第二章[表]影の足跡を辿る②
「ーーしのか…………それ…………」
「すげぇ、確かに外にいたやつだぜ、コイツ。駄菓子屋んときの『幽霊』もこんなんだったよなぁ……」
全身が衝撃で凍りつかんばかりに驚愕する裕也に対し、誠人は懐かしいマスコットキャラクターを見つけたかのような気の抜けた感想をしみじみと口にした。
しかしそれをいちいち指摘するほどの余裕はない。
目の前の少女。その足元で揺蕩う『黒』は、縮こまっているーーように見えた。黒いモヤに覆われて実際の輪郭を把握することは困難だ。確かに四足歩行の、犬とか猫とかイノシシだとか、そういう類の哺乳類に見えなくもない。
『三つの噂』。その一端『四足歩行の幽霊』そのものが目の前にいる。
しかし裕也の驚愕はその事実に対してではなく、それを彼女が従えているように見えることに対して。どよめく心に、踏み荒らすような怒りが食い込む。自らの首根っこを締め上げるようだ。
「拾ったの〜」
「…………え?」
「わたしたちを、この子が連れてきたの。……あとは、わかんない」
この子はその時に拾ったんだ、と。
簡潔に言った彼女が嘘をついているとは思えなかった。ーーいや、思いたくなかった。
だから、僕はーー
「んん?? じゃあよ、しのか。オレたちはもうやることねぇんじゃねぇの? こんなとこに来たのはそれを探すためだしよぉ。なんのためにここまで歩かせたんだよ?」
誠人の割と核心をつくような一言。こんな街外れの霊山を訪れたのは、今まさに目の前で揺らめく『黒』、『四足歩行の幽霊』の噂を解明するためだ。
それが『少女の手によって手なずけられる』というメルヘンチックでロマンティックに拍子抜けな感じで解決に近づくとは想像の範疇を一足飛びしているが、単純な成果としては充分以上であろう。
しのかは誠人の言葉に同意を示した上で、ただ、と続けた。
「この子、きっとわたしたちについて来て欲しいんだよ。ずっとそういうふうにしてきたんだと思う。きっと何か見せたいものがあるんだよ」
「は? そうなのか?」
と、裕也に視線を振る。知るか。答えたくもないし、知らない。黙殺した。
すると、まるで回答を示すかのように。『黒』は立ち上がり、周囲のニンゲンに目もくれずに歩き出した。向日葵が微笑む。
「それじゃ、先に進もっか〜」
ーーーー
「ここは……」
「なんか、やたら汚いとこ出たな。カンキョーハカイってやつか?」
「ここが……キミが行きたかった場所なの?」
不明瞭な『黒』が導くケモノ道。それなりの距離を歩いた森の先には開けたようなーー切り拓いたような空間が陽光の絹を被って隠れていた。
謂れなき暴力に晒された手負いの森。そんな景色が横たわってニンゲンを見上げている。
『黒』は痛ましい深緑の箱庭に感傷の一つもなく、ほろほろと舞い降る太陽への喜びも嫌悪も微塵となく。ただ歩みを進め、ちょうど中心を陣取ってみせると、またも身体を丸めて活動を停止した。
そこに意図はあったのか。暖光を一心に受ける位置で動かなくなった『黒』は、地に沈むように形を崩し、溶けて消える。
そうやって残ったのは、一欠片の赤水晶だ。しのかはそれを拾い上げる
振り返る視線。裕也とぶつかる。
少女は一瞬だけ目線を下げた。
何かを考えた上での結論か、天啓のような閃きか、それとも特に理由はなかったのか。
しのかは裕也に向かって手の中のものをゆるやかな放物線を描くように放った。それは暗い赤色にくすんだ水晶。片手で受け止める。
「わたしね。ほんっとに、これっぽ〜ちも何も知らないし、わからないの。ホントのホントだよ。…………だから、これはユウくんに預けます。ユウくんが、使ってあげて」
花びらみたいにくるりと回り、視線が交差しようと、それが揃うことはない。伺い知れるものなんて、どこにもない。
「ほんのお礼だよ〜。ここに連れてきてくれた、キミへのささやかなお礼。
……よ〜し、探索しないと〜!! マサくん!! いつまで木の枝振り回してるの〜!!」
