後編
「変わってないな~」ジンドウがひとり感激している。「小学校の時となんも変わってないっすよ。ほらこの本よく読んでたな~」ルーンたちは事件のあったプールの街にある図書館を訪れていた。
「こんなところに何の用ですか?ルーン様。本ならルーン様の部屋にも沢山あります」
「調べものさ。ミドリ君が溺れた時の新聞か何かがないかと思ってね。それに僕がもっていない本もここにはあるんだよ」ルーンはひとり興奮しているジンドウを放っておいて目的の場所へ。五十五年の夏の新聞に順番に目を通していく。プールでの溺死の記事なんてすぐに見つかると思っていたが、意外にミドリの記事を見つけるのに手間取ってしまった。
「またありました。これもプールの記事です」ルーンはプリヤが差し出した新聞を見た。確かにプールでひとり死亡したという記事だがミドリのものではない。そもそもプールの場所も違えば死んだのは男だった。ふむとルーンはうなり顎をさすった。この年、五十五年はざっと調べただけでもミドリふくめ十人がプールで命を落としている。新聞の記事はぼかして書かれているが発見された遺体はどれも損傷が激しかったようだ。どうやらケルピーはこの付近のプールで人を食い荒らしていたようだ。
「これじゃないですかね?」プリヤがもう一部新聞をよこしてくる。記事にはミドリが無残な姿でプールに漂っているのをオーナーが見つけたと書いてあった。
「あのミドリって子はこんな化け物にもう一度乗りたいなんて言ってるのか・・・・・」新聞を読んでいたジンドウがポツリとつぶやく。 幽霊のくせに顔が青ざめていた。
「実際に食べられた時の記憶はないみたいだったし、それに僕は乗ったことないけどケルピーの背中に乗って走るのは実に爽快らしいよ。まるで空を飛んでいるかのようだと語った人もいるみたいだ」ルーンからそういわれてもまだ納得できないでいるジンドウにその代償は大きすぎるけどねとルーンは付け加えた。「しかし、こうも派手に行動していたとなるとこの時のケルピーは確実にハンターにやられているだろうな・・・・・」
「ハンター?」ルーンの言葉にジンドウが反応した。
「ん?ああ、ハンターっていうのは天使によって啓示を受けた特殊な人間のことさ。啓示を受けた人間は二つの贈り物が与えられるんだ」ルーンが指を二本ジンドウにたててみせた。「ひとつは人間離れした身体能力。個人差はあるみたいだけどビルを飛び越えたり、車を持ち上げられる者もいるらしい。そしてもうひとつ。どちらかといえばこっちが本命かな」ルーンが目を細めた。「天使の短剣。柄から刃先まですべて銀でできた絶対に刃こぼれしない短剣なんだけど、こいつには特殊な力がある。それは、魔物の力を自分のものにできる力があるんだ。今僕らが追っているケルピーや僕みたいな吸血鬼、要はこの世界、人間の世界とは別の世界から来た特殊な力を持った生き物からその力を奪うことができる短剣なんだ」突然の解説についていけずジンドウは戸惑っていたがルーンはお構いなしに話を続ける。「その天使に選ばれた者たちは特殊な力と引き換えにある使命を言い渡される。それは魔物の討伐」
「なるほど、ミドリを襲ったケルピーは目立ちすぎたためにハンターに殺された可能性が高いわけですね。ルーン様」横で聞いていたプリヤが納得した様子で何度もうなずいた。
「そういうこと」
「でもどうしてケルピーは街中で狩りをしていたのでしょう?」
「ケルピーは澄んだ水辺を好む魔物だ。ジパングじゃ二十年ほど前から産業が活発になって、土地の開発も進んでいるらしい」ルーンは土地開発のために埋め立てられた川や湖の記事が載った新聞を二人にみせた。「ケルピーたちも住処を失っていたのかもしれない。それに街中にあるプールは住処にするにはとても合理的な場所だ。水は薬を使ってはいるけど澄んでいる。問題のエサは探さなくても、よりどりみどりあちらからやってくるんだ。環境は悪くない。いやむしろ良すぎるといってもいいかもしれない」
「言いたいことはわかったけど、それだとミドリを乗せたケルピーはもう生きてない可能性が高いんすよね?どうするのさ」
「ジンドウ君の言う通りだけど、ミドリ君は自分が乗ったケルピーじゃなきゃダメとは言っていなかったからね」ルーンはふふんっと笑ってみせた。
