった、と答えた。
どこまでも狡猾で、したたかな猫が好きだった。
猫が死ななくて良かった。
そう彼女に伝えたら、笑ってくれた。
私はまだ猫の考えが全然わからないの、と彼女は言った。
よかったら、猫のどんなところが好きなのか教えて? そう彼女は僕に言った。
僕は、僕が思う猫のイメージを彼女に伝えた。
猫はきっとこう思ってたんじゃないかな、なんて自分の考えを偉そうに語ってみた。
彼女はただ、とても嬉しそうに笑っていた。
笑いながら、彼女は僕の話をずっと聞いてくれていた。
偶然、本屋の絵本コーナーで青い鳥を見つけた。
柔らかな色鉛筆で描かれた絵に惹かれ、思わず買ってしまった。
家に帰ると、彼女が僕の持っている紙袋にすぐに気づいた。中身は絵本だとすぐに見抜く。すごいと思った。
僕は照れくさくなりながら、はいはいをしている娘に絵本を見せた。当然ながらまだ興味は示さない。
この絵本には、チルチルとミチル以外の仲間たちの存在は、もちろん描かれていない。
猫も犬も、水も火も、パンもミルクも、誰も出てこない。
娘が大きくなったら、いつか話そうと思う。
チルチルとミチルには、実はたくさんの旅の仲間がいたんだよ。
そのなかには、『光』という仲間もいたんだ。
実はね。
君と、お母さんはね。
僕にとっては――その光と同じ存在なんだよ。
いつか――そう伝えようと思ってる。




