恋心
春先の雨といえば、か細く、繊細で、どこかあの人を思わせるような儚さがある。あの人というとき、人は色々な人を思い浮かべたりそうでなかったりするだろう。私には思い当たる人がいた。
その人の名を、私は知らない。屋敷の周りをぶらぶらしたり、商店の方へ出かけていくのではないかという時刻になるとその一本道を歩いたりするのだが、なかなか行き当たらない。これが盛夏でなくて良かったと思うくらいにはあてもなく野外を日がな一日ぶらりぶらりと歩く。春先であっても日に焼けることに違いはなくて、あるのは程度の差だけなのだが、その分だけその人に近づけるかというとそうでもない。屋敷の中で安楽に過ごすその人の白い肌を思えば、我々は却って隔絶されていくのではないかと不安になる。その心配をするのはこちらばかりであって、あちらが私の存在を知っているかどうかすら分からなかった。
あるとき、通り雨に降られてある軒先に入り込んだ。春雨に降られるくらいのことは慣れている。私があえてその軒を選んだのは、女性物の傘が立てかけてあったからだ。椿の花開いた様子の描かれた小ぶりの傘であった。私が見つけたときには傘の生地から先端に向かって水が滴り落ちていくところで、持ち手の部分には掌から伝染したのであろう熱が残っているように見えた。しかし、持ち主の姿はない。春雨はいつまでもどこまでも降り止む気配がなかった。盗ろう、と私は思った。雨に降られて仕方なく、という言い訳を頭の中で作り上げて、仕方なく、仕方なく、とつぶやきながら傘に手を伸ばしかけた。と、ちょうど玄関から出てきたのは、温和というよりはある種の厳しさを含んだ気品を備えた、強いて言うなら胡蝶蘭を想起させるような女性だった。もちろん、意中の人ではない。
「何かご用ですか」
その言葉には、やはり厳しさがあった。真綿で包んだ刃を突きつけられているような。
「雨が降ってきたので少し軒下を借りていたんです」
女性の白い手には、やはり白い傘が握られていた。外見の印象があまりにも白く感じられたものだから、晩冬の雪の名残を思わせた。
「この傘は……?」
「私のものではありませんし、況してやあなたのものではありません」
私はそれがあの人の傘であると、何故かしら直感した。しかしあの人とこの女性との関係性が分からなかった。傘を盗ることを一度は決意したものだから、私はつい前のめりになってしまっていた。この女性の厳しい物言いが私の背中に汗染みを作っていったのだけれども、それが却って私の決意を鈍らせた。
「雨も直に止みますから、どうぞそのときには……」
「雨は止みますか、どうしてそうと分かるんですか」
「雨とはそういうものでしょう。天気予報で知ったことを言っただけです」
天気予報という言葉は、何故だかひどい断絶を私に認識させた。そして、先ほどから考えていたあること――この女性はあの人の姉なのではないか――が正しいとすれば、あの柔和そうで他人への思いやりを絶やさないようなあの人もまた、私などには目もくれないだろう。
そう思い至ったとき、私はもう何もかもがどうでも良くなってしまったようだった。ここを去ろう、どこか遠くへ、誰も知らないどこかへ。
「失礼しました。あの、そういうつもりではなかったんです」
「何がです?」
私が罪を犯そうとしたことを、この女性は知っている。知っていながらも表情に出さないのは何故だろう。その真意は不可解ながらも、私はある意味ではこの女性の出現のために罪を犯すことをしなかったのだ。だから私は感謝しても良かったのかもしれない。しかしそうしてしまうと、私にその意思があったことを認めてしまうことになる。
「あの……、何でもありません。雨も少し弱まってきましたし、そろそろ……」
「そうして頂けると私も助かります」
私は立てかけてあった椿の傘に名残惜しくも最後の視線を送ろうとしたが、しかし女性がそれを遮った。私があの人への恋慕を持つことをすら認めないということの、それは立派な意思表示だった。
私は罪を犯さず、女性はあの人を守った。その後に訪れるであろう静謐というものを受け入れることのできない私は、春雨の降る世界の中へと飛び出していった。