「でも、ほかのケルピーにしても簡単に見つけられるものなんすか?」
「そこは簡単さ、このプールの事件のようなことが最近川や湖で起きてないか調べればいい。水難事故が多い地域にケルピーがいるはずさ」
「ここも空振りみたいっすね」ジンドウがつまらなそうにわかりきったことを呟いた。
「そのようだね」ルーンは川辺で遊ぶプリヤを見てため息をついた。ミカとの約束の期日まであと二日に迫ったいた。図書館で調べた日から二十年前のミドリの時と同じように最近水難事故が頻発しているエリアをみつけるまではよかったが、肝心のケルピーがなかなかみつからなかった。水難事故の頻発しているエリア内の澄んだ水辺のある場所をしらみつぶしに探し回ったがケルピーの痕跡すらみつけることができなかった。「もしかしたらすでにハンターに殺されている可能性もあるな」少し見立てがまかったかもしれないなとルーンは思った。
「上流の方にダム?という貯水湖があるみたいですよ」ルーンが振り向くといつの間にか川から上がったプリヤが地図をもって立っていた。「プールにもいたくらいですからダムというところにもいるんじゃないですかね。ケルピー」もっともな意見だ。
「ここからどれくらいあるのかな?」ルーンはプリヤの持つ地図を覗き込んだ。
「さあ?私たちは今ここにいるんですよね?」プリヤは今自分たちがいるはずの地点を指した。ルーンが頷く。「ですから、この川をたどると・・・・・ほらここにダムと書いてある場所があります。」確かにダムがある。「でもこの地図というものからはどのくらい距離があるかまでは私にはわかりません」
「大丈夫、僕はわかるよ」ルーンは地図の縮図を確認してげんなりした。「結構距離があるね」こんな田舎の山奥に使ったことのある扉があるわけもない。一度山を下りて車を手配することも考えたがそれだけで一日つぶれるだろう。時間がない。このまま山を登りダムの近くで使える扉を探すのが最善だとルーンは考えた。「大変だけど歩いていくしかないね」
「はい」本当に理解しているのかプリヤは屈託のない笑顔で元気に返事をした。
ルーンの予想を裏切りプリヤはへこ垂れることなく軽快に山を登り続けた。
徐々に日も暮れ始め山は闇に包まれていく。山は虫の鳴き声が響き、時折揺れる藪や木々の葉以外には何も聞こえなかった。そのため、二人の足音や息遣いがいつもより大きく感じとれた。
「本当にミドリの願いはケルピーに乗ることなんすかね・・・・・」ジンドウが暗い顔でいった。それは独り言とも取れる小さなものだった。
「図書館でも似たようなことを言っていたね」ルーンは聞き流そうか悩んだが結局返事をした。「どうしてそんなことを思うんだい?」
「会いたい人や・・・・・なにか伝えたいことなんかはないのかと思って」
「君はどうなんだい?会いたい人や伝えたいことがあるのかな?」
「それを考えてたんすけど・・・・・」ジンドウは考え込んでいるのか下を向きそれ以上は何も言わなかった。
「ルーン様!」先を歩いていたプリヤが声をあげる。ルーンがプリヤの方を見ると、プリヤは小さく跳ねながらピョンピョン跳ねながら腕を振っていた。二時間以上一緒に山を登ったはずなのになんであんなに元気なのだろうかとルーンは若干の鬱陶しさを感じつつプリヤをみつめた。「きっとこれですよ、ダム。湖がありますよ。」
「間違いなさそうだね」プリヤに追いついたルーンは巨大なコンクリートの壁によって溜められた貯水湖を見下ろした。二人は途中で少し道をそれていたようでいつの間にかダムよりも少し登ったところまで来てしまっていた。おかげでダム全体を見渡すことができた。ダムはかなりの大きさがあった。村をひとつ潰して造られたらしいが、闇に包まれているためその面影を確認することはできなかった。
風がないため湖には波ひとつ立っていなかった。そのため満月と天の川が湖に映りまるで夜空を見下ろしているかのような神秘的な光景がひろがっていた。
「絶景だな」ルーンは湖のあまりの美しさに無意識にそうつぶやいた。
