第9話 西と東
関東のとある研究施設、国内では数少ないP4レベルの研究施設である。厳重に隔離・管理された施設の片隅の喫煙スペースに紫煙がゆらゆらと漂っていた、轟製薬の藤田である。
彼は重厚にこしらえた目の隈をこすりつつ、ふわぁと欠伸を一つ何処までも澄み渡った青空に溶かしていた。
「やあ、藤田さんも休憩ですか」
続いてやってきたのは、乾化成より派遣された主任研究員の大原である。藤田とは違い、幾つもの著名な論文を発表しているエリート研究員である。
「大原さんこりゃどうも。まったくタバコなんて久しぶりですよ、折角禁煙に成功してたのに」
藤田は苦笑いしつつ、肩をすくめる。
「ははは、PXの第一人者たる藤田さんにはあるまじき気弱さですね」
「冗談言わんといて下さい、真っ先に『俺たちには手におえない』って投げ出したってんなら話は合いますけどね」
PXについて行政に報告、あるいは投げ出したのは轟製薬が一番早かった、それだけの話だ。
にもかかわらず、会うたび何時もこんなブラックジョークを投げかけられる。
PXを表に出したことに対する皮肉か、あるいは感謝か……。
まぁここでこうして、同じ研究室で試験官を弄っている間は、会社の大小からは離れられる、とは言え天下の乾化成と零細企業轟製薬では、同じ主任研究員の肩書でも天と地の差があるのは確かだが。
「大原さんの今日の予定はなんでしたっけ?」
「電顕をつかってます。遺伝子解析なんて意味が無いって事をようやく上が認めてくれました」
PCR等の遺伝子解析は、DNAはATGCの4つのヌクレオチドに基づいていると言う大原則の上で成り立っている。
ところがPXにはそんな常識は通用しない。マクロでもミクロでも未知だらけだ。分子化学的な研究では、既存の手法では手が出せない。電顕による画像解析の方がよっぽど手っ取り早い。
とは言え、電子の目で観察したところで、訳が分からないと言う事が分かるだけなのだが。
「しかし……タイムリミットは近づいてますよね」
「……これが解放になるのか、断頭台になるのか、微妙な所ですけどね」
謎の売人の手より市場に出回ったPX、その中で回収できたのはほんのわずかだ、今のままのハイペースでの研究ではいずれサンプルがこと切れる。
幾ら国内最高の頭脳、最高の機材が揃った施設でも、研究対象が無いのでは机上の空論をこねるだけの無駄飯ぐらいだ。
「私としては、県に話を持って行った時点で、お役御免になったと喜んでいたんですけどね」
藤田はそう苦笑いをする。未知の植物と言う宝物に対する、好奇心や功名心は既にもう枯れ果てた。今はどれだけ見上げても果ての見えない分厚い壁を前に途方に暮れているだけだ。
「はは」と大原も力なく笑った。
★
ふーと速水はアメリカンスピリッツの煙を晴れた空へ曇らせた。最近は電子タバコなんてもんが流行っているそうだが、俺にはやっぱり紙巻が性に合うと速水はボンヤリと考える。
アリバイ作りの為の木工機械の扱い方にも大概慣れて来た。社長からは『ムショに入った時の予行練習が出来て良かったじゃねぇか』なんて言われているが余計なお世話だ。そんなへまは……まぁあまり先の事について頭を悩ますのは性に在っちゃいねぇと、速水はボリボリと頭を掻いた。
しっかし、くそ呑気な島だ、工作機械を止めて聞こえて来るのは放牧されてる牛がクソを垂れる音だけだ。
戸板一枚下は地獄ならぬ、床一枚下は地獄な光景がこの工場では展開されていると言うのに……。
速水は晴れ渡った空とは逆に、うすら寒い思いを抱えながら足元へ視線を向けた。
「やぁこんにちは」
速水が呑気にタバコを吹かしていると、これまた輪をかけて呑気な声が聞こえて来た。
近所の住人は訝しがって近づきもしないのに、一体なんだと彼が振り向けば、そこにはバイクに跨った青年がいた。
「あっ? なんだテメェは? ここは関係者以外立ち入り禁止だ」
速水が凄んでみても青年は一当りの良さそうな顔をしたままビクともしなかった。
「済みません、道に迷ってしまいまして」
「んなモン、テメェのスマホを見やがれこの原始人が」