さっさと誠人に駆け寄ってしまう少女を、少年は何色にもなれないどどめ色のまま追従した。今は、やるべき事が目の前にある。
木の枝を気の抜けた掛け声に合わせて振り回す誠人は、しのかの指摘に不満げだ。
「うっせぇこれには意味があるんだよ、意味が。……難しいな。ーーどりゃっ!!」
一際大振りに木の枝を振りかぶった誠人。だがその枝は振り下ろした先の木の幹には勝てず、盛大に折れて宙を舞った。残滓として幹に細い切り傷を残して。そしてその傷の僅かに下には、比較にならないほど大きな抉り跡が横一線に存在していた。
「やっぱし、こんな傷は普通じゃつかねぇよな。でっけぇ剣、エクスカリバーみてぇなやつがないと」
「……どこにあるんだそれは」
「オレたちの魂の中に。永劫不滅のロストテクノロジーだ」
ドヤ顔で妙ちきりんな軽口を叩く誠人は、もしかしたら裕也を気にかけているのかもしれない。結果として平常に近い軽口を返すことが出来た。
この空間は、傷に満ちている。
節目から砕けた枝が至る所に転がり、幹を風穴状に破壊されて倒れてしまっている木や、今まさに倒れようとしている木が何本もある。
そんな人為的なのか自然的なのか判別しがたい傷。ケモノの爪跡のような抉り跡も多くあった。
同形状の跡は裕也たちが立つ地面にもいくつも刻まれており、それらが熊でも出たのかと思わせるサイズ感なのが、不可解な恐怖を煽る情報であるだろう。
そうして穴だらけの森が、結果的により多くの太陽の恵みを大地に降り注がせている。
周囲を警戒すべきか、それともーー
その判断の材料になりうる確かな情報が一つ。少女の瞳には映る。
「……この傷、結構古いんじゃないかな〜? 鑑定できるわけじゃないけど、マサくんが今付けた傷よりずっと古く見えるような〜……」
そう指摘するしのか。
言われてみれば、たった今誠人が枝を振り回して作った傷跡は明るいような色で新鮮にも見えるが、辺り一面を塗りつぶす巨大な傷跡はくすんだ暗い色をしている。
誠人はまるで、オレはそれが言いたかったんダ! と言わんばかりに身体をくねらせて気持ち悪い。しのかは半ば強引に裕也に視線を合わせ、意志を問うた。
続行か、退却か。
「……もう少し、見て回ろうか」
「ーーふふっ、そう来なくっちゃ〜!! 行動は三人一緒にしましょう。些細な発見も危険も、三人寄らばの文殊の知恵だよ〜」
手を叩いて喜ぶ少女の提案で、三人固まって探索を始める。
どうやら不自然に開けたこの傷だらけの空間は、奥に奥へと続いていくようだ。探せば同様の場所が山中には散発的にあるのかもしれない。どのみち、時間はかかるだろう。
地面に落ちる影が平べったく伸びてきている。空が紅く染まるまでそう長くない。手早く行動しなければ。
足元に気を配り、周囲に気を配り、三人は一定の距離を保ちながら何かを、自分でも終着点の分からないナニカを探して歩く。
馬鹿馬鹿しいと言えば、そうなのだろう。
ただ、この森の状況が『普通』ではないというのは、それこそ『普通』に分かることでもあった。行動の理由はそれで足りているのかもしれない。
「そういえばしのか。『呪ルン』は使わないのか?」
「いや〜それがね。なんだかすっごいボヤけちゃって全然取れないんだ〜。調子悪いのかもしれないから、ちょっと休憩中〜」
しのかはビデオカメラを開き、画面を裕也に見せた。なるほど。確かにモヤがかってよく見えない。撮影しながら移動するのは少々危なっかしいだろう。
すると、なぜか中腰ーーを超えてほぼしゃがんでるに等しい体勢で歩いていた誠人が声をかける。
「……なぁ、ユウ」
「どうしたマサ。なんかそれっぽいもの見つけたか?」
「いんや、お宝も金銀財宝も原油も温泉も大発掘できてねぇけど。ちょっと見てくんね。変な落書き」
「変な落書き?」
「そそ、変な落書き」
相も変わらず木の枝を振り回す誠人は、その本能か、木の幹ばかりを重点して探索していた。恐らく絶対に出てこないものを四連発で羅列した後に挙げた発見に、裕也は眉根をひそめる。視線を追って、それを目を細めて見つける。
図形だ。