「姉さん、あそこ」ジンドウが湖の中央に浮かぶ月を指さす。「なにかあるっす」反射する月に黒い影がみてとれた。その周りだけさざ波立っている。ジンドウの眼には何か黒い影があるようにしか見えないだろうがルーンにはそれが何かはっきりと見ることができた。馬だ、天女の羽衣のような美しい鬣を持った。そして、その傍らに人影もあった。男だ。「水の上に立ってる?」ジンドウは信じられないと言いたげな顔をした。
「何を今さら、人間からしたら君の存在の方が驚きだろうよ」ルーンの冷たい言葉にジンドウは自分の状況を思い出し、頭をかいた。「プリヤ君、あそこの岩陰に隠れるんだ」ルーンは数メートル先にある高さ三メートルほどの岩山を指さした。プリヤは黙って頷き岩山の方へ走っていった。「君も余計なことはしないでくれよ、ジンドウ君。というか姿を隠していてくれ。あそこにいる奴は君の魂を完全に消し去ることもできるだろうからね」ジンドウはルーンの真剣な顔を見て、本当にそうなる可能性があると理解しすぐに夜の闇に紛れた。
月に浮かぶ人影はルーンの方をじっと見ていた。いつから気付いていたのだろうか、自分のうかつさに呆れながらルーンは斜面を下り湖に近づいていく。相手にその気があればルーン達は奇襲を受け痛手をこうむっていたかもしれない。相手がただ未熟なだけなのか、それとも余程の自身があるのか、それを確かめるためルーンは先手を打つ。
「夜分遅くに失礼、その馬は君の馬なのかな?」ルーンは相手に届くよう声を張り上げた。山に反射した声がこだまする。男は返事をしなかったが轡をつけたケルピーを引っ張りながらゆっくりとルーンの方へ近づいてきた。それを見てルーンは少しほっとした。なにせルーンは水の上を歩くすべを持っていなかった。
「見ない顔だね」男はルーンの顔を見て目を細めた。男は金髪で右の眉の上に銀色のピアスを二つつけていた。この暑いのに襟にファーのついた黒いロングコートを着ている。そして、背中には自分の身長よりも大きな十字架を背負っている。繋がれたケルピーは怪我をしているらしく弱っていた。
「・・・・・最近はいったばかりなんだ。僕はアールグレイ。君は?」ルーンはひとまず偽名を使って話を合わせることにした。
「やはりそうか。俺を知らないなんて追放者か、最近はいったルーキーくらいだろうからな。協会にいれば知らないはずがないからな」そういうと男はにやりと笑った。「俺はハヤト。お前もこのケルピーを狙っていたのか?」ハヤトはさらに口を釣り上げあざ笑うように笑った。「残念だったな。今回はついてなかったのさ、同じ獲物をこの俺が狙ってたんだからな」
「狩りは早い者勝ちなのはわかってるんだけど、そのケルピーがどうしても必要なんだ。譲ってくれないかい?」
「なんだって?」ハヤトはルーンの頼みにオーバーな反応を示し、眉間にしわを寄せ、手を掲げながらやれやれと首を振ってみせた。
「ケルピーを必要と」
「お前の事情なんか知らねえよ。それに先輩には普通敬語を使うもんだろ」ハヤトはルーンの言葉を遮り態度が気に入らないという。「こいつは俺の後輩にあてがうために捕まえたんだ、お前にやるわけにはいかねえ。まあ、お前が俺の門下に下るってなら次はお前に雑魚をあてがってやってもいい」
「見かけによらず優しいんだね」ルーンは後輩のため魔物を追って山奥まで足を運んだハヤトを素直に褒めた。しかし、ハヤトは気に入らなかったらしく、あっ?と声をあげると顎をしゃくってルーンを睨みつけた。
「僕はほかの魔物じゃダメなんだ。ケルピーが必要なんだ。譲ってくれないなら要求を押し通す」どうするというようにルーンは軽く笑った。ハヤトの返事は言葉ではなかった。背中の十字架に手をかけると背負い投げをするようにルーンに叩きつけた。地面のアスファルトが雷のような轟音とともに砕けた。ルーンはハヤトの電光石火の先制攻撃を最小限の動きだけでかわし、日傘をハヤトの脇腹めがけて突き出した。ハヤトは素早く腕を引き十字架でそれを受けた。
「ルーキーにしてはいい動きだ」そういうとハヤトは十字架を横に薙いだ。ルーンは飛びずさりそれをかわした。
「物凄い怪力だね。いったい何の力を取り込んだのかな?」