幾ら田舎の島とは言え、電波が通ってない訳でもない。速水はそう言ってうっとおしそうに手を振った。
「あはは、そうしたい所なんですが、バッテリーが切れてしまいまして」
「んなこと知るか、とっとと出て行け」
ちっ、要領のわりぃ奴だ、興がそがれた休憩は終わりと、速水は工場に戻ろうと踵を返した。
「いやー、そう言わずにそこを何とか。ねぇ速水さん」
「……あ?」
自分の名前を知っていた。速水は警戒を高め改めて青年を睨みつけた。
青年の身長は170をやや超えるという所で速水より二回りは小さい。体つきも普通で、喧嘩となれば遅れは取らないだろうと、速水は判断した。
と、普通ならばそう判断するところだ、だがそれは相手も同じだろう。と速水はいぶかしげな視線を青年に向ける。
だが青年は余裕たっぷりと言うか、泰然自若に在るがまま。こっちの事を少しもおそれてはいないという風貌だった。
「……誰だテメェ」
速水は何時でも一発決めれるように拳の感触を確かめながら、青年にそう問い詰める。
「ああ、自己紹介が遅れました。僕は響真治と言います、何でも屋ですよ」
「ああ? 何でも屋が一体何の用事だ」
「ですから道案内、いや人探しかな?それとも……」
「それともなんだ」
「物探し……かも知れません」
青年は視線を鋭くしてそう呟いた。
敵だ、こいつは間違いなく敵だ。
そう判断した速水は青年に近づいて、有無を言わさず一発ぶち込んだ。
「んだと!」
だがその拳は空を切る。完全に不意を突いたタイミングだったはずだ。だが、響と名乗った青年はほんの少し体を傾けるだけで、紙一重でそれをかわしのけた。
「テメェ」
バイクに乗ったままで碌に身動きとれない奴に向けてはなった絶好の一撃を見事にかわされ、速水は頭に血が上る。
「すみません、どうやら機嫌を損ねてしまったようですね」
響はそう言いうなりバイクのアクセルを握り込む。
「テメェ、逃げんのか」
「そうですね、今日はそうします。ですが速水さん、あの植物は危険だ、上司の方にもそうお伝えください」
「待ちやがれ!」
伸ばした手は空を切る。響は最小限の動きで悉く俺の攻撃をかわしやがる。
「伝えましたよ速水さん、その植物は危険だ」
その言葉を残して、響は道路の先に消えていった。
★
「何? ウチを探ってる奴がいる?」
速水の報告をもとに、早乙女は監視カメラをチェックした。そこには確かに速水の拳を悠々とかわす、不審者が映っていた。
「いったい何もんだ」
「はぁ、奴は響真治とか名乗ってました」
響真治、聞いたことが……いやある。早乙女は記憶の奥からその名探偵を浮かび出した。
「そいつに嗅ぎつけられたって事か」
此処への引っ越しは慎重に慎重を重ねて行った筈だ。だが人の口には戸が立てられない、どっかで漏れちまったって事か。
それにしても早すぎる、凄腕の名探偵って風評は伊達じゃねぇって事だろうと、早乙女は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「それでなんですが」
「あ? なんだ?」
「奴が言うには、あの草は危険だから手を引けって話でした」
速水はふて腐れた様な、図星を付かれた様な、そんな微妙な表情でそう言った。
「そんな事は百も承知だ、おそらく奴はどっかの製薬会社の息がかかってるんだろう、ライバルは早めに潰しておくのに限るってな」
「まぁ、そりゃそうですが」
それにしても、こんなに早く尻尾を掴まれるのは予想外だった、郷田に相談して対抗手段を考えなくてはならない。
そう考えた早乙女は郷田に話を通した、だが郷田の指示は様子見だった。
まぁ所詮この実験場の価値はその程度という事だろう。
そして、更に予想外の事に郷田の指示は当たっていた、第二弾、第三弾の妨害工作がなされてくるかと思いきや、ちょっかいがかかって来たのはあの時が最初で最後だった。
実験は変わらず続けられ、別口の本筋では商品開発がすすめられた。
その後、しばらくして人類の転機となる商品は、裏社会からひっそりと販売された。