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これは『僕』の物語

青い鳥 〜Light and Shadow〜

作者: イトウ モリ
掲載日:2022/07/03

 僕が青い鳥を読んだのは、彼女に薦められたからだった。


 青い鳥は、彼女の大切な本だった。


 彼女が初めて読んだ、絵本ではない本。

 わずかな挿絵だけの、あとは文字ばかりの本。

 絵本を卒業した彼女が手にとった、記念すべき最初の文学。


 彼女の人生において、最も特別な物語――それが、メーテルリンクの『青い鳥』だった。


 そう語る彼女の表情は、とても幸せにあふれていた。


 まぶしいほどに――。




 そんな大切な本を、彼女は僕に貸してくれた。


 読まないわけにはいかない。


 僕は彼女の思いにこたえるため、がんばって読み始めた。



 まさか自分が苦しむことになるなんて、そのときは考えもしなかった。



 話はなんとなく知っていたつもりだった。


 チルチルとミチルという兄妹が、青い鳥を探して旅に出てみたけれど、見つからなくて帰ってくる。

 すると、実は家に青い鳥がいたというわけだ。


 幸せは身近なところにある。

 そういう教訓的な物語だったはずだ。



 そういうつもりで読み始めた。


 でも、原作はそんな単純な話じゃなかった。



 メーテルリンクが紡いだ青い鳥という物語は、僕に嫌というほど見たくないものを見せつけた。


 彼女から借りた本でなかったら、破り捨てたかもしれない。もしかしたら燃やしたかもしれない。


 それくらい、僕にはつらくて、悲しくて、嫌になる話だった。



 こんな話は知らない。

 昔読んだ絵本は、こんな話じゃなかった。



 絵本では語られることのなかった世界が、この本の中にはひしめいていた。



 なぜ絵本では一切の描写がなかったのか。


 きっとそれは、この物語で登場人物が語ることを、大人が子供に伝えられないからだ。



 人間の罪。人間の愚かさ。人間の恐ろしさ。人間を憎む、たくさんの存在のことを――。



 大人にとって不都合な部分を切り取った物語――それが、絵本版の青い鳥なのだろう。



 でも、僕がつらくて読めないのはそこじゃなかった。



 人の喜び。人の幸せ。



 僕はそれを目にするのがつらかった。



 僕には、ない。


 僕は感じたことがない。与えられたことがない。


 それをつきつけられるのが、苦しかった。




 彼女はきっとあるのだろう。

 至高の幸福を感じたことが。


 愛すること。愛されること。

 きっと彼女は知っているのだろう。



 きっと、大多数の人たちは知っているのだろう。

 だからこの物語が名作として語り継がれているのだろうから。



 なら、どうして僕は知らないのだろうか。



 僕は誰かに愛されたことがあっただろうか。


 もし愛されていたのなら、僕はこんな僕じゃないはずだ。



 僕は幸福だったことがあるだろうか。


 もしあったのなら、僕はこんな苦しみを感じていないはずだ。



 愛する喜び、愛される喜びは、そんなに尊いものなのだろうか。


 それを持つことは、そんなに素晴らしいことなのだろうか。


 持っていない僕は、どうすればいいのだろう。



 僕は知らない。わからない。


 きっと、この先も知ることはないだろう。



 そのことを思い知らされた。



 幸福のあふれる世界を目にして、苦痛を覚える自分を見つけてしまった。


 圧倒的な幸福を前にして、悲しさやむなしさしか感じない自分の存在を見つけてしまった。



 あたたかい世界の中に、自分の居場所はない。



 幸福と自分とは、切り離された存在で――。

 分かり合えない存在で――――。


 自分はそこにはいない。存在できない。


 そのことが、とても苦痛だった。


 それを知ってしまったことが、ただただ苦しかった。




 僕は青い鳥を読み続けた。


 苦しさやむなしさと戦いながら読み続けた。




 彼女から借りた本じゃなかったら、ナイフを突き立てて、ボロボロにしていたかもしれない。


 ページを引き裂いて、()き散らしたかもしれない。


 彼女の大切な本だということが、僕の理性をギリギリで保ってくれていた。




 物語は唐突に終焉(しゅうえん)を迎えた。



 チルチルとミチルは、自分たちで本物の青い鳥を捕まえることはなかった。


 仲間のひとりが知らないうちに、捕まえたと言ったからだ。


 兄妹はその青い鳥を、ひと目たりとも確認してはいない。


 そのまま強制的に家へと帰る。そして仲間たちとの別れ。エンディング――――。



 やっと読み終わった。


 安堵(あんど)憔悴(しょうすい)のため息をつき、僕は彼女に本を返した。



 どうだった? 当然彼女は聞いてきた。



 僕は猫が良かった、と答えた。


 どこまでも狡猾(こうかつ)で、したたかな猫が好きだった。


 猫が死ななくて良かった。



 そう彼女に伝えたら、笑ってくれた。



 私はまだ猫の考えが全然わからないの、と彼女は言った。

 よかったら、猫のどんなところが好きなのか教えて? そう彼女は僕に言った。


 僕は、僕が思う猫のイメージを彼女に伝えた。

 猫はきっとこう思ってたんじゃないかな、なんて自分の考えを偉そうに語ってみた。



 彼女はただ、とても嬉しそうに笑っていた。



 笑いながら、彼女は僕の話をずっと聞いてくれていた。








 偶然、本屋の絵本コーナーで青い鳥を見つけた。


 柔らかな色鉛筆で描かれた絵に惹かれ、思わず買ってしまった。



 家に帰ると、彼女が僕の持っている紙袋にすぐに気づいた。中身は絵本だとすぐに見抜く。すごいと思った。


 僕は照れくさくなりながら、はいはいをしている娘に絵本を見せた。当然ながらまだ興味は示さない。


 この絵本には、チルチルとミチル以外の仲間たちの存在は、もちろん描かれていない。


 猫も犬も、水も火も、パンもミルクも、誰も出てこない。



 娘が大きくなったら、いつか話そうと思う。




 チルチルとミチルには、実はたくさんの旅の仲間がいたんだよ。


 そのなかには、『光』という仲間もいたんだ。


 実はね。


 君と、お母さんはね。


 僕にとっては――その光と同じ存在なんだよ。




 いつか――そう伝えようと思ってる。


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