「当ててみろっ‼」ハヤトはルーンを追ってジャンプし十字架をルーンに向けて突き出した。再び雷鳴のような轟音とともにアスファルトにクレーターができた。ルーンはそれを素早く、高く跳躍してかわした。ハヤトの顔に笑みが浮かぶ。今度は十字架を円を描くようにルーンに向かって振り上げた。ルーンはゆうに十メートルは飛び上がっていたため届くはずがなかった。しかし、すぐに変化は現れた。ハヤトの中心に旋風が吹き、落ちていた小石や枯れ枝を巻き上げながら巨大な突風に変わりルーンに襲い掛かった。まるで大型トラックにでもぶつかったかような衝撃を受けてルーンはさらに上空へと飛ばされた。思いがけない攻撃に意識を失いそうになりながらも手足をばたつかせ何とか体制を立て直し、地上を見る。目測だが百メートル近く上空まで飛ばされたようだった。明かりひとつない山奥だが上空からだと月明かりのおかげか細部もはっきりと見ることができた。
ハヤトの姿がない。右手にあったはずの日傘もなくなっていた。落下に身を任せながら身体を回転させハヤトと日傘を探す。どちらもすぐに見つかった。日傘はルーンのさらに上空に。ハヤトは空を飛んでいた。背中から生えたカラスのような黒い翼を羽ばたかせルーンに迫る。ハヤトは巨大な十字架を体をのけぞらせ力を溜めながら飛んできた。鈍い風切り音とともにジャストミートにルーンをとらえたはずの十字架だったが、ルーンは迫る十字架の上を転がりながらいなし直撃を回避した。ハヤトは勢いでルーンを通り過ぎたがすぐにターンし、再びルーンをたたき落とすため十字架を振りかぶりながら迫った。ルーンは身体を回転させながら落ちてきた日傘をキャッチする。
「おとなしく墜ちろおおぉぉっ」かわされたせいかさっきまでの余裕が消え、怒号を飛ばしながらハヤトが十字架を振るう。ルーンはそれをギリギリまで引きつけ日傘を開いた。ほんの一瞬ルーンの落下が止まり、ハヤトがまた十字架を空振りさせる。そこからは一瞬だった。ルーンは日傘から〝魔剣〟を引き抜くと真下を通り過ぎようとしていたハヤトの背中を漆黒の翼の上から串刺しにした。痛みに身体をのけぞらせるハヤトとともに貯水湖の水面に向かって落下していく。着水する直前ルーンはハヤトを踏み台にしてジャンプし岸に着地した。ハヤトは巨大な水柱をあげながら水面に叩きつけられた。
「天狗かい?」深手を負いながらも自力で岸まで泳ぎ着いたハヤトにルーンは声をかけた。
「・・・・・そうだ」ハヤトはルーンの動きを警戒しながら水から上がる。水滴とともに血もしたたり落ちている。カラスのような羽は背中から消えていた。十字架も持っていなかった。「なにものなんだ」ハヤトはお前はいったいとルーンを睨みつけた。
「いちおう探偵かな」ルーンは少し悩んでそう答えた。
「どうしてとどめを刺さない?」ルーンの返答に怪訝そうな表情を見せたがそれ以上は追及してこなかった。
「僕たちはケルピーを巡って争っただけだ。君に恨みがあるわけでもない。死にたいなら切腹でもなんでも勝手にするんだね」ルーンはそういい捨てて茂みに隠れていたケルピーを捕まえるとプリヤの隠れている岩山に向かった。
「さあ、プリヤ君。帰ろうか」ルーンは岩陰から様子をうかがっていたプリヤに手招きをした。
「あの方は大丈夫なのですか?」プリヤは貯水湖の淵で蹲ったままのハヤトを心配そうに指さした。
「問題ないよ。彼ならすぐに回復するだろうから」ルーンもハヤトを一瞥したが肩をすくめた。「どこか使えそうな扉を探そう、今日はさすがに疲れたよ」そう言ってルーンはあくびをした。
「いったいどんな仕組みなんすか?」ジンドウはたった今潜り抜けてきたプール施設の裏口の扉をまじまじと眺めた。
「詳しいことは僕もわからないんだ。・・・・・でも使い方は簡単。一度使ったことのある扉、鍵がかけられてちゃんと扉として機能しているものならその扉を思い浮かべるだけで僕の部屋と世界中の扉を繋ぐことができるんだ」便利だろ?とルーンはどや顔をしてみせた。
「ん~よくわかんないっすけどすごいっすね」
「見つかると厄介だ。早くおもてのプールへ行こう」そういうとルーンは落ち着かない様子で鼻を鳴らすケルピーの手綱を引いた。プリヤがケルピーを落ち着かせるため寄り添い歩きながらそっと顔を撫でる。