それはどこか文字のような、もっと言うなら象形文字のような。図形と文字の中間のような簡素なものが、機械で刻印したように小綺麗に刻まれていた。これは明らかな『不自然』だ。
「なんだコレって感じだぜ。パプアニューギニア語かぁ……?」
「…………これーー」
「これ、『ルーン文字』じゃないかな〜?」
「『ローマ人』?」
「いや『ルーン文字』。うーん、簡単に言ったら、大昔に使われてた外国の言語かな〜」
傍らからひょっこり首を突っ込んできたしのかは答えを言い当てた。誠人には伝わっていないし、恐らく知らないのだが。
『ルーン文字』
それはゲルマン民族の使用した最古のアルファベットであるとされ、三世紀頃からスカンジナビア半島北部で用いられていた言語体系だ。
八文字ずつの組に分れた 二十四文字から成り、三〜四世紀には黒海からバルト海沿岸に広まり、五世紀にはイギリスやドイツ一帯でも用いられたとされる。
のちにルーン文字は変化し、イングランドでは二十八文字。ノルウェー、スウェーデンでは十六文字となった他、点のあるルーン文字などのいくつかの変形を生んだ。
古いものは木板に書かれたために多くは消失したが、バイキングによって石や武器に彫られたものは現在も残っており、その総数四千以上のうちの過半数がスウェーデンで発見されているーー
「ーー北欧神話に出てくる最高神オーディンが、辛く厳しい修行の果てに持ち帰ったとされる『魔力』を有する文字ーーまあ言っちゃえば『魔法の文字』みたいな扱いをされることもあるね〜。十七世紀頃までは主に年代記や私文書の記録とかに用いられてたんだけど、呪術的な意味を利用して魔術や迷信にも利用されたんだ〜。起源にも色々あって〜、ゴート族って民族が作ったって説とか、北イタリアのエトルリア文字が由来だとか言われーー
「いやいやもういいもういい分かった分かったマサが死ぬから」
「…………あ……あば……あばばばばばばばばばばばばばばばばばばーー」
後光を幻視するほどに眩しい笑顔と共に饒舌に語りだした少女にブレーキパッド搭載されておらず、健康的日焼け少年は頭から錆で劣化したエンジン音を轟かせながらショートして煙を吐いている。
「ルーン文字を刻んだ武器、銀貨、石の十字架とかの様々な物品は北欧を中心にしてグリーンランド、ギリシアや旧ユーゴスラビアに及ぶ広範な地域に発掘されてーー
「ストォォォォォッップ!! ストォォォォォッップ!!!」
「ーーというわけで、わたしも今度ルーン文字を利用した占いとか儀式なんかに目いっぱい倒れ込んでみたいな〜、なんて考えたりするわけです〜。……いやぁ、実に興味深いね〜。森の中、荒れ果てた場所に刻まれたルーン文字!! 謎の匂いがこれでもかと漂う感じだよ〜」
ニパニパ太陽系少女は少年の慟哭を欠片ほどにも意に介すことなくーーいや、もしかしたら知覚すらできていないのかもしれないが、最後まで言い切って、件の木の幹を射抜かんばかりに見分している。
「……それで、その『ルーン文字』が刻まれてる理由だとか、その意味だとかに心当たりはあるのか?」
炭酸水から炭酸が抜けるような音を吐き出すブリキマシーンは放置して、裕也は一旦しのかの歩幅に合わせることにした。
「う〜ん、どうかな〜。『普通』に考えても、こんな所にルーン文字を書く意味はないと思うんだよね〜」
「僕もそう思うな」
「うん。だから『普通』じゃない理由があるのかもね」
「…………例えば?」
「例えば、ここで何らかの儀式が行われた、とか」
「………………」
「例えば、ここで『誰か』と『何か』が戦った、とか」
「……本気で言ってるのか?」
「いいや〜。ただ、白黒はついてない話だから〜。ーーわたしね、最近気になってたことがあるの」
しのかは真剣そのものの笑みで言葉を紡ぐ。
「この街には昔から色んな『ウワサ』があるでしょ〜? 突拍子もないような、現実離れしたような怪奇。わたしたちの部活はそういうの探求する部活だしね〜。
そしてそれらは『あるかもしれない』話なの。
どこかに居るかもしれない。いつか会えるかもしれない。それはすぐ家の近くかもしれないし、週一で通う行きつけの店だとか、近所の公園かもしれない。明日かもしれないし、今日かもしれないし、来月かも来年かもしれないし、昨日一昨日去年、もっと昔かもしれない。
今回だってそう。『三つの噂』の一つ、『四足歩行の幽霊』には実際に遭遇できて、謎の現象も今日だけでいくつも見れた。『あるかもしれない』ことが『あった』んだよ」
「…………何が言いたいんだ?」
「うん。でもね、『あるかもしれない』超常現象の話に比べて、それに携わる『関係者』の話はね、ちょっと違うと思うの。
『超常現象』があるなら、それをどうにかしようとする『人』がいるはずーーとわたしは思う。世の中には色んな人がいるから、そういう人もきっといるはずなの。
なのに。『魔法』とか『魔術』とか『呪術』とか、そういう話は世界中にいっぱいあるのに、そこに人が絡んでくると『あるかもしれない』じゃなくて『ないんだろう』って色が濃い話になってる。
……わたしね、最近これが何だかおかしいんじゃないかって思えてきたんだ」
「……それは、どういう風に……?」
「例えば、誰かがその存在を隠してる、とか。ーー『三つの噂』。ユウくん言ってみて」
「……『四足歩行の幽霊』『夜空を駆ける人影』『降り注ぐ流れ星』」
「わたしは二つ目が街に潜む陰陽師の仕業で、三つ目が謎の組織の実験だとかなんとか、言ったと思うんだけど。……実は無くはない話なんじゃないかって、今は思ってるの。
……それに御伽噺の中にもいくつか。例えば『ソラガミ様信仰』は何か超常的な現象だとかを祀り上げたものだと思うけど、年代の割にその信者達の視点が詳細には残ってないし……。
他には『勇者伝説』とか。明確に怪奇現象に関わる『人』で、物語自体も何だか浮いた感じがして奇妙に思えない? とっても怪しいと、わたしは思うのです 」
「そんなーー」
突拍子もない話、と。
形にした言葉が、本当に寒々しくて、紙よりも薄くて軽いと思えた。
「…………そっかぁ、わたし、変な話しちゃったね〜。御伽噺を間に受けちゃって。いや〜流石に部長とまでなるとそう言った妄想もギアが一段上がるもんなのかもしれなーー」
瞬間、森を揺らすほどの絶叫が響いた。
「!?」
「えっ!? なに?? ……今の声って!?」
「ーーっっ!? しのか!! マサがいない!!」
「ウソっ!?」
ゼンマイが壊れたブリキノダンスみたいなだった誠人が見渡す限りどこにもいない。そして今の叫び声は、確かにーー
ーー今の声!! 向こうから!!
「ーーちょっとユウくん!!?」
間髪入れずに裕也は走り出した。どうしてアイツはいっつもこう人を心配させるんだ。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな!!
胸を支配する感情を考えるのが怖い。理解するのが怖い。知ろうとするのが怖い。思い出すのが怖い。結びつけるのが怖い。なくしてしまうのが怖い。消えてしまうのが怖い。変わってしまうのが怖い。何もかもが、ずっと怖い。
「待ってユウくん!! 待ってーーーーーーーキャァァァァァァァァァーー」
ずっと横で、先より三音高い絶叫が鼓膜を切り裂いた。
「しの、かーー!!」
声の蛇口がねじれてしまったかのように音にならない。ひしゃがれて、パンクしそうな音しか出ない。
ただ脚が歪に前を向いていて、どこにも行けないのに後ろは向こうとしなくて。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーー!!!!!!」
ただその場所に戻りたくてーー
ーー足場がどこにもなかった。
「うぁ、あぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!!!!!!」
声を追って踏み出した脚が虚空を切り、沈み込む身体が異常事態を訴える。
少年は前後不覚のまま、崖のような斜面を滑り落ちて行った。




