喫言、遺文
『喫言、遺文』
それはいつ何処で誰がいるのか分からない不思議な店。
ーーーーー
明夜、鋏を手に走り出していた。
家族と離別、兄妹とは離ればなれ、それでも知らない振りをして笑い続けて。急かされるように進路を選択、自分をひた隠しにしてきたこと、日々生きることが価値がなく無駄のように感じること。何よりそんなことを考える自分に嫌気がさしたこと。
逃げ出すように走って、闇を通って、走って。
ふと或る建物を見つけた。其は私と同じく何かから逃れる様に路地奥に建てられていて、塵と自然と夜に隠されていた。徐に足を向ければ入り口につけられた小さなライトが橙色に光だす。誰かがつけたらしい。
ドアノブにかかる看板には『喫言open』と書かれている。思わず手をのばした。
開けるとそこは別世界のようだった。
天井を這う様に並べられた棚と本。床から生える様に積まれた本。小さな机と椅子が真ん中に置かれ、まるで世界中の本を集めた書店だとさえ思えた。
不意に物音がすると思えば棚と棚の間から女性が顔をだす。
夜に染まった長い髪は右耳下辺りから編まれ、月の光に充てられた肌。本を傷つけるまいと付けられた白い手袋、藍媚茶のロングワンピースは本の背表紙を思わせる。
「いらっしゃいませ」
彼女は静かに微笑んで私を椅子へと促した。
ふとカップを渡されたと思えば竜胆色の液体が穏やかな香りを投げてくる。彼女は私と同じそれを口につけて話始める。
「私は当店『喫言、遺文』の店主でございます。当店では遺言の代筆、又様々な人の遺言をまとめた本の貸し出しを行っております。
当店利用の際、金銭は頂戴いたしません。代わりに死を考える理由をお預かりしています。」
何馬鹿な事をと思ったが、彼女の容姿や店の内装が回りにも別世界の様だから変に納得してしまった。無言になるのが何となく怖く、あまり気にはならないが質問をしてみる。
「此処にはどんな人が来るんですか」
「そうですね。迷った方が良くいらっしゃいます。」
「迷子ってことですか。確かに路地の奥だしあんまり目立たないですよね。」
「当店は必要な方が来てくれれば良いので。迷うというのは、道にまようばかりではないです。決めなくてはいけない選択や自分という不安定な存在に考え悩み、やがて迷う方は少なくありません。貴方もそうなのでは。」
夜持ち出した鋏で心臓を刺された様だと思った。初めて会う人のはずなのに今まで会ったどんな人よりも私のことを知っている人だとさえ思えた。この人ならきっと、私という感情を分かってくれる、と不思議な感覚が襲ってくる。変に言葉にしないようにとカップに口をつけると世間体とか彼女のことなんてどうでも良くなり余計に言葉にしてしまった。
「先日両親が離婚したんです。といってもけっこう前から仲は悪かったんですけど、昔手を握って笑ってくれた二人はもういないと思うと悲しくて。丁度そのころ唯一仲良くしてくれていた人もいなくなっちゃったんです。私とおなじく親仲の悪い家族だったんですけどその家は離婚する前に母が落ちたみたいでそれからもう顔すら見れてないです。嫌なこと続きなのがバレないように必死に知らない振りをして笑ってたんですけど、そんなことも馬鹿馬鹿しくなってしまって。
多分分からないと思うんですけど、生きてる意味とか価値とか全部ないんじゃないかなって察したんです。店主さんの言う"自分の不安定な存在"に悩んで、それでさっきけりをつけようと思って外にでたんです。」
時折、鋏を触って嗤って泣いた。
時折、色が変わっていく液を口に含んで一寸も目を反らさず瞳を濡らしてくれた。
「そう、だったんですね。」
ようやく目を離したと思えば瞬きをするように瞳を隠した。
「これはあくまでも私の考えなので納得いかなくてもいいのですが」
そっと本の表紙を開く様に目をあける。
「家族とは血の繋がる人ではなく心の繋がる人だと考えています。
産まれた時から傍にいるので心が繋がりやすいだけで必ずしも血縁関係だけが家族ではないのではと。自分が考えること、好きなこと、何かが心に引っ掛かってそれが絡まりいずれ絆と呼ばれる輪になって家族になるのではないのでしょうか。おそらくですが、今顔を見ることのない、会えない其の方は貴方にとっての家族だと思います。家族だからこそ言えないことがありますが逆を言えば家族だからこそ言えることもある。それは、貴方にとっても其の方にとっても。
だから例え話が出来ない或る日も無駄かもしれませんが、価値がない日ではありません。家族と呼べる日が同じ時間1秒1分、共に生きてくれる大切なときです。
もし、家族に会えない時間がどうしようもなく苦しくてと言うときにはひと思いにその銀で殺めてしまっていいですので。」
ーーーーー
『喫言、遺文』
それはいつ何処で誰が開店するのか分からない不思議な店。
その店に小さくも新たな本が追加されました。
明夜鋏を持って走り出したひとりの少女の遺文。
其れは苦しくも暖かい、十年後の少年に当てた手紙。
それはいつ何処で誰が開店するのか分からない不思議な店。
迷った方がその古戸を開くまで、『喫言close』です。