結局警備員に見つかったがルーンが素早く処理したため騒ぎにはならなかった。三人と一頭は室内プールを抜けて屋外プールに出る。ミドリは流れるプールの水面に立って空を見上げていた。
「本当に見つけてきたんですね」ミドリは空を見上げたまま自分のエリアに入ってきたルーン達に声をかけた。
「こちらにも都合があるからね」それにとルーンは続けた。「約束は守る主義なんだ。それがどんな形のものであれね」ルーンは頷くとミドリに手綱を差し出した。
「ちょっと待ってくれ」ジンドウがそれを遮る。「あんた本当にそれでいいんすか?こんな自分が死んだ原因になった化け物にもう一度乗ることがあんたの本当の願いなんすか?」
「どうしたんですか急に」ジンドウの勢いにミドリは困惑の表情を浮かべた。
「会いたい人とか、話しておきたいこととかあるんじゃないんすか?」
「あぁ、そういうことですか」ミドリはジンドウが言わんとすることがわかり表情を緩めた。
「ありましたよ。私もそういうこと。・・・・・でも時間がたち過ぎたんです」ミドリは何かを思い出すようにまた夜空を見上げた。「私、両親と妹の四人家族だったんですけど、初めのころは毎日来てたんです。母と父がまだ小さかった妹の手を引いて。来るたんびに私、泣いて謝りました。でもどんなに強く思ってもとどかないんです。そのうちにちょっとずつ来る頻度が減ってきて今は夏に一度来るだけになりました。でも悲しいとか、寂しいとかは思ってなくて。むしろほっとしたんです。ここに来るたびに涙を流しながら、私に話しかける両親と妹を見てると苦しくて、どうにもできない自分を苛立たしく思うようにもなったりしました。」ミドリは顔を戻してジンドウを見ると肩をすくめた。「それに、私が今更現れて思いを、気持ちを両親や妹に打ち明けたりしたら、またここに来る頻度が増える。特に母はそうなるにきまってる。そんなの私が耐えられません。私は妹や父、母のことをこれ以上縛りたくないんです。これ以上私のことで暗い顔をする母をみたくないんです」
「・・・・・それでも、あんたのその気持ちを・・・声をききたいと思ってるんじゃないかな」ジンドウはうろたえながら弱々しい声でミドリにいった。
「そうですね、そうかもしれません。でも、もう耐えられないんです私が。おかしくなっちゃいそうなんです」ミドリはジンドウをかわしてルーンから手綱をひったくった。そのままケルピーをプールの中央へと連れていく。ジンドウは思わずミドリに手を伸ばしたが届かなかった。
「でも、あなたならまだ間に合うかもしれません」ミドリはジンドウにそういうと、ふわりとケルピーの背にまたがり轡をはずした。それまでおとなしかったケルピーが後ろ足で立ち上がり鳥のような高い声で鳴いた。そして、背中にミドリを乗せたまま狂ったように流れるプールの上を駆け回った。
「姉さん、助けないと」あのままじゃミドリが危険だとジンドウはルーンに訴えた。
「あれが、彼女が望んだことだよ。二十年前のことにけりをつけるのさ」ルーンは騒ぐジンドウを放って夜のプールを疾走するケルピーをみつめた。ケルピーの走る速度が速すぎてジンドウには見えないだろうが、ルーンにはミドリが笑っているのがわかった。
「どうして彼女は笑っているのですか?」これから起こることを察したプリヤがルーンに訊いた。
「さあ、それは僕にもわからないな。解放されるからなのか、純粋にケルピーの背中に乗るのが楽しいからなのか。・・・・・わからないね、もしかしたらその両方なのかも」ルーンはそうプリヤに答えた。ジンドウは二人の会話を聞いてますます不安そうにミドリをみつめた。
ケルピーはますます速度を上げながらプールの中へ潜っていった。
「なあ、ほんとにまずいんじゃないんすか?」ジンドウはルーンの肩をつかみもう一度助けるべきだと訴えたがルーンもプリヤもただ見ているだけだった。ジンドウは悪態をつくと沈んでいくケルピーを追って駆けだした。躊躇することなくプールの中に入っていく。
「ミドリさん大丈夫っすか⁉」水をかき分けながら追いかけたがケルピーには追いつけなかった。ケルピーは背中に乗せた人間を食べる。生きた人間なら食べられれば死ぬ。じゃあ、死んで魂になった人間はどうなるのか?ルーンの様子とミドリの言動をみてジンドウは嫌な予感がしていた。なぜだか他人事ではないような思いがしてジンドウは必死にケルピーを追いかける。そして突然目の前で水柱が上がった。いつの間にか走るのをやめていたケルピーに追いついていたのだ。しぶきの中からケルピーが現れる。月明かりしかないプールでなぜかケルピーと水しぶきはキラキラと青く輝いていた。そして、ケルピーの背中には誰もいなかった。
「彼女は、ミドリはどうなったんだ!」プールから上がったジンドウはルーンを問い詰めた。ルーンの胸倉をつかみ揺さぶる。
「落ち着くんだ、ジンドウ君。これは彼女が望んだことさ。君が怒ることは何もないだろう?」そういってルーンは眉を寄せ、ジンドウの腕を振りほどいた。「・・・・・それに、彼女がどうなったかは察しがついているはずだ」
「ルーン様。ジンドウさんはミドリさんがおっしゃっていたことを自分に重ねたのではないでしょうか」冷たい態度をとるルーンをみかねてプリヤは思わず口をはさんだ。
「そんなことは分かっているよ。分かっているから気に入らないのさ」ルーンはジンドウを指さした。「彼女は彼女のやり方でけりをつけた。もう済んだことだ、やり直すことなんてできない。今君が考えるべきは君自身のことじゃないのかな?ジンドウ君。ミドリ君のことをみて怖くなったんだろう?でも君は選ばなくちゃならない。死後の身の振り方ってやつをね」
「・・・・・俺の選択が誰かの人生に影響を与えるかもしれないと思うと正直怖いっす。ミドリは伝えることができなかった思いで長い間自分と家族が縛られてたと思っていた。でも、伝えられたら、伝わったら逆にその言葉で縛ってしまうんじゃないかって。ミドリはそれが怖かったからあんなことをしたんじゃないかって」ジンドウの声はだんだん弱々しくなっていった。「確かめたかったんすよ・・・・・」そのあとの言葉は続かなかった。
「悩む必要なんてないんじゃないかな。何も告げないまま、伝えないままだとどうしようもないやり場のない思いが人の心を縛るかもしれないけど、君の気持ちを知ったうえで留まる思いがあるのなら、それは君が思っているよりも素敵なことだと僕は思うね」ルーンは少しくさいセリフだったかなと頭を掻いた。
「それが、誰かの人生に影響を与えるかもしれなくても?」
「それは君の自惚れだよ。人間は忘れる生き物さ」良くも悪くもねとルーンはジンドウに笑ってみせた。
ミカは一週間ぶりの喫茶店で一週間ぶりにインチキくさい凸凹の外国人と顔を向かい合わせた。古びたシーリングファンがBGMかのように静かな店内にカタカタとリズムを刻んでいる。
調査の結果?報告を聞かされたが、話が進むにつれてミカの眉間のしわと疑念は深まってった。むしろ別の懸念まで浮かんでいた。幽霊に人間を食べる怪物、それに天狗まで出てきた。まるで漫画や映画のような非現実的なストーリー。それを真面目腐った顔で真剣に細かなことまで話してる。からかわれているのではなく本気で危ない人たちなのかもしれないと自分で調査を頼んでおきながら勝手なことを思っていた。
「そんなわけで少し変な流れにはなってしまったけど君の友人を溺れさせた原因はもうあのプールにはいない」ルーンは初めに会った時よりも機嫌がよさそうだった。この一週間に何があったのかを饒舌に語った。「何か質問はあるかな?」
「・・・・・えっと」質問もなにも。「その話、信じろと?なにか証拠とかはないんですか?」現実とは思えない話の証拠。ミカはこの返しにるーんはうろたえるだろうと思っていた。幽霊が起こした事件に証拠なんて用意できるはずがないのではと。
「まあ、当然の反応だね」しかしルーンは動揺する様子もなく短く息をつくと背もたれに身を預けた。「証拠と呼べるかは君次第だけど、信じるにたるものは用意してあるよ」そういってルーンは立ち上がった。ミカと一緒にルーンを見上げたプリヤの手を引き立ち上がらせる。「終わったら教えてくれ」ルーンはそういいながらプリヤの手を引いてカウンター席に方へ向かった。
ミカには何が終わったらなのかさっぱりだったが、視線を向かいの席に戻した瞬間、すべての疑問がどうでもいいものになっていた。
「よお、久しぶりだな」そこには照れ笑いしながら頭を掻く死んだはずのジンドウが座っていた